どうか冷えた手を繋いで
『選択』
たとえば、過去にさえ目をやって
後悔にすら目を瞑る
***
一番最初に浮かぶのは、笑った顔。あいつはいつも穏やかに笑っていた。
次に浮かぶのは、心配そうな顔。『兄』の顔をして、俺の頭を撫ぜるあいつの姿。
最後に浮かぶのは、泣いた顔。あの海で「怖い」と言って泣いた、俺の――半身。
どれが本物だったと問われれば、きっとどれも本物だったと答えただろう。
ぜんぶぜんぶ、琥珀だった。
涼介が見ていた琥珀が本物だったのと同じように。
「『――私が進むこの道に、貴方がいない事を祈ります。ずっとずっと。そうして私と貴方の道が交わらないように、ひっそりと水の底で生きていきます。私の肺で、貴方の声を砕く事がないように。私の想いで貴方を殺す事がないように私は心のなかで――父を、母を、きょうだいを、何もかもを殺して生きていきます』」
いつぞやの物語の言葉を、今になって理解する。
あんなにも愛しくて、あんなにも焦がれて、慕っていた兄。その兄に今俺が向けている感情は憎悪だった。
俺はあいつが好きだった。きょうだいとして、人として、大切に思っていた。なのに今、俺は――俺の『想い』は琥珀を殺そうとしている。
(嫌だ――)
俺の想いで琥珀を殺すことがないように、俺は心のなかで『何もかも』を殺していかなければならない。
『一歩一歩を踏みしめるたびに、殺したその心と……人たちを思い出すでしょう。そうしていれば、私は生きていけるのですから』
あの物語の結末はどうだった?もう憶えていないのに、ただ琥珀が俺に何も話してくれなかったことが、辛くて苦しくて仕方ない。あの優しい兄が己を保つために他人を進んで傷つけていたなんて、信じられない。
そんな事をぼんやり考えている俺の前で、今は笹岡が泣いている。理由はわからない。訊いても教えてくれないから。
「……」
こいつ、そんなに良く泣くやつだっけ。
休日の度に笹岡は俺の部屋に来る。課題とか、バイトとか、彼女自身の家のこととか、気になることはいっぱいあるが、俺は何も言わずに彼女を家に上げる。
ただ家に来て、数時間喋って帰る。時々一緒に飯を食う。今日もそうなるはずだったけど、突然泣き出した笹岡を前に俺は言葉がうまく出てこない。
ボロアパートに、笹岡のすすり泣く声だけが小さく響く。
「……う、……うぇっく……」
「笹岡」
「つ……う、く……」
笹岡は遠慮なく俺の胸に顔を押し付けて泣いている。俺は抱きしめることもせずに背後の壁に背を預け、煙草に火をつけた。大きく一吸いしてから、紫煙を吐き出す。バニラフレーバーの甘ったるい煙草。琥珀が好んでいた、あの煙草だ。
「……笹岡、泣きすぎてゲロ吐くなよ」
我ながら最低な台詞だと思うが、笹岡は怒ることなく俺の襟を掴んだままただ首をぶんぶんと縦に振った。
(『わかってるよ。うるさいな』ってとこか)
人の胸を借りておいて、なおも強気なのがこいつらしかった。
「お前、そんな泣き虫なキャラじゃなかっただろ」
そう。こいつが良く泣くようになったのは、琥珀が死んでから。それまではめったに泣いた顔なんて見せなかった。それまでは良くも悪くも鉄壁で、可愛らしい顔をしているくせに隙が無さ過ぎて逆に可愛くないと思っていた。
『少なくとも俺は笹岡、お前と付き合おうとは思わないよ』
あの旅行の時、俺はそう言った。
「すっげー皮肉」
「……?」
笹岡が涙でぐちゃぐちゃな顔を上げて俺を見る。俺は視線を笹岡に合わせることなく、言った。
「お前、そうやって泣くようになって少しは楽になったろ。パンクする前にガス抜きできるようになってんじゃん。いーことだよ、それは」
「……そ、う?」
「そう。でもさあ、琥珀の前でそうであって欲しかったよ。意味がないとは言わないけどね」
「ごめん」
「お前、琥珀の前で泣いたことある?」
わざと明るい口調でからかうように言えば笹岡はむっとしてみせた。
「あるに決まってるでしょ」
「そっか」
「こうちゃんは、いつも優しかった」
「そうだな。琥珀は優しかったな」
灰皿を脇に置いて、俺はもう一度紫煙を吸い込む。
彼は優しかった。俺の為になにもかもを一人で背負ってしまう程度には。
そして彼は残酷だった。「こう」と決めた身内以外には極端に冷淡で、振り分けた相手を傷つける事を厭わなかった。
弟を守るためだと自身に言い聞かせては、他人を殴る程度に。
「その煙草いやだ」
「なんで」
「こうちゃんの匂いがする。寂しくなる」
「なあ、笹岡。あいつ、高校の時から煙草吸ってたって知ってた?」
