臆病者と卑怯者
『曖昧』
境界線はどこだった?
踏み外したのはいつだった?
***
「帰ろう」
そう言ったのはどちらからだったか。その言葉通り、俺達はあっさり日常に帰った。ずっと手を引いてくれていた琥珀の手を、俺は自分から離した。
適当に服を乾かして、涙のあとを誤魔化して、そうして俺達はすべてを受け入れる事を決めた。
諦めたのか、受け入れたのか、それは些細な違いでしかないはずだから。
琥珀の後ろを歩くのが、俺の癖。
前を歩くのが、琥珀の願い。
でも、それもきっといつか形を変えていく。
「ぼくら――」
琥珀の声が夕陽に溶けて消えていく。影が歩調に合わせて揺れる。
「ひとりで生まれてくれば良かったね。死ぬときはどうしたってひとりなのに」
振り返って彼が笑う。この人は、どうしてこんなにも哀しそうに笑うのだろうと、そんな顔をさせたいわけじゃないのにといつも思う。
「どうしたって、ぼくら、ひとつにもどれやしない」
そういうお前だって、いつかはきっと俺を置いて遠くへ行く。そしてそれがきっと一番幸せなんだろう。俺が傍にいればお前はいらない傷をたくさん増やしていくだろう。
さあ今回は未遂で済んだ。でも次は?
もしこの逃亡劇に次が、あるとしたら?
俺は今回のように彼の幸せを願えるだろうか。
琥珀は次こそは俺の手を引いて、躊躇わずに深みへ堕ちようとするかもしれない。
次はない。
次があったら、未来はない。
「琥珀――ずっと一緒なんて無理だ。俺はね、その実多くを望んでいるようで、欲しいのはたったひとつなんだ」
元はひとつだったんだからと磁石が引き合うように、くっつこうとする。心がひとつに溶けてしまえば楽になれる気がする。ふたりでいれば、悲しさが半分で、嬉しい事は倍になると思っていた。
でもそうじゃない。双子だからとか、そんなのは所詮後付けの理由で、俺達は例え兄と妹でも、その逆でもどんなに年齢が離れていてもこうなっていたはずだ。
俺が琥珀と一緒に居たいのは、そして琥珀が俺の傍にと望むのは、ただ怖いからだ。
ひとりで『持つ』のが怖い。
親が怖い。
周りが怖い。
恋人が怖い。
それと接している自分が信じられなくて、怖くて、取りこぼしそうで怖い。
「俺はお前にはなれないよ、琥珀」
「……僕はそんなこと、望んでないよ」
「知ってる」
くすりと笑えば、琥珀は面白くなさそうに眉を顰めた。
「――俺が琥珀になれたら、みんな幸せだったかも」
戻りたい、戻りたい。一人に戻りたい。この人と。
「違うな。俺が生まれなかったら――みんなしあわせだった」
でも独りにはなりたくない。
「お前は幸せになれよ。だってきっとお前は幸せになれるものをたくさん持ってるだろ。しあわせになれ。俺を想うなら、ただ幸せになれ。俺が欲しいのは、望むのは――それだけだ」
――俺はきっと無理だろうから。
そう続く言葉を呑み込んだ。
俺は琥珀が幸せになれば自分も少しは幸せになれるんじゃないかと思っていた。彼が結婚して、子どもができて、そうしたら自分もその子を可愛がるんだ。嫁さんと子どもと笑う琥珀を見てればきっと幸せだ。その時だけでも。
「ねえ――海斗、それじゃ僕は――」
***
『それじゃ僕は――』
あの時、彼は何て答えただろう。
なんて言ってたんだろう。
何を、望んでいたんだろう。
ただ、灼けつくような蝉の声が、うるさくて。
大切な言葉だった気がするのに、思い出せなくなっていった。
あの夏、蝉しぐれのなかで、琥珀の声だけははっきり聞こえていたのに。
あの日、あの海で、笹岡すら忘れて自分と死のうとしてくれた琥珀だけが、俺の、今の、たったひとつの望みだったのに。
俺はそんな事ばかり考えている。
***
琥珀は俺を置いて、あっさりと死んだ。どんな約束をしようと、それは未来まで拘束できるものではないのだから仕方ない。ただ卑怯なのは、琥珀の言葉が、存在がいつまでも俺を拘束し続けるということ。
もちろん、それは俺だけじゃなくて笹岡もだし、あの両親も。そして――
「よぉ」
この相変わらず目つきの悪い、琥珀の友人――斎藤涼介もそうなのだろう。
笹岡経由で琥珀の通帳を受け取ってから、俺は涼介とラインや電話のやり取りをするようになった。俺の家で琥珀の三回忌をやろう、と涼介から声を掛けてくれた。俺は墓参りに行きたかったけど、命日に墓に行けば両親と鉢合わせする可能性が高いので、断腸の思いで諦めた。
「海斗。お前んち遠いんだよ。ふざけんな、電車賃よこせ」
「あほか。お前が来るっつったんだろーが。あと、靴くらい揃えろよ……」
こいつが脱ぎ散らかした靴を揃えていると、涼介はずずいと俺に持っていたものを差し出した。
「テキトーに酒とつまみ買ってきたわ。お前呑めたよな?」
「ああ」
「あと、これ。花」
涼介が渡してきた花は、薄いピンクの薔薇だった。
「はあ!?なんで薔薇買った?」
「あ?文句あんのかよ」
「いや、普通は菊とかじゃね?」
「菊とかシケた花買いたくねーよ」
「薔薇のが勇気いるだろうが!」
「別に」
「ていうか、俺の家に花持って来ても意味なくね?琥珀の墓に供えてやれよ」
「あ!」
「今気づいたの!?もう、お前ほんとバカだな!バカでびっくりする!よく琥珀と同じ大学入れたな!」
「うっせー!大学は関係ないだろ!」
「あるわ!びっくりするわ、ほんと」
ほんとうにびっくりする。学力と人としての聡明さは比例しないということがよくわかる人物である。
「まあいいや、とりあえずありがと……」
それでも。
それでも、こいつは確かに琥珀の友人だった。年を経ても、彼を忘れずに想ってくれているうちの一人で、バカだけど、こいつなりに俺のことも心配してくれているのがわかる。
「うち、花瓶なんてないんだけどな」
「明日にでも百均で買って来いよ」
「……そうだな」
仕方ないので比較的大き目なグラスに差しておく。ふわりと甘い香りがする。綺麗だし、良い花だ。薔薇って結構高そうなイメージだけど、そういう花を選ぶあたりがなんとなくこいつの琥珀に対する友情とかが感じられる。
「じゃあ、飲もうぜー」
言うが早く、涼介はビールをあけている。俺もそれに倣った。
「早いよな、三年か。海斗は仕事どうなわけ?」
「んー、普通」
「彼女とかは?」
「いないよ」
「でも、ほら、あの子。笹岡さんだっけ?よく家にくるんだろ」
「あー……あれは、なんていうか女っていう区分じゃないというか」
「まあ、兄貴の彼女じゃなー……」
涼介は笑う。あまり酒に強くないらしく、もうほんのりと頬が紅い。
「俺さ、涼介。お前に訊いてみたいことがあったんだ。琥珀のバイトについてとかさ」
琥珀が俺の為に法的グレーなバイトをしていたことを知ったのは彼の死後だ。占有屋というものらしい。後々ネットで調べた時は顔が真っ青になった。
琥珀とあのバイトのイメージが、どうしても結びつかない。穏やかで、諍いを嫌い、愛情深いあの兄が、たとえ弟の為だとしてもあんな事をするだろうか。
もし俺だったら。つまり『琥珀であった自分』を信用し、俺が同じような行動を選択するのならば――法外なバイトを選ぶことはせずに、割高なバイトを選んでみっちり詰めて働いただろう。
それだけ琥珀らしくない選択だった。
琥珀は他人に迷惑を掛けて、他人を踏み台にしてまで幸福を手に入れたかったんだろうか。
「琥珀はなんであんなバイトを選んだんだ?」
そう問えば、涼介は――顔を顰める。
「俺さあ、沙織にかなりキレられたからあのバイトの話、あんまりしたくないんだよ」
「……いいから教えろよ」
「琥珀がなんであんなバイトを選んだか?理由は簡単、金が良いから」
「お前が紹介したんだろ?」
「そうだよ。俺が琥珀に頼まれて紹介した」
「つまり、お前から誘ったわけじゃないと」
「そう。だから余計らしくないだろ」
涼介はぐびりとビールをあおると、二本目に手を出した。
「それだけ、必死だった。言えば、追いつめられてたんだろうな琥珀は。俺は一応止めたんだぜ。自分でやってたからわかる。あれはろくな仕事じゃねーよ」
「……」
「俺さ、琥珀は臆病なヤツだと思ってた。いつもへらへらしててさ。でも、可笑しいんだよな。臆病なヤツが俺みたいな見た目からバカでアレっぽそうな人間と友達になんてならないだろ」
確かに。ヤンキーというには微妙なヤツだが、臆病な人間はこんな見た目が派手で素行が悪そうなやつに近づこうとしないだろう。でも聞けば琥珀から声を掛けたというし、その後も飲みに行ったり一緒に課題をしたりと仲良くしていたらしい。
「で、今更思うわけ。琥珀ってすげー気が強かったんじゃないかって」
「……そうか?」
気が強い?
