ひとりを知っていく
『水葬』
今度は俺の色を重ねてみよう
あなたの残した世界のなかで
今度こそ「幸せだ」と笑うために
***
母に言いたかった事も、言えなかった事もまだたくさんある。でも、
『――琥珀?』
そう呼んだ声だけは、少しだけ優しかった。母は俺を愛していない。でも琥珀の事は愛していた。きっとそこに、少しでも彼女なりの愛はあった。そう思い込む事にする。
「ねえ、こっち帰ってくるの久しぶりでしょ。どこか行きたいところとかないの?……その、こうちゃんのところ、とか」
歯切れ悪く、笹岡が訊いてくる。そういえば、もう随分と長い間琥珀の墓へ行けていなかった。笹岡は琥珀の墓に手を合わせない。きっと琥珀以外の墓にもそうだろう。
ふと、考える。笹岡は死んだ琥珀の事をどう考えて、どう偲んでいるのか。
「笹岡は?」
「私?」
「笹岡は琥珀に会いたくなった時、どうしてるんだ?」
「私は思い出のある場所に行くかなあ。そこでね、ひたすら思い出に浸るの。だってこうちゃんにはもう『これから』がないから。だから『今まで』をたくさんたくさん、思い出すんだよ」
笹岡は語る。映画館デートで、琥珀がホットドックのケチャップをこぼしたこと。カフェで勉強を教えてくれる時、ひっそりと落とされた声音が好きだったこと。寒い日に、笹岡のマフラーのずれを直してくれたこと。
「ね。『いつまでも心の中で生きてる』ってありきたりな言葉かなって思う。でもありきたりって、沢山の人が考えた、一番多い答えだよね」
「そうだな」
「――せめて『そうであって欲しい』って、事だよね」
ふわりと笹岡が微笑む。
「カイは結構、頭がかたいよね」
「そうか?」
「うん。こうちゃんに会いたいならお墓じゃなくてもいいんだよ。どこでもいつでも、どんな風にでも会えるんだ。カイならどこ?カイが一番こうちゃんを思い出せそうな場所って、あるでしょ」
「……うん」
すぐに思い浮かんだのはあの海だった。正確な場所も地名もわからない。でも探そうと思えば簡単に見つかるだろう。今から行くには少し遠すぎるが。
「笹岡は、明日空いてる?」
「うん」
「付き合って欲しい所があるんだけど」
「いいよー」
「ちょっと遠いけど」
「遠出大歓迎。まあ、今日はとりあえずお腹空いたからさ、ごはん食べて帰ろ」
そう言って笑う彼女。
ほら、また。
俺は君に兄の姿を見るんだ。
***
翌日。
スマホを使って場所を調べれば、だいたいの検討はついた。港町だったし、駅から降りたわけだし、まあそんなに苦労はしなかった。
そんなわけで、今はふたりで電車に揺れれている。
「……んーん、ん……んー」
隣で笹岡が小さく鼻歌を歌っている。
「なあ、笹岡」
「なに」
「五、六年くらい前に俺と琥珀が家出したの憶えてる?」
「ああ、親子喧嘩で飛び出したっていうアレ?」
「そうそう。あの時も琥珀とこうやって電車に飛び乗ってさ。俺は財布もなんにも持ってなくて、あいつはスマホと財布程度でさ」
「うん」
「限界だったんだ」
「うん――……」
「あいつ、ずっと俺の手を繋いでた」
「前に出て?」
「そう。よくわかるな」
俺がそう言うと笹岡が笑う。
「こうちゃんね、怖い時ほど前を歩くんだよ」
「へえ」
「家出、怖かったのかな」
「かもな」
あの日、前を歩く琥珀の顔を俺は当然ながら見ていない。
(ああ、琥珀。お前も怖かったのか)
なあ琥珀。どんな気持ちだった?
何を願っていた?
