追随の赤
『廃棄』
いらないと言えるのは
捨ててしまおうと言えるのは
お前が贅沢な人間だから
***
高三――そんな時期に琥珀は本格的に絵を描き始めた。思えば部活も美術部だったし、家でがりがりと落書きをしているのを何度も見ていたから不思議ではなかった。
この間見せてくれた絵を思い返せば、彼は絵を描く事が向いていると思える。だから、琥珀にとってすきな事が増えていくならば俺は嬉しかった。単純に。
それは別にいい。
「海斗、お兄ちゃんは絵を始めるんだって。貴方も同じように描けるようにしておいてね」
問題はこっちにあった。
そんなことを言いながら母さんは俺の頬を一撫でする。人好きする笑みを浮かべて、母親の顔をして、でもどこかネジの飛んだ女の目をして彼女は俺に画材を押し付けてただわらう。
「わかったよ、母さん」
両手一杯のあれやこれやを見てこっそりと溜息をつく。
おかげさまで多趣味になりましたとも。それにしても琥珀のブームを逐一拾う親もたいがい不気味だと思う。それは音楽だったり、スポーツだったり、今回のように絵だったりした。
でも悪いことばっかりじゃなかったんだ。
琥珀はスポーツが駄目だったから長続きしなかったけど、俺はスポーツが好きになった。
きっかけはなんでも琥珀で、終わりも琥珀だった。
「最近は、お兄ちゃんの真似が上手ね?」
「母さん、俺は――」
「海斗」
はっとして口を噤む。母の瞳にちらりと怒りの色が滲む。
「『僕』はちゃんと母さんの言うことをきくよ?いつもそうでしょう?」
声音を落として、言葉尻をやわらかくして微笑めば、母もほっとしたように微笑む。
「うん。そうね、お兄ちゃんにそっくり。すごく――そっくりね。双子で、よかったわ」
『こんな時だけはそう思う』という言葉が言外にありありと滲んでいた。
「うん、僕もそう思うよ。母さん」
それだけが俺の価値だもん。
だから、お願いです。壊れていかないで。
双子に生まれてごめんなさい。どちらを愛せばいいかだなんて、困らせてごめんなさい。
(普通の親はきっと当たり前に二人とも愛せて、でもその当たり前がどれだけ貴いものなのか希少価値のあるものなのか、嗚呼、確かに俺は知っている)
「いい子――。本当にいい子。琥珀が二人いるみたいで、嬉しいわ」
母さんは遅効性の毒を含んだ唇でたくさん愛を囁いては、俺を殺していく。
「そう。なら良かった」
返事に満足したのか、母さんは外出すると言っていなくなった。
「さて、テレビでもみるか」
先程押し付けられた画材を一通り抱えて居間に移動する。琥珀は今日は笹岡とデートだ。いいね、リア充。羨ましい。
「とりあえず、どうしようかな」
テレビを付けて、旅番組を流しながら押し付けられた画材で、絵を描いてみることにする。たいていのことは器用にこなせた。とりあえず適当なデッサンでもしてみようとこれまた押し付けられたカッターで鉛筆を削る。
『美しい海に囲まれたギリシャ――そこは原色の屋根が太陽の光を――』
旅番組のナレーションを聞きながらぼんやりと考える。
虐げられるのは俺で良い。だからめいっぱい琥珀を愛してあげて欲しい。琥珀を愛している両親はすごく好きだ。俺にも優しいし、琥珀も幸せそうだから。
(あいつはほんと文系だよなあ。とにかく俺とは真反対を行くよな)
カッターで鉛筆を削るのなんて初めてかもしれない。
(うわー削りずれぇ。絵とか画材とかいろいろ良くわかんないけど、カッターで鉛筆削るの普通なの?つか専用の道具とかあんの?鉛筆削りで良くない?)
いろいろな事を考えながら、俺は追いかけてくる自分の理性から逃げる。
(別にやればきっと絵だって好きになるよな。ネットで色々調べてみるか。こはが落語ブームの時はきつかったよなあ、いまいち興味なくて)
手が震えているが、気のせいだろう。だって、なんてことない、こんなことは。
(いっそ、こはに訊いてみようか?絵の事とか、鉛筆とか絵の具とか)
なんか息が苦しい?
いやいや、気のせいです。俺は正常です。風邪なんかひかない、バカで健康なのが俺の自慢です。
(そうすれば、あいつみたいになれる?かあさん、とうさん、――)
「あ――」
追いついて来た理性が俺の感情を覆う。後ろから抱きしめてきたお優しい理性がにこにこと笑いながら耳元で囁く。
『ああ、なんて可哀想なんだろうね。惨めな搾取人形。お前を逃がしてやるもんか』
お願いです。どうか壊れていかないで。
俺という緩衝材があれば貴方達はきっとすばらしい親でいられるでしょう?
