鳥籠からでた僕らを

『別離』

それでいいと思えた
だってそれが彼女の真実なのだから


***


 がたんごとんと揺れる電車の振動は妙に睡魔を誘う。どこか心地良いそれに身を任せながら、俺は地元へ近づいていく景色をぼんやりと眺める。

 ――かあさん

 うちは両親とも琥珀が大事だった。父は母が幸せでいれば良くて、だからなのか積極的に俺を虐げる事はしなかった。母が琥珀を可愛がり、俺に琥珀の真似をさせて満足していれば、父もまたそれで満足だったのだろう。特別関心を向けられた記憶は、ない。
 誰も本当の俺を見ない。父も母も。
 それでも、母は――琥珀というフィルター越しにでも、俺を見てくれていたから、愛していた。無関心な父親よりは、少しでも――間違った方向でもなんでも、とにかく俺の方を少しでも向いてくれる母を、愛していた。

 ――かあさん

 俺を愛していなかった、母さん。
 琥珀だけを愛していた母さん。
 俺のせいで壊れてしまった、ひと。

 愛して欲しかったけれど、今はもう、どうでもいい。

(俺は、知りたいだけだ)

 父に、母に立ち向かっていた琥珀がどんな気持ちだったのか。彼等に立ち向かって自分がどう感じるのか。ただそれだけを知りたい。


***



「カイ、来たんだね。本当に」

 地元の駅で笹岡が待っていてくれた。不安そうな、でもどこか嬉しそうな複雑そうな顔をしていた。

「病院まで付き合うよ」
「……ありがとう」

 二人でバスに乗り込む。そういえば、一緒にバスに乗るのはあの事故の日以来だった。
 隣り合わせで座る。笹岡の表情は、強張っている。二人一緒にいれば、どうしたってあの日を思い出すのにどうして俺達はこうして今も一緒にいるんだろう。
 笹岡は腿の上でぎゅうときつく拳を握っていた。俺が知らないだけで、彼女はいつもバスに乗る時こうしてきつい思いをしていたのかもしれない。

(それでも、俺に逢いに来てくれてたんだ)

 そんな彼女の強さと脆さが、ありがたくも申し訳なかった。

 病院につくと、笹岡は母の病室の番号だけ告げてロビーで待っていると手を振った。俺は頷いて部屋を目指す。

「……此処か」

 五階の一番の端の個室。そこが母の病室だった。少し躊躇ってから、扉を開く。

「かあさん」

 ベッドの上で編み物をしていた女性がはっと顔をあげた。

「――琥珀?」

 久しぶりに聞いた母の第一声はそれだった。今更それに怯むわけではない。母はもういないはずの子の名を呼んだことに、気づいたようだった。

「……海斗!!」
「久し振りだね。母さん。具合はどう?」
「……貴方、今まで何処にいたの」

 俺の質問には答えずに、母は硬い声音で問うた。静かな怒気を孕んだその問いに俺は応える。

「さあ、どこだろうね」
「どうして黙って家を出たの。勝手な事ばかりして!だから私はあんたが嫌なのよ」
「……」
「どうしてあんたはいつも私を苦しめるの?アメリカに居た時もそう。いっつもひどい夜泣きをして……私はあんなに大変だったのに」
「……そうだね」
「なんで琥珀が死んであんたが生きてるの?生き残った癖に、どうして勝手に家を出たりするのよ?そんなにお母さんを苦しめて楽しい?あんたはいつもそうなのよ。何をしても私を苦しめるだけ」
「母さん」
「だから、嫌いなのよ」

 嫌い、とはっきりと言われたのは実は初めてだった。好かれていないとは思っていた。愛されていないのもわかっていた。でもはっきりと言われた事はない。だからこそ、希望を捨てられずにいた。

「――俺は、母さんが好きだったよ」

 でも好きだった。全くの無関心より、一ミリの憎悪が愛おしかった。零より一を与えてくれたから、俺は母を愛していた。

「なあ、母さん。母さんは琥珀ばっかり可愛がってたよな。俺は琥珀の真似ばかりさせられて苦痛だったよ」
「だからなんなのよ。そんなのあんたが悪いんでしょ。あんたがいつも私を苦しめるからでしょ」
「俺はわざと母さんを苦しめたことなんて、一度もないよ。赤ん坊の頃の夜泣きを怨まれたって、正直困るし筋違いだと思う」

 手が、脚が、震える。この人に歯向かうのは初めてだった。強く拳を握りしめる。
 怖い。苦しい。
 そして――とても悲しい。

「母さんだって、そんなのわかってるんだろ。俺を怨んだって意味がないし、琥珀の真似をさせたって、俺は琥珀にはなれない。わかってて、やってたんだろうが」
「……だったら、なんなの」
「俺はもう大人だよ。だから自分の事は自分で決めるし、責任は自分でとる。母さんも大人なんだから責任とれよ」
「……」
「――俺に。俺と『琥珀』に謝れ」

 ただ俺が折れて謝ることもできたし、水に流すという選択もあったんだろう。でもそれじゃきっと意味がない。この人は遠い昔に壊れていて、普通じゃないけれど、でもそんなの理由にはならない。

「母さんは『わかっていた』くせに」

 病床にいる母を責めるのはひどい事なんだろう。
 でも壊れていたら、なんでも許されるわけじゃない。赦されるわけでもない。

「嫌よ。何で私が謝らなきゃいけないの?琥珀の真似もできないあんたは要らない。もう二度と、私の前に現れないで!」
「……わかった」

 嘆息する。俺は素っ気ない返事をして部屋を出た。

 母から謝罪の言葉はなかった。でもそれでいい。もうきっとお互いに道が交わることはない。交わることもできない。互いに赦すこともできない、理解もできない。それがわかっただけで十分だ。

(ああ、琥珀もこんな気分だったんだろうな)

 一階のロビーまでいくと、笹岡が駆け寄ってきた。

「海斗……大丈夫?」
「……少しきついかも」

 顔を覆う。涙はまだ流れない。でもそれでいい。

「でも、わかったことがあるから」

 母に歯向かうのはとても怖かった。情けない話だけれど、まぎれもない事実で、でも琥珀は――兄はいつもそれをやってきてくれていた。
 自分の為だと言いながら、俺を想って、両親と戦ってくれていた。

(怖かった――)

 嫌いだと言われる事が、必要ないと言われる事が、何より辛かった。俺をただひとり愛してくれていた肉親は、もういない。同じ血を持ちながら、俺を想ってくれるひとはもういないのだ。
 この世界の、どこにも。

(琥珀は――死んだ)

 あんなにも愛した兄はもういない。俺は、ひとりだ。
 今はもう、ひとりだと――知ったんだ。

「……カイ。帰ろう」

 そっと笹岡がそっと俺の手を引く。病院をあとにして、人気のない道を歩く。
 琥珀と逃げたあの日のように、今度は笹岡が俺の前を手を引いて歩く。

「――頑張ったね」

 笹岡が振り返らずに呟く。
 でももう、俺の前を歩いて手を引く人は、きっと必要ない。

「……ありがとう、笹岡」

 そう答えて、ようやく涙があふれた。俺はゆるりと笹岡の手を離す。

(もう、大丈夫)

 俺が愛していた母の憎悪は、もういらない。


20170314

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