ひといろの真実
『忘却』
忘れる事は救いでした
だから俺には地獄でした
***
鏡のなかに、三年前に死んだ兄の面影を探す。湯気で曇った鏡にぼんやりと浮かぶのは、俺が知っている琥珀とは違う男。頬は少し痩せ、瞳の色は昏い。とにかく疲れたような顔をしている。
「歳、とったな俺も」
まだ二十三だけど。人は数年であっけなく変わるものだ。
鏡を撫でてみる。曇りは水気を残して消えていく。輪郭をたどる。頬の部分、瞳の部分、そして口元。
歳をとっても、俺達はまだ似ている。
「琥珀……」
まだ、お前は此処にいる。
俯いた自分の姿を、俺は今も見失ったままだというのに。
「ちょっとー、カイ!コーヒー淹れたよ。飲むでしょー?」
「あー悪い」
洗面所から出ると笹岡が俺の顔を見て、少しだけ苦笑して言うのだ。
「なに、情けない顔しちゃって」
「別にー」
「そ?」
笹岡は週末になると電車やバスを乗り継いで俺に会いに来る。俺の家の状況とかを教えてくれるのでとても助かっている。
未成年の場合と違って成人の失踪……いや、家出を警察が捜査することはほぼない。俺は家を出る際に書置きを残してきた。『家を出る。就職する』とだけ書いて。
一筆認めておけば、警察は余計に捜索なんてしないだろう。両親が俺を見つける事はほぼ不可能だ。
テーブルには笹岡が入れてくれたコーヒーが置かれている。
「コーヒーはホットが一番だな」
「夏なのにねえ。私はアイスが良かった」
「いやいや、コーヒーはホットで飲んでこそだぜー」
「そ、私には理解できないわ」
当たり障りのない会話。事情を知らない人から見れば恋人同士のように見えたかもしれないが、そういう関係ではないし、なるつもりもない。
「ねえ、仕事はどう?」
スポーツジムの仕事は楽しかった。仕事は楽しいが、問題がないわけじゃない。
「友達とか、できた?」
「……うん」
「うそ」
笹岡がごとんとマグカップを置いた。さっと伸ばされた手が、無意識に口元を覆っていた俺の手を掴む。
「嘘ついてるでしょ。しかも、こうちゃんの真似、してる」
「……?」
「ねえ、海斗は気づいてる?海斗の仕草、いまでもこうちゃんにそっくりなの」
「それ、は……」
「真似はしてないんでしょう?」
していない。しているつもりはなかった。
「もう、こうちゃんはいない。カイは、こうちゃんの真似をする必要もない。なのにそれが治らないのはあなたがこうちゃんを手放したくないからでしょう」
笹岡はそっと俺の頬を撫でた。
「あなたは無意識にこうちゃんを辿る。こうちゃんの喋り方、こうちゃんの好み、こうちゃんの仕草なにもかも。じゃあ、ねえ、海斗」
笹岡の瞳が真っ直ぐ俺を射抜く。
「――あなたは、だれ」
琥珀を事故で亡くしたあの夏、同じように彼女に問われたことがある。でも今はきっと違う意味だ。
「――知るか」
いつでも琥珀の後を追っていた。彼の好むものを好み、彼が愛したものを愛して生きて来た。彼が大切にしてきたものを愛しんで、そうしていれば俺の世界は完結していたのに。
「あいつが、いないんだから」
俺は自分を知らない。俺は琥珀だった。そして琥珀は俺だった。そして琥珀の遺体が火葬された日に、俺も死んだ。
スポーツが好きだった自分は?
あの日、琥珀と一緒に聴いた音楽を愛した自分は?
琥珀の絵を、綺麗だと思った自分は?