確かに両親に反抗はしていた。でも、それが法外バイトに結びつくような気性と同類かと問えば否である。
「あー、もう!お前、何年琥珀と双子してたんだよー」
涼介は大声をあげてテーブルに突っ伏すと、今度はいきなり声のトーンを落とした。
「……あのバイトしてた時、何回かひどい乱闘になった時があったんだけど」
占有屋は文字通り建物を不法占拠して、立退料を求めるものである。当然、そういう状況になることもあるだろう。
「で、かなーりやばい相手だった時もあるんだよ。こっちもヤクザだけど相手も同じようなヤクザだろ、って感じの」
「ああ」
「でさー俺達は下っ端だから逃げるわけにもいかないじゃん」
「そうだな」
「俺は正直喧嘩とか嫌いなんだよな、こんなナリしてても」
「お前、ファッションヤンキーだもんな」
アホでバカで印象最悪だけど、この男はまあそこそこ人畜無害の部類に入る。たぶん。
「俺の場合、乱闘の時はなるべく目立たないようにしてたけど、琥珀は違ったんだ」
涼介のビールの缶を握る手に力が籠る。大して中身のないそれは、ぺかんと軽い音を立てて軽くひしゃげた。
「あいつさぁ、バットとかパイプとかとにかく武器になるものなんでも持って、突っ込んでいくんだ。で、平気で相手の頭にフルスイング。楽しんでるのとは違った。でも楽しんでないけど、笑ってた。笑いながら、必死そうだった。壊れてた。相手が血を流しても、降参しても、踏みつけて、殴ってた」
「……それは、」
うまく言葉がでてこない。
あの琥珀が?あの優しい兄が?自分から望んで他人を傷つけていたなんて信じたくない。
「……だから言いたくなかったんだよ。海斗はショック受けるだろうから」
涼介が呻く。
「きっと琥珀の彼女も知らないだろ?これが俺の知ってる『小浜琥珀』だ。優しくて、お人良しで、穏やかで。なのに――時々すごく怖いやつ」
「琥珀は……なんでそんな事してたんだろ」
「金と海斗のためだろ」
「それだけだと思うか?」
「……さあな」
テーブルからむくりと起き上がって、涼介はまっすぐ俺の目を見る。
「でも、あとからお前んちの家庭環境を知って、ちょっと納得したのはある」
「つまり?」
「ストレス発散だろ」
「……」
今度こそ、本当に言葉を失って俺は俯く。
笑っていながら、笑っていない。
望んでいながら、望んでいない。
人を殴りながら、自分も血を流しながら、彼もまた『毒』をそうして外に吐き出すしかなかったんだろうか。
琥珀は自分に余裕があると思っていた。
でもそうじゃなかった。
それはあの夏、俺と死のうとしたことで事実だと証明されている。
「海斗」
「……」
「おいってば。しっかりしろよ」
「あ……ああ、悪い」
「いいけどさ。でさあ、俺思うわけ。お前ら双子だけど、全然似てねーよ」
「は?」
「家庭の事情とか色々聞いてたけどさ、言うほど似てると思わないんだよね」
「そう……か?」
似ていないと言われたのは初めてだった。入れ替われば両親にばれることはまずなかったし、笹岡だって事故の直後は違和感を覚えながらも俺の事を琥珀だと思っていた。
「あ、顔は似てるよ?当たり前だけど」
けらけらと涼介は笑う。
「でも、海斗はストレス発散でそういう方向へはいかないだろ」
「あー……まあなあ」
俺だって男だ。殴り合いの喧嘩なんて何回もしたことがある。琥珀とも友人とも。でもストレス解消に喧嘩を選ぶことはしないだろう。
「安心しろっていうとクズかもしれないけどさ、琥珀は誰も殺してないから」
「だから良いってわけじゃないからな。やってることほんとクズだ、あいつ」
「んー……でも、ほんと必死だったんだなあって今だから思うよ、俺」
「そんなに必死だったのか?」
「そりゃね。俺も妹がいるからわかる。必死にもなるよ、そんな環境じゃ。それだけ琥珀は海斗、お前が大事で可愛くて――だから壊れちゃったんだろうな」
笹岡は琥珀の事を何も知らなかったと嘆いていた。
でも俺もまた、琥珀の事をきちんと理解できていなかった。そして琥珀はそれを俺に伝える事もなく、伝える気もなく、過ごしていた。
「どんなに自分が壊れても、弟は守りたかったんだな。他人を傷つけても、自分が最底辺犯罪者なクズになっても良かったんだ。汚い金でも海斗が自由になれば幸せだったんだ、あいつは。それで気持ちが良かったんだ。なんて優しくて、利己的なやつ」
「……ほんと、だな」
ああ、涙があふれてくる。
あいつが死んでから知ることが多すぎる。
たとえば、自分がたいそう弱い人間だということ。
たとえば、琥珀がたいがい馬鹿だということ。
たとえば、笹岡があんがい泣き虫だということ。
そして。
そしてたとえば、彼が思いのほか、俺のことをたいそう愛していたということ。
「あいつ……クズでどうしようもない……」
「ちょ、おい、泣くなよ……酒がまずくなる」
「うっせ。どうせ安酒のくせに」
最低だ。美談なんかになりはしない。
他人を傷つけてストレス解消していた琥珀は。そして他人の血と傷と迷惑で、自由を手に入れ、兄の想いを知る自分はなお最低だ。
なあ、琥珀。
どうして言ってくれなかった。俺だってお前の為になにかできたかもしれないのに。
お前にそんな事させる前に、色んなことができたかもしれないのに。
「あのやろう……」
俺が見ていた、あの夏、あの海で泣いていたお前。
涼介が見ていた、笑いながら他人を殴るお前。
きっとどちらも本当のお前だったんだろう。
『お前は幸せになれよ。だってきっとお前は幸せになれるものをたくさん持ってるだろ。俺を想うなら、ただ幸せになれ。俺が欲しいのは、望むのは――それだけだ』
あの夏、俺が琥珀に言った言葉と
『ねえ――海斗、それじゃ僕は――』
ふと、忘れかけていた琥珀の言葉が、唐突に甦る。
『――幸せになんか、なれないよ』
そうだ。あの時、自分は幸せになれないと、琥珀は言ったんだ。幸せになれるものを、たくさんもっているわけじゃなかったから。
もしかしたら、あの時からすでに、彼は他人を傷つけるような事をしていたのかもしれない。
なにもかもを、俺に隠して。すべてを俺の為と言い訳にして、そうして逃げ道にして、自分のどうしようもないくらいの、どす黒い感情を持て余して。
ただ、哀しそうにわらって。自己完結して。
『お前が――しんぱい』
そうやって、にげて。
「――卑怯者」
俺は、初めて兄に呪詛を吐き出した。
琥珀を卑怯にさせたのは俺。
琥珀にしあわせを押し付けたのは、俺。
琥珀にしあわせにしてもらったのは、俺。
なのに今、馬鹿で卑怯で、優しい琥珀が、大好きで大好きで憎い。
初めて知った。
俺はこんなにも、琥珀が大好きで憎いなんて。何も伝えてくれなかった彼に、憤りを覚えることも、馬鹿なことをしてと怒鳴りたくなる気持ちも、なにもかも。
「俺――ぜんぜん、琥珀と似てないんだな」
きょうだいの為に、そんなことまでできる琥珀と。俺は自分の為にすらなにもできない臆病ものだという、事実を。
初めて知ったんだ。こんなにも、別の人間だったんだ、なんて。
20161203
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