どんどん遠のいていくあの日と、あの人に、俺は今ゆっくりと近づいている。
そのまま二時間半ほどしたら、目的の場所に着いた。
こぢんまりした駅。少し歩いた先に見える長い階段と、真っ赤な鳥居。そして辿り着く先の――海。
「静かなところだね」
笹岡が風に浚われる髪を抑えながら言った。潮風と、静かな波の音だけが響く。彼女は浜辺に腰を下ろした。俺は靴を脱いで、水際を歩く。
「海斗――危ないよ」
ああ、本当に彼女はあの兄のようだった。ふとした拍子に発する言葉や雰囲気が、俺が欲しい言葉をくれるところが、何もかもが俺の望む兄の姿だった。
「――危なくないよ」
だって、もう死ぬ気はないんだから。
笹岡の意図とは別の返答を自分のなかで返しながら、俺はわざと明るい声を出した。
「俺さー、ずっとお前に琥珀を見てたんだよね」
少しだけ歩を進める。水は脛のあたり。遠く遠く、あの日兄と行こうとした先を見据えながら俺は笹岡に言う。
「琥珀みたいに優しくて、強くて、でも脆くてさ。いつだって俺を生かそうと必死になってくれた」
「そりゃ、幼馴染で親友ですから」
背後で笹岡が笑う。あの日のように、あの兄の言葉のように、同じくくすぐるような声音が波の合間を滑る。
「でも、どうしたって琥珀はもういない」
「うん」
「置いていかれたんだな、俺」
そっと、手のひらに水を掬う。あの日、琥珀が流した涙をこの海は知っている。
怖いと言って泣いた、ごめんと言って泣いた、俺の頬に口づけながら流した涙の色を、味を、この場所だけは、憶えているだろう。
ゆっくりとその水に口づけ、静かに呷る。辛い、痛い、愛おしいあの兄の想いと一緒に、飲み込んで、自分のなかにいれる。
彼の見たものを見たいと思っていた。彼を知りたいと思っていた。彼に、なりたいと思っていた。
「怖かった――本当は、ずっとずっと怖かった。でも、琥珀はきっと俺より怖い思いをしていたんだろうな」
あの母の憎悪の眼差しも、俺や自分を否定する言葉もなにもかもを、兄はただひとりで受け止めていてくれた。
そして今更ながら、考えるんだ。彼が他人を傷つけてまで金を稼いだわけを。
(もし、俺だったら)
先に、壊れてしまいたかっただろう。大事なものなんて無いと。そんなものを持つ価値は自分にないと振っ切れてしまえば、あとは理由を外に求めるほかなくなる。
ただ、あなたの為にと。
ただ、愛おしいきょうだいの為にと、そう思えば何も怖くなくなるんじゃないだろうか。
でも、俺はそうは思えない。理由を外へ持っていくのは、どうしたって俺には無理だった。
「だからもう、さよならだ」
痛みや罪悪感で恐怖心を薄めては飲み込んで、きっと唯々彼は『僕のためだよ』と笑った。自分と俺の為に、彼は戦った。
だってきっとそう。
彼は愛されていない『海斗』でもあったのだから。
振り返る。すぐ傍まで来ていた笹岡の手を取る。指の間に互いの指を絡めて額を合せ、祈るように彼女は問う。
「もういいの?」
「……うん」
「きっと、すごく痛いよ?」
「いいんだ。ありきたりな言葉だけど『琥珀は此処にいるから』」
とん、と自分の胸を指した。
先程の笹岡の言葉を借りて、少しだけ笑う。それでいい。ありきたりでいい。特別なんて、なんにも求めてない。
彼女にもう一度だけ琥珀の姿を求めて、俺はそっと顔を上げる。
笹岡の頬を涙が伝う。その涙を拭ってやりながら、俺は何度もあの日を思い出す。
『お前を守り切れないのが――怖い』
そう言って泣いた兄を想いながら、俺はあの日と同じように笹岡の頬にそっと口づけた。
あの冬の日、琥珀の墓の前で演じた琥珀の最期を俺達は繰り返す。大きくて大切で愛おしくて、死なせてやれなかった互いの半身を互いの手のひらから感じながら、ゆっくりと手離す。
「――おやすみ、琥珀」
癒着した互いをゆっくりと引き剥がすときがきた。剥がした場所から血は流れる。でもそれはきっとひとりぶんの血なんだろう。
***
「よぉ」
地元の駅に戻ると、なぜか仏頂面の涼介が出迎えてくれた。笹岡がこっそりと連絡したらしい。彼女は隣でにやにやと笑っている。
「海斗、お前帰って来てたんなら連絡しろよ」
「いや、連絡してどうするんだよ」
「地元で会えば交通費浮くだろうが」
「そこまで俺に会いたいわけ?お前。しかももう夕方だし俺、今日中に向こうに帰るよ?」
「別に。夕飯くらい一緒に食えるだろ」
「お前そんなに暇なのか?」
「……心配なだけだし」
「は?」
「とにかく連絡くらいしろよな!」
「涼介さん、なんだかんだ言って優しいよねー」
そっぽを向いて歩き出した涼介のあとを笹岡が追う。そんな彼女を涼介が軽く小突く。
「カイー!置いてっちゃうよ!」
いつもと同じように手を振る笹岡にふと、ちりつく感情を覚える。でもまだその気持ちを直視はできない。このままの関係が心地良いし、それで良いと思う。
でも――
「はいはい、今行くよ。――みさき」
ただそう呼べば、彼女は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
涼介が居る。みさきが居る。琥珀が遺してくれたものは――彼の世界は、未だ此処にある。
あのあたたかな色彩の、水槽のなかのように。
20170324 END
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