走るのは、

 その優しいひとは笑ったわ。笑って言ったの。秋の次に好きな季節は春。だから名前はハルね。ふふ、女の子だったらアキにしたかも。でも私にはアキがいるものね。うん、この子が男の子で良かった。アキとハルがいれば、幸せ――。
 
 あたしはその言葉を何回も反芻するの。なんで?幸せだって言ったじゃない。言ってたじゃない。
 ねえ、知っていた?あたし思うのよ。強くなることは弱くなることだって。強くなればなくしてしまうものがたくさんあるって。だって弱さを忘れたら、人間に何が残るのかしら。







「ご用件は」
「シライリホとの面会です」

 人の良さそうな受け付けの女性はシンの言葉ににこりと笑って『面会届け』と書かれた紙を取り出した。

「かしこまりました。ではこの紙にお名前と現在時間、そして患者さんとの続柄を書いてくださいね」
「はい」

 シンはペンを受け取った。すらすらと彼はペンを動かす。
 

 名前 シライ ハル
 時間 15:35

(続柄……)
 
 そこでペンが止まる。

「どうされました?」

 きっと自分は変な顔をしていたのだろう。受け付けの女性が訝しげに問うてくる。
 
 続柄 息子

 シンはそっけなくペンを走らせて、用紙に書き込んだ。






「こんにちはーアキさん」
「あら、クゥ。どうしたの?」

 アパートの前で、制服姿のクゥがちょこんと立っていた。アキに向かっていつもの何を考えてるのかわからない笑顔を見せる。

「日曜日なのに、制服?」
「部活だったんですよー。ブラスバンド」
「意外。クゥってバスケ部みたいなイメージあったわ」
「うんー……まあ、運動も嫌いじゃないですよー」
「ま、いいけど。どうしたの今日は」
「シンくんに会いにきたんですけど、いなくて」

 かしてたゲーム返して欲しいんですよ、とやはり笑う。

「で、帰ろうかなーと思ってたらアキさんが来て」
「確かにグッドタイミングよ、あんた」
「ですよねー」
「残念だけど、シンはいないわよ。出かけてるの」

 アキの言葉にクゥは一瞬きょとんとしたあと瞳をす、と細めて呟く。

「『右手』のところですか」
「え……?」
「いえ、なにも」

 ひゅお、と風が吹く。アキとクゥの髪を浚うように高く高く舞い上がる風。

「ねえ、アキさん」

 軽く瞳に掛かったクゥの前髪から、いつもとは違う大人びた瞳が覗く。

「なに?」
「貴女は、なにがしたかったんです?」
「なにがって…?」

 アキは知らずの間に右手で左手首を隠すように握っていた。

「彼を――ハルくんをシンなんて呼んで、彼がママを愛するのを拒んで、たくさん我慢させて麻痺させて。それでいて彼を怖がるのは何故ですか?」

 冷たい空気を肺腑に取り込んだように、アキはだんだん身体が冷たくなっていくのを感じた。きんきんと冷えていくのは身体だけではない。

「あたしは――」
「ハルくんは、いいえ、シンくんですか?彼は言ってました。母親は右手みたいなものだって」
「みぎて?」
「なくすと困るけど好きとは違う」
「……っ」
「『自分の一部』だって」

 クゥの瞳は笑っていない。彼女は確かにアキを糾弾していた。明確なる意志をもって、アキに怒りを向けている。

「貴女がハルくんのママを赦さない限り、ハルくんはきっとずっとアキさんの前で『シン』を演じ続けますよ」
「あたしは、許せないの」

 そう、許せない。例えその意地がシンを傷つけても。どうしてもリホを許せない。

「あたしにだって理由はある。理不尽だろうがなんだろうが、あたしにも譲れないものがあるの」
「……」
「あたしはシンが――ハルが大好きよ。でもね、あのひとの一部でもあるの。ハルは姉さんの存在を明確にさせてしまう」

 リホという人間がこの世界にいるという事実。彼女の血を引き、彼女からすべてを受け継いで後生までリホの存在を存続させる存在。

「あたしは、怖いの」
「ハルくんが?」

 クゥが初めて悲しそうに問うた。

「怖いのよ……」
「アキさん……」
「だって、昔からあのこ、怪我しても全然泣かなくて」

 表情一つ変えない。憮然としたまま、血を流したまま、彼は淡々としている。

「それを見る度、姉さんがあのこにした仕打ちを思い出すの」

 あのひどい、


 ひどい出来事を。


12.01.06

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