BECAUSE OF YOU
――シン
その名を、いつもいつも受け入れてきた。学校では自分のことを『シン』と呼ぶ人はいない。まあ、クゥは気を遣って僕のことをシンと呼ぶけれど。
シンという名は『アキ』が呼んでくれる僕の、名前。
そう。『シン』はアキと僕の間の大きな傷だ。それを忘れないために、彼女は今日も僕をそう呼ぶし、僕はその名を受け入れる。
*
絵を描くのが好きだった。まっさらなカンバスに様々な色彩を落として、矮小な自分だけの『世界』を描くのが好きだった。だって世界は広くて、広くて広くて遠くて、シンにはその世界になにもしてあげられることができなかったから。
そう、『彼女』の世界にも。
「なんか描いてるの?」
「うん。もうすぐ完成」
カンバスは深い深い蒼で、しかし光を溶かしたような優しい色をしていた。アキは笑う。
「綺麗ね、これは海?」
「そうだよ。海の、底かな」
シンは瞳を細めて笑った。ペンを、筆を取り絵を描くことを教えてくれたのはあのひとだった。懐かしい。幼かったあの日、ペンを握れば白に滲むのは無彩色の闇だった。矛盾。撞着。しかし無邪気さが生んだ素直な闇は何も包含することなく、ただ綺麗だったように思う。絵画の知識を取り入れた今よりずっと。
良いとか、悪いとか。そんな批評など必要なく純粋にただそこに在った。
「あたし、あんたの絵好きよ」
「これは海の底なのに、光を欲する魚の絵だよ」
深海魚は、深海でしか生きられないというのに。
醜いその姿を、明るい陽の下にさらす事を望むなんて、馬鹿だ。
シンは笑う。
今はもう、あの真っ白な闇さえ失くしてしまった。意識した途端色彩というものは意味を持ち、透明さを失うのだ。
――ねえ、かあさん
昔読んだ絵本を覚えてる?ちいさなしろねこのお話。
誰も居なくなった城にひとりで、たったひとりで、大事なひとの帰りを待ち続ける猫のお話。あの絵本の結末はどうだった?貴女は覚えているかい?それとも忘れてしまった?
「アキ」
シンはにこにこと絵を眺めていたアキの名を呼ぶと、弱々しく笑った。
「アキはまだ死にたいと思うことがある?」
「え……?」
その言葉に、彼女は咄嗟に左手首を右手で握りしめた。
「な……んで?」
「知ってたんだ」
咄嗟に古傷のある手首を隠そうとする右手をゆっくりとほどき、シンは優しくアキの手を握る。
「これは、僕のせいでしょう?あの頃アキが死にたくなったのは」
――僕のせいでしょう?
「ちがう。ちがうわ。ちがうの、シン」
「かあさんが僕を産んだからでしょう?」
シンは優しく微笑んで言葉を紡ぐ。
「知ってたよ」
「ちがうわ。ちがう……違う、の……」
アキが泣き出す。ちがう、ちがうの。あなたが憎いからじゃない。姉さんが憎いからじゃないの。嗚咽の合間に彼女は呟いた。
「シンは、悪くない、悪くないの」
「うん、ありがとう。アキは優しいね」
震える彼女の背を抱きしめて、シンは瞳を閉ざす。深海にいるのに、光を欲する魚。ねえ、アキ。それはまるで僕たちみたいだね。
ないものねだり。
それを誰かのせいにして、そうしないと生きられなくて、息苦しくて。
「僕は大丈夫だよ。もう、夢も見ない。怪我をしても、あの頃のことを思い出すこともないよ。なにも感じないんだ」
アキは泣きじゃくりながら答えた。
「嫌よ、そんなの。痛いのは悲しい事よ。苦しい事よ。なんであんたはそうやって痛みを無視するの?」
アキはシンを抱きしめ返した。強く強く。しかし震えながら。
「リホねえさんのせいでしょう。あんたが痛みを無視するのは」
「違うよ……」
シンはアキの肩越しに己が描いた絵を見やる。完成したら、名をしたためなければ。僕の名を。
Shinではなく。Sinと。
『罪』と言う僕の名を。
100625
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