いない、いない
ただ一緒にいたかっただけなんだ。本当に理由はシンプル。僕は名前なんかどうだっていい。自分のことに執着できないのは昔からだ。
ねえ、アキ。でも僕はアキにもっと自分に執着して欲しいと思ってる。だからアキが『アキ』を放棄しないように名前で呼ぶんだ。
アキ、アキ、アキ、
泣かないで、アキ。
*
リホ。彼女という存在は呪縛のようだとアキはいつも思っていた。ひとりの人間がひとりの人間の人生をここまで縛るものかと、呆然とすることもしばしば。
「姉さん」
アキはベッドサイドに置かれた写真立てをぼんやりと眺めた。映っているのは母とアキそしてシンだ。姉の姿はない。姉は――リホは今や母にとって記憶からなくしたい存在だった。だから、この写真にはいない。
『母さんが僕を産んだからでしょう』
『アキが死にたくなったのは』
ああ、そうね。そうよ。否定なんかしないわ。姉さん、貴女のせいよ。――でも、でもね。シンを産んでくれたことは感謝してるの。矛盾してるけど、ほんとなのよ。
アキは苦笑する。
「本当にあたしは身勝手ね」
リホが『子供を身ごもった』ことは恨んでる。でも『甥という存在』に至福を感じている。
「矛盾よね」
あの子を当てつけのようにシンなんて呼んで、怪我への無頓着さに貴女の影を見て怯えて、でも名前を呼んでくれるのが可愛くていとおしい。
「アキー?ごはんできたよー」
ぱたぱたとスリッパの音を響かせながらシンが呼びに来る。細見の身体にやけに明るい色のエプロンをして右手でスプーンをぷらぷらと揺らしている。
「ごめん、味見したんだけど。ちょっと濃い目になっちゃった。何回も味見してるとわからなくなっちゃうんだよねー……」
エプロンにはトマトソースがはねている。なかなか返事をしないアキを心配して顔を覗き込んでくる。
アキの顔色は悪い。
「アキ、だいじょうぶ?」
シンが顔を覗き込んだ。どこまでも無邪気な瞳が笑う。
彼からはあったかい、夕ご飯の香りがする。それはいつかこの子が苦手だと笑った、ぬくもりの香りだとアキは思う。アキの母がそうしてくれていたように、一生懸命ごはんを用意してくれる。好物をつくろうとしてくれる。あったかい、もの。
にがてなのに、あたしには惜しみなくそれを与えようとしてくれる。
「シン……」
「ん?」
「……あたしね」
「うん」
「怖くて」
「うん」
「姉さんが……あんたが怖くて」
「……うん」
「もう痛いのを……無視して欲しくない」
両手で顔を覆う。涙は流れない。でも顔を見られたくなかった。ようやく、本音を話せると思った。
「うん、ごめんね」
シンはアキを抱き締める。
「ごめんね。アキ。でも、こうしないと僕は母さんを『なくして』しまう」
母さんは僕を殴るから、我慢できなければあのひとの傍にはいられなかった。
「でも僕はもう、痛くないよ」
「っ……くっ……う……」
嗚咽するアキの髪を撫でて、シンは笑う。
「大好きだよ。アキ」
アキが泣いてくれると、本当に痛くない気がする。そんな風に告げるシンにアキは言う。
「うそつくな、馬鹿ね。――ハル」
ぎゅっと甥を抱きしめ返してアキは彼の名前を呼んだ。この名を呼ぶのには勇気が必要だった。アキも、そしておそらくそして彼も。
少年の瞳が大きく見開かれる。
「ア、キ……」
「ハル、あんたは強がりね」
「ア、キ」
ハル。それが彼の本来の名だった。
漸く名前を取り戻した少年は、震えた声でアキを呼ぶ。
「ハル、あんたは自分が思ってるより強くないのよ」
だって、ハル。
泣きそうな顔してる。
111203
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