呼吸を差し出して、あなたたちを愛していくから、赦してよ。
「つっ……」
無視して、殺して、震えを隠していた呼吸が再び俺を襲う。吸っても吸っても酸素は入ってこない。
俺の後ろで理性がまた嗤う。まさに今、俺の喉を抑えているのはこいつなのだ。
「ちくしょう……つっ……う、」
握っていたカッターを思いっきり太腿に突き立てる。大した太さも鋭さもない刃は大した刺激にもならない。俺は力を込めて、汚い傷口を更に抉って、ねがう。
お願いだ、まだ壊れるな、俺。
痛みに集中しようと目を閉じていれば、無情にも玄関から物音がする。
「ただいまーやっぱり休みの日は映画館混んでるよ」
最悪のタイミングで琥珀が帰ってきた
「海斗、母さんは――って、おい、どうしたの!?」
喉を抑えて喘ぐ俺を見てすぐに何かを察したらしい。琥珀は荷物を放り出して俺に近寄る。
「どうした。具合が悪いの?お前、それにその脚……」
「ちがう……いいから、ほっとけ、」
やっとのことでそれだけ告げながら、触れてこようとする琥珀を手を上げて制止する。その手を掴んで、琥珀は俺ごと抱きしめた。
「落ち着いて。僕が傍にいるから」
琥珀はぽんぽんと背中を叩く、自分が情けなくて振りほどこうとすればするほど、彼は強く俺を抱き締める。
「どうしたのか、兄ちゃんに教えてよ」
数分早く生まれただけのくせに何が兄ちゃんだ。
その数分が違うだけで、お前は『海斗』だったかもしれないくせに。
――はあ、はあ、はあ
自分の呼吸音だけが、やけに大きく耳に響く。
『琥珀が二人いるみたいで、嬉しいわ』
母の言葉に俺はいない。
あの人の心のなかにも、いない。
あのひとが産んだのは、こはく、だけ。
「――……」
ひゅうひゅうと絡むような呼吸を繰り返しながら、手に握ったままだったカッターを兄の肩越しに見る。自分の血で汚れたそれを今ここで、兄に突き立ててしまえば自分は楽になれるのだろうか。荒い呼吸と脚の鈍い痛みを抱えたまま、そんな風にぼんやりと俺は思う。
チキチキと音を立てながらさらに刃を出して、兄の背中にそっと当てる。琥珀は少しだけびくりとして、背中に突き付けられたそれに気づいていながら何も言わなかった。
「兄さん」
そう呼べば、琥珀がもう一度びくりと震えた。
普段使わない呼称を使って、俺は彼を拘束する。俺を抱く琥珀の腕が強張るのがわかる。そのくせ、こいつは俺を離そうとはしなかった。
――無抵抗は罪なりや?
太宰の有名な一節がふと浮かぶ。流され流され、ただ人に嫌われたくないと道化を演じるあの主人公と俺にどんな大差があるというのだろう。
ああ、無抵抗は罪だ。
こいつも俺も罪人だ。
ぐっとカッターを強く握りしめなおす。
魔が差す、というより『それ』に堕ちる前になんとか呼吸を落ち着けて、琥珀の肩にぐりぐりと額を押し付ける。
バニラのように甘ったるい、煙草のにおいがした。俺はこいつが見かけほど真面目ではないことを知っている。そしてそれを表に出すことがないことも、知っている。
「お前は、俺を憐れむな」
「……――海斗」
「お前には幸せでいてほしい。だから、憐れむな」
だってお前が幸せでない世界になんの意味があるというんだ。この家と家族はお前のためにある。俺はお前を幸せにする為に生まれてきた。
「琥珀のためなら、なんだってする」
「海斗、」
「ほんとに、なんでもするんだ」
「おい、」
「今じゃピアノも弾ける。運動もできる。絵だってお前くらい上手くなる」
「海斗っ!」
「いざとなれば人だって――」
「もういいから!」
叫ぶように琥珀が言う。兄はカッターを握りしめたままの俺の手に自分の手を重ねて、
「――お前は本当にやりかねない。僕はそれが心配なんだ」
「ごめんね、重度のブラコンで」
冗談めいた口調でははっと乾いた声で笑えば、琥珀が少しだけ震えた。笑ったのか、泣いているのかはわからなかった。
「ねえ、お前は俺が怖い?」
「怖くないよ」
「嘘。怖いくせに」
ねえ。
『琥珀』しか『海斗』を見てくれないんだから、逃げないでよ。
こんな俺を見捨てないで。
優しいんだから、最後には父さんより母さんより、笹岡より、俺を選んでくれるでしょう――?
「兄さん――」
どうして捨てられないんだろう。
あんな母親も、父親も、この兄も。
「もう、ダメだ。見てられない。無理だ」
兄の震える手が俺の頬を撫でて、初めて自分が泣いていることに気づいた。
「このままじゃ、僕もお前もダメになる。もうやめよう。こんな家、どうだっていいじゃないか。あんな親、いらない」
兄は今度こそ、泣いているようだった。
ひときわ強い力で抱きしめられて、苦しかった。兄を悲しませてしまう自分が大嫌いだった。琥珀を幸せにできない自分なら――いらない。死んでしまいたい。
「逃げよう――ここから」
このひ弱な兄のどこにそんな力があったのか。
彼は自分の鞄に財布やらなにやらを手当たり次第に突っ込むと俺の腕を引いて、家を飛び出した。
それはあまりにも短絡的で――衝動的な。
身に持っているのは若さだけ。
手のひらにあるのはきょうだいの手だけ。
心のなかにあるのは――逃げる事だけ。
そんな、馬鹿馬鹿しい、愚かな反抗だった。
きっかけはなんでも琥珀で、終わりも琥珀だった。こいつが差し出したエンドロールに、俺は逆らう術を持たない。
2016/11/03
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