あの時の自分が、今の自分と同じだとは思えない。
俺は俺を演じることができない。好きなものがわからず、何が楽しいのかも思い出せない。そんな人間に友人などできるはずもない。
「ねえ、ダメだよ」
笹岡が言う。彼女はそっと俺の肩に額を預けて、囁く。
「あなた――もうひとりなんだよ」
告げられた言葉が、ぎゅうと心臓を掴んだ。笹岡は顔をあげないが、その声音は硬い。
琥珀がいない今、こいつが一番俺のことを知っているんだろう。だからこそ、その言葉がとてつもなく痛い。
「二人でひとつじゃない。あなたはあなたを知らなくてはいけない。ひとりを知っていかなくちゃ、いけないんだよ」
「……ん」
もう、ひとつだった頃のことなんて覚えていない。それでも俺は自分を知らない。産まれる前から俺はひとりで居た事がない。
――ひとりって、なんだ。
ふと、笹岡の右手にあの時の事故の傷跡がくっきりと残っている事に気づいた。複雑骨折していたし、当たり前だ。
そっと、笹岡の手を取る。手のひらに柔らかく触れるだけのキスをする。
「笹岡は、忘れられるの」
「無理だよ」
「そのくせ俺には説教か」
今度は指先に、そして手の甲にゆっくりと辿るように口づけを落として、そっと瞳を閉ざす。口元が醜く歪んだ。
「――笹岡みさき。お前は俺を知っている?」
「……」
「俺はどうして生きていたいんだろうね。あの夏、お前と一緒に泣いたっけ。『あいつがいない』って。あの時、本当はお前が一緒に泣いてくれて嬉しかった」
「……」
笹岡はやっぱり何も言わない。琥珀が愛していたこのひとを、俺は守りたかった。それは恋情ではなく、ある意味タチの悪い執着となっている事を少しだけ自覚したまま。
俺にとって、笹岡は琥珀の忘れ形見だった。
俺が忘れかけた琥珀の片鱗を、こいつは忘れずにもっている。琥珀と笹岡はよく似ていた。ふたりはきっと壊れ方が、一緒だった。
限界まで自分を追いつめては――他愛主義を美徳として、他人の皿の毒まで喰おうとするのだ。そのどろどろとした黒い毒を啜り、一筋も残すまいと舌先で丁寧に舐めとる様は淫靡で――そしてとても美しい。
笹岡がなぜあんなにも『自傷行為』に夢中だったのか、琥珀はきっとわかっていなかったんだろう。彼女は、喰い尽くした他人の毒を自分の腹から外に出す方法を知らないだけだ。
知らない癖に、毒を喰うから馬鹿なんだ。
琥珀と笹岡の違いは此処に在る。琥珀は好んで毒を咀嚼し、嚥下して消化する方法を知っていた。言ってしまえば、彼は自分に余裕があった。
「――……琥珀はお前に何も言わなかったな。あいつ自身のこと、俺のこと。それでもあいつは生涯かけてお前を想ったろう。あの短い春で、一生分の恋をして」
「……そうかな」
「そうだよ。なあ、俺は思うんだ。自分を知るのに必要なのは鏡じゃないんだって」
鏡のなかの自分はなにも返事をしてくれはしない。そして俺は鏡のなかに都合の良いものしか見いだせなくなっている。まだそこかしこに漂う琥珀の残滓に縋って、ひっそりと息をしながらこの醜い生を紡いで生きている。
「言って」
笹岡は短く、そうとだけ言った。
「思ってることを言って、そうしたら私が返すから」
続く言葉が、痛々しくて優しい。こいつはきっと甘えさせてもくれないし、傷の舐めあいすらも許してくれないだろう。だからこそ、俺にとってこいつは必要だった。
「あいつがいない。こんな世界は意味がない――色なんかなにも見えない」
三年――短いようで長い時間が、ゆっくりと俺の視界を溶かしていく。あいつがくれたものが消えていくには充分すぎる、あまりにも無情な時の流れ。
『海斗――』
『だから僕は――おまえがしんぱい』
あの日、不安げに揺れていた瞳は何色をしていただろう。
お前はどんな顔をしていた?
あの声も、俺を撫でたあの手の体温も、もうなにもかもを、あの夏に置いて来てしまったのに。
まだ俺はあいつが恋しくてたまらない。
笹岡の瞳が潤んでいた。それでも彼女は泣くことは無く、表情が悲しみに歪むこともない。ただ真っ直ぐに――鏡のように俺を見つめ返して、言う。
「寂しいね」
そう。寂しい。
振り返らないように走ってきた。置いて行かれたくない。忘れられたくない。――忘れて、しまいたくない。
走れば走るほど彼の人の姿は遠のいていくのに、それでも前にしか道がない。一歩後ろはもう、奈落だから。
「――さびしかったね」
『みさき』が繰り返し言う。よしよしと頭を撫でられて、余計に気恥ずかしさが先に立つ。
「今は、それで充分。だってそれが、今のあんたでしょ」
寂しいだけわかってれば上等、恋しいと理解していれば及第点。
「難しくない、あんたはシンプルな人間だから」
「……ひょっとして貶されてる?」
「褒めてるでしょ」
「そうか?」
「あんたの頭のなか、寂しいでいっぱいでしょ」
「うん」
「ブラコンだね」
「うるせー。一人っ子にわかってたまるか」
「ははっ」
けらけらと笹岡が笑う。
こうやって笑っている彼女だって、きっとまだあの夏に抉れた傷を放置したままなんだろう。
俺を諭し、宥め、撫でては憂いを散じるその瞳が時折まだ不安げに揺れている。大学生活では以前のような無茶はしなくなったようだが――さて、それが正常の範囲内なのかは俺に知る術はない。
「笹岡、俺はお前に縋りたくないよ。琥珀が泣くから。いつも笑ってて」
「……ん」
「お前は墓に手を合わせないけど、あいつはもういないけれど、それでもこの世界のあちこちに、あいつのいた跡があるんだ」
「そうだと、いいね」
「だから、俺につられて黒くならないで。耐えられなくなったら、見限って。死ねない程度にはこの世に未練があるから、まだ頑張れるし」
「私そこまで薄情じゃないわよ」
「わかってる」
窓から差し込む夕陽が、部屋の白を溶かしていく。マグカップのなかで、ブラックコーヒーがふるりと波紋を描く。
縋りたくないと言った言葉とは裏腹に、手は、腕は、彼女の細い背を抱いていた。
「俺は頑張る――だからお前は頑張るな」
琥珀があいしたこのひとが、幸せになるまでちゃんと見届けたい。
「馬鹿ね」
そう言って笑った笹岡の顔は、鏡で見る俺の顔より琥珀に似ているように見えた。
2016/10/30
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