バットエンドにたどり着くまで
一週間後、みさきは無事に退院した。右手はギプスで固定されているし、腹部の傷も完全にふさがったわけではないけれど、体力もゆっくりと戻ってきているようだった。
久しぶりの自分のべッドはとても気分が落ち着いた。さわやかな白いシーツと桃色のタオルケットは母が洗濯しておいてくれたらしく、洗剤の清潔な香りがほのかにする。
ばふっと枕に顔を埋めながら横目でカレンダーを見る。
「夏休みでよかった……」
今日は8月3日。まだまだ夏休みはたっぷりとある。
学校であれこれ詮索されなくて済む。
退院する前日、担任教師がお見舞いにきてくれた。中年の男性が涙を滲ませて良かった良かったと泣く様は嬉しくも奇妙な光景だった。
(――これは『私』なの……?本当に私が体験している出来事なの?)
そんな教師を前に、みさきはそんな事を考えていた。
右腕は動かず、腹はざっくりと縫われているのにまるで他人事みたいに感じて仕方がなかった。
「こうちゃん……カイ……」
あの日。
海斗が帰ってからも、ずっと二人の事を考えていた。
『――みさき』
あの時の呼び方は本当に琥珀にそっくりだった。呼び方だけじゃない。仕草も、物腰も、なにもかもが琥珀そのものだった。
「事故にあってぼうっとしていたからかな……?」
雰囲気が琥珀のそれだと思えたのは恋しさと願望からくる記憶の後付けかもしれない。しかし名前の呼び方と、嘘を吐くときのあの仕草は確かに『彼がしたこと』だ。
『そういや、久しぶりにみさきって呼んだな。ただ理由なんてないよ。なんとなく、さ』
もし。
海斗の言ったあの言葉が『仕草の通りに』嘘なのだとしたら?
もし、彼が海斗ではなくて
――琥珀なのだとしたら?
その時ドアがノックされてみさきははっとした。頭をぶんぶんと振ってその馬鹿らしい考えを振り払おうとした。
深呼吸してから、返事をする。
「はい?」
「みさきちゃん、しのぶちゃんが来ているのだけどお通ししてもいいかしら?会いたくなければ、お母さん断ってくるわ」
「しