サイハテの蒼

『神様』

それでも「幸せに」と願うのは
俺のわがままでしょうか


***



 琥珀はただ黙って俺の手を引いた。前を歩く彼の背は、同じ歳、同じ時間を過ごしてきたきょうだいのくせに、やけに大きく見えた。
 飛び乗った電車に何時間揺られたのかわからない。駅名も地名も知らない場所で、適当に降りた。そのまま駅前の小さなベンチで、寄り添って夜を明かした。
 陽が差し、明るくなると琥珀は黙って俺の手を引いて歩き出す。


「兄さん」
「……なに」
「怒ってる?」
「別に、怒ってないよ」
「これから、どうする?」
「どうしようか。海斗はどうしたい?」

 そう俺に問うた琥珀は、疲れたような諦めたような――それでいて何かをふっきったようなすっきりした顔をしていた。

「とりあえず、ここをぶらぶらしてみよう」
「そうだね」

 此処は俺達の住む街と違って、かなりの田舎だった。
 港町、というのか。内陸に住む俺達は嗅ぎなれていない潮風に、すんと鼻を鳴らした。

「ねえ、海斗見て。神社があるよ」

 雑木林を抜けると、上るのも大変そうな階段の上に鳥居が見えた。その階段に沿うように植えられた木々からは夏の、草の立ち上るようなにおいがする。

 蝉しぐれが、頬に、首筋に、背に、重たく滑り落ちる。

(暑い――……)

 八月の陽射しは狂暴だ。肌に刺さる。

「お参りする?」
「好きにすれば」

 女子じゃあるまいし、パワースポットには大して興味がない。それでも琥珀が行きたいというのなら、ついていく。
 階段を上る時も、兄は俺の手を離さなかった。

「ねえ、兄さん」
「なに」
「いい加減、手、離して欲しいんですけど」

 もう18だ。大人じゃないけど、子どもでもない。むさ苦しい男が手を繋いでたって気持ち悪いだけだ。兄は足を止めて振り返る。階段の一段、二段、俺より少し高い位置にいる兄越しに、真っ赤な鳥居が見えた。
 兄は瞳を細めた。文字通り、仕様もない子どもを見つめる目だった。

「お前が落ち着いたらね」
「は?俺は落ち着いてるけど」
「お前、さっきから僕の事『兄さん』としか呼んでないよ。気づいてる?」
「……っ!」

 言われてはっとした。空いている方の手で、口元を覆えば琥珀が笑う。

「わかりやすいね、お前。ほんと、わかりやすく弱ってる。『兄さん』なんて、普段呼ばないくせにね。生まれてこの方、弱ってるときにしか僕をそう呼ばないよ、お前は」
「……こは」
「いいけどね。事実、僕はお前の兄ちゃんだし。頼ってくれるのは嬉しいよ。でもそれと同じくらいお前が心配」

 お前が心配。
 琥珀はいつも俺にそう言っていた。俺だって自分がそこまで強い人間だとは思っていない。自分の強みも弱みも自覚しているつもりだった。

「海斗、脚は痛くない?」
「ん、ああ、これ?大して深くないし」

 カッターで付けた傷を撫でる。

「あのまま僕に気づかれなかったらお前その傷の事も隠してただろう。ほんと、ぞっとしないね」
「ごめん」
「謝るのは僕のほうだ。少なくとも僕は自分を過信してた。今もそう。お金もなにもないのに、勢いだけでお前をこんなところまで連れてきちゃったしね」
「……ん」

 兄は再び背を向けて階段を昇り始める。

「――どうしようか、これから」

 そう俺に問いながら、琥珀のなかではもう答えがでているのではないかと、俺は思った。

「――どうしようもない兄貴で、ごめんね」

 手を引く彼の手が、震えている。
 
 いつだって琥珀は一歩前にいて、俺をかばって生きてきた。ほんの数分早く産まれ、親に兄たれと言われて生きてきた。さらにそこに、母と俺が付加価値を押し付けた。

(――俺の、カミサマ)