「……ん。聞かなかったけど、知ってた」
「……なんでだと思う?」
「知らない」
「そっか。俺も知らない。でもイライラしてたのかなって思う。恰好つけたいとかじゃなくて、何か解消したかったのかなって」
笹岡と何気なくする琥珀の思い出話が、俺は好きだ。
だから、こいつに涼介から聞いた話をすることはやめた。笹岡は知らなくていい。だって琥珀があんなことをしていたのは、他ならぬ俺のせいなのだから。
「私といるのが辛いから?」
「違うと思うよ」
「じゃあ、なんで」
「なんでだろうな。わかんね」
「私が原因だったら、悲しいな」
「ん」
「悲しいんだ、すごく」
とつとつと、端的に物を言わない笹岡の声を聴いていると、ぬるま湯で抱きしめあってるみたいな、とろとろとした睡魔が襲ってくる。
「笹岡」
毒の吐き出し方を、こいつはようやく学んだ。それは琥珀の死がトリガーになったんだろう。
あの夏はこいつにとっても地獄だったに違いない。勉強や音楽とは訳が違う。内側に溜まったヘドロを掻き出して、外に出さなければ、そしてそれを他人に見せなければやってられなかったんだろう。
俺は煙草を灰皿に押し付けて、笹岡の頭を撫でる。
「お前はいつも俺に縋らないね。そうやって泣いてはいても、理由は言わないし助けてとも言わない。お前のそういうとこは、俺、けっこー好きだよ」
「……そう」
「うん。でももう少し、助けてって言ってくれてもいい。俺はお前に縋らないけど、お前は俺に縋ってもいいんじゃない。琥珀が拾い損ねたぶん程度は、助けてやるよ。一応年上だしね」
縋る、の定義はきっと人によって違うんだろう。
見る人によれば、笹岡も俺に縋ってるように見えるだろうし、それを拒まない俺も共依存のように彼女に縋っているってことになるだろう。
でもきっと、笹岡の『縋る』は違う気がした。
あの粘る毒を、共に飲み込んでくれる人が彼女にとっての『縋る』対象だろう。
俺もこいつに縋る事ができたら、何か違ったのだろうか。
(兄さん……)
あの日、封じた呼び名をそっと心のなかで囁く。
こんなにも優しくて、こんなにも残酷な自分の『カミサマ』を殺してしまいたい。俺は自分を知ることができず、初めて覚えた琥珀への憎悪に戸惑うばかりだ。
でも。自分はいつも心のどこかで、琥珀の事を憎んでいたのではないだろうか。
いつも母に愛される兄。憐れむように弟を愛した――琥珀。
どんなに俺が欲しても手に入らないもの。手に入らない『琥珀』という存在。立場。
琥珀になりたい。
琥珀に生まれたかった。
琥珀が――いなければ、俺は両親に愛されたかもしれないのに。
そう思っていたのも、きっと事実で。
(でも……)
「むっ……」
笹岡が顔を上げられないように、彼女の後頭部を押さえつける。そのまま彼女の旋毛にそっとあの『兄』の『キス』を思い出しながら落とす。
『お前を守り切れないのが――怖い』
弟を守ろうと両親を怒鳴る琥珀。あの夏の日の海、自殺未遂と――頬に落とされたあの口づけ。
俺を守ろうという彼の想いが傲慢だったとして、それを理由に彼がどれだけ他人を傷つけたとしても――。
「なあ、笹岡。俺は今は少しだけ――琥珀がきらいだ」
頬を涙が伝う。それを察してか、笹岡がぎゅっと俺のシャツを掴んだ。
「そう――いいんじゃない」
「いいのか」
「いいよ。あんたがこうちゃんを嫌っても、その分私が好きでいるから」
「そっか。じゃあいいか」
泣きながら笑う。
ああ、琥珀が大好きで大好きで、大嫌いだ。
だって知りたくなかった。自分がこんなに弱くて卑怯者だなんて。
あんなに敬愛していた兄が、他人を傷つけるクズだなんて。
そんな彼を今もなお、肯定し続ける自分が――信じられないくらい最低で。
瞼の裏をなぞるように思い起こせる、自分の片割れのぬくもりとにおい、なにもかもが、今は俺を殺していく。
(――俺は、嘘つきだった)
そう、たとえば。
親に愛されていない癖に、親を愛そうとしていた子ども。
親に愛されている兄を、羨まない弟。
兄の可愛い恋人に、恋をしない幼馴染。
自分が自分に課した『設定』が、ゆるゆると静かに融けて消えていく。
でもいい。
それでいい。
琥珀が――琥珀の遺したものが俺を殺しても、俺の想いが琥珀を殺さなければ。
忘れたって、忘れない。
あの最低な兄を、今もなお愛してることを。
20170105
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