 結局のところ、俺が琥珀を幸せにしようともがけばもがくほど、彼の首を絞めていくことになるのだ。
 切り離せない『きょうだい』という咽かえるほど濃い血が、いやらしく糸を引いて琥珀と俺を締め付ける。

「あと少しだよ」

 やがて真っ赤な鳥居をくぐれば、こじんまりとした神社の境内がひんやりと俺達を迎えてくれた。

「はあ、はあ、けっこーきつい階段だったね……」
「あれで疲れたの?体力なさすぎ」

 膝に手をついて琥珀は息切れしている。俺は体力バカなので、大して堪えなかった。

「で、なんのご利益があるんだ。此処の神社は」

 とりあえず琥珀を放置して、俺は賽銭箱の前にある看板を読んでみる。

「ふーん……」
「……なんのご利益があるって?」

 ようやく呼吸が落ち着いてきたのか、少しぐったりしながら琥珀が訊いてくる。

「縁結びだって。琥珀には必要ないじゃん」
「縁結びかあ……」

 そう言った琥珀が切なそうにわらう。彼が誰を思い浮かべたかなんて、すぐにわかる。

「これからのみさきには、必要かな」

 神社なんて縁がないし、作法とか儀礼とかさっぱりわからない。他人の為に縁結びのお参りをするのは果たして正しいのか、効果があるのかとか色々突っ込みたい気持ちがあった。
 琥珀の言う『これから』に俺と彼がいないことをなんとなく察しながら、俺は言う。

「笹岡が心配?」
「ん。ちょっとみさきに電話してきてもいい?」
「あー……してくれば?」

 俺は琥珀に引きずられるまま家を出たから、財布すら持ってない。琥珀は鞄にスマホを入れっぱなしにしてたけど、充電器までは持って来てないから電池が切れたらそれで終わりだ。

「ちょっと待ってて」
「おう」

 琥珀は距離を取って鳥居の下で電話をかけ始めた。
 俺は彼に背を向けたまま、琥珀の財布から五円を取り出して賽銭箱に放り投げた。
 手を合わせて、瞳を閉ざす。そしてそっと耳を欹てる。

「――……うん、そうなんだ。ごめん、心配かけて。そう、親子喧嘩。あはは、ごめん。海斗と一緒に少し頭冷やすから」

 いつもと変わらぬ、穏やかな声。

「――……うん、うん、大丈夫。ごめんね、うちの親が迷惑かけて。知らないって言っといて。大丈夫だから。みさきは無理してない?あんまり勉強しすぎないで」

 笹岡は、気づくだろうか。
 琥珀の真意に。
 これから俺と彼が何をしようとしているのかに。

「――みさき」

 蝉の声と、夏のにおい、緑色に凝った夏の陽射しを抜けてとおって、兄の声はちいさく響く。

「みさき――うん、うん、僕は平気だから」

 都度に、彼は何度も笹岡の名を呼んだ。僕は大丈夫だから、平気だから、ただ君が心配だ。そう言いながら彼女の名を呼ぶ。

 声が――いとしいいとしいと、鳴いている。

 兄は俺に惚気話をする事がなかったが、そういえば笹岡からも兄の惚気話を聞いたことがなかった。
 でもそれは当たり前なんだと思う。こんな風に、明確に言葉にせずとも琥珀はいつでも笹岡に好きだ好きだと叫んでいる。
 他人に承認してもらわなければ愛されている事を実感できないやつらとは違う。
 文字通り、彼等はふたりの世界で見事に完結していた。

 そんな二人が俺は誇りだったし、言葉にはしなかったけれど大好きだった。

「じゃあ、またね――みさき」

 電話を切っても、兄は鳥居の下から動かない。

「琥珀」
「――……ごめん、大丈夫だから」

 平気、ごめん、大丈夫。琥珀の得意な三拍子も今日は頼りなげに響く。

「『またね』なんて、嘘ついちゃった」

 目元を右手で覆ったまま、彼は俯いた。

「――ごめん」

 彼の頬を、涙が伝う。

 それは、誰に対しての謝罪なのか。
 きっと笹岡に対してであり、俺に向けて言われたものでもある。

「……琥珀」
「海斗、隣に」

 琥珀に促されるまま、俺は隣に腰掛ける。

「もう駄目だね……僕たち」
「そうだな」

 琥珀が俺の手を引いて家をでた瞬間から、こいつの目指す結末にはなんとなく気づいていた。仮に家にあのまま居たとして――そして俺があの状況に耐えられたとしても、琥珀がもう持たない。

 琥珀は自分を過信していたと言った。
 その通りなのだ。

 こいつは耐えられると思っていたんだ。
 両親の横暴さにも、俺の馬鹿みたいな真似にも、そして求められる『カミサマ』の役割も、なにもかも。

 涙を拭って、呼吸を落ち着けた琥珀に俺は言う。

「なあ、まだ間に合うよ」
「何が」
「琥珀だけでも、戻れば」
「駄目だ」
「あの家にはお前が必要でしょ。笹岡にも」
「……」
「特に笹岡は、お前がいないと生きていけないんじゃない」
「はは、僕がいなけりゃ生きていけないなんてみさきに失礼だよ。もし僕が死んでも、案外あのこは大丈夫じゃないかなあ」
「そうか?」
「みさきはいっぱい泣くだろうけど――ちゃんと前を向いて歩いてくれるよ」

 その言葉が数年後、事実になるとは当時の俺は思わなかった。


***



 琥珀がまた俺の手を引いて、立ち上がる。俺はそのまま後ろを歩く。階段を下りて、俺達はそのまま海を目指した。
 この辺は波が荒く、遊泳禁止らしい。浜辺には人の姿は見えない。

 きらきらきらきら、俺たちには不相応なくらい綺麗な海。
 靴を脱いで足を浸せば、細かい砂が指の間をすり抜けてくすぐったい。そのまま、沖へと進む。

 潮風がねっとりと粘るように臭う。

 生き物のにおい。
 生き物が、死んでいくにおい。

 隣にいる兄は、まだ俺の手を離さない。
 果たして今、手を引いているのはどちらなのか。兄なのか、俺なのか。

 昼の気怠い海と死臭。絡めた指先から伝わる震えと熱さ。兄が俺に与えてくれるどうしようもないくらいの愛情は――ひどく頽廃的で、背筋がぞくりとした。

 ふたりでゆっくりと足を進めた。腰のあたりまで水が来て、あと一歩踏み出せば深みに落ちるだろうという所で俺達は足を止める。

 琥珀はようやく口を開いた。

「……海斗さ、アメリカに住んでたとき向かいに住んでたドロシーおばさん憶えてる?」
「ん?ああ、憶えてるよ」

 話の方向性を掴み損ねたまま、俺は頷く。
 海水が跳ねて口の端を濡らす。しょっぱい。

「一人娘のシャノンちゃんと僕達仲良かったじゃん。で、遊びに行くといつも痛いくらいハグとキスしてくれてさぁ」
「ああ、あれは強烈だったよなー」

 思い出しては笑えてくる。
 燃えるような赤毛にでっぷりとしたお腹。そばかすの浮いた顔でいつもにこにことしていたあの優しいおばさん。

「『なんて可愛い子たちなの、天使みたい!もう、大好き!大好きよ!』って叫びながらだったもんな」
「だよね。でもさ、僕、すごく嬉しかったんだよね」

 波の合間にくすぐるような琥珀の笑い声が滑り落ちていく。

「うちの母さんはそういうこと、言ったりやったりしなかったし」
「ああ、確かに」

 俺達は母親に抱きしめられた記憶なんてない。別に外国人みたいな熱烈なハグとキスを所望していたわけではない。ただ、愛しむような触れ方をされたことがないだけだ。
 あの母親はそこに在る仕草も熱も、人形的すぎる。

 所詮、琥珀も俺と大差ないのだ。

 両親からすれば俺達は人形でしかない。可愛がり方は向こうが決める。可愛がられ方も向こうが決める。そこに俺達の意志は関係なく、意味もない。
 ペットの方がよっぽど可愛がってもらえてるだろう。俺達は人形だから、血なんて流れないと思ってる。腕がへし折れようと、脚がもげようとあいつらには関係ない。

 俺たちは自慰行為みたいな愛し方しかされてこなかった。

「僕はドロシーおばさんに抱きしめられると『ああ、母親ってあったかいんだなあ』って思ったんだ。シャノンちゃんはいつもあんなふうに抱きしめられてるんだろうなって」
「小さい頃、笹岡に同じようにキスしたら怒られたっけな」
「子供の頃って怖いものなしだったからねえ、僕たち」
「……今は?」

 そう問えば、兄は泣き笑いの顔で言う。

「――今はもう、怖いものしかない」

 兄は見るなと言わんばかりに手で瞳を覆った。

「あんな親をいらないと思う自分が怖い、置いて来たみさきだって心配だ。それに――」

 ぱたぱたと頬から滑り落ちる雫が、きらきらと光る。

「お前を守り切れないのが――怖い」

 ただ青い海のなか――怖い、怖いと言って泣く兄は綺麗だった。

 ああ、俺は。

 俺はいつもこの人に色んなものを押し付けて生きてきた。この人はいつも俺の前にいて、余分に傷を負ってくれていた。

 俺は馬鹿だから。
 琥珀が差し出した終わりに縋ろうとして、でも失敗して、もうどうしようもなくて。
 でもやっぱりこのひとを死なせたくなかった。

「うん――ごめん、琥珀。俺こそごめんな。いいんだ、守ってくれなくったって。お前が笑っててくれれば、それでいい。それで良かったのに」

 だって、俺もこのひとを守って生きてきた。
 慈しんできた。
 出来そこないの弟なりに、せいいっぱい、愛してきた。

「卑怯なことして、ごめん」

 俺は無言で琥珀に強いた。
 文字通り刃を突き付けて、共に不幸せになれと強いた。彼がそれを許してくれることを知っていたから。

「ごめんな――兄さん」

 琥珀の髪を撫でる。潮風と海水で張り付いている。アメリカに居た頃に、あの優しい女性がくれた『母親』のキスを思い出して、そっと琥珀の額に、頬に、瞼の上に唇を寄せた。

 どうか、これが母親と同じ自慰行為になりませんように。
 どうか、あなたに少しでも伝わりますように。どうか、あなたが幸せになれますように。
 そう願って、乾いたキスをそっと落とす。

 思いつく限りの――家族のキスを。
 唯一知っていた――愛情の示し方を。

「な、なに」
「あはは、ドロシーおばさんの真似―。いちおう俺たち、帰国子女だし?こういう挨拶もたまには良いかなって」

 目を白黒させる琥珀を抱き締めて、わらう。

「もういいよ、琥珀」
「……っ」
「俺、まだもう少しこの世に未練があるし」
「……」
「お前には、笹岡と幸せになってもらわないと」
「……う、うう」

 そう言うと、兄は涙腺を決壊させて盛大に泣き出した。思いっきり俺を抱き締めて、兄はひたすら泣く。

「かい……っ、ごめっ……ごめん」

 母さんがくれなかったものは、俺があげよう。
 お前が俺を守るというのならば、俺もそれ以上にお前を守ろう。
 お前が余分に傷つくのならば、俺はお前の傷を癒す術をたくさん見つけよう。

(壊させやせしない、あいつらに)

 俺はもう、このひとを二度と兄さんと呼ばないだろう。琥珀が泣き止むまで抱きしめながら、俺はそう思った。

「ありがとう、琥珀」

 そう言えば、兄はそっとひとつ、俺の頬にキスをしてくれた。それは、あの幼かった日に焦がれた暖かさを、確かに思い出させるキスだった。


2016/11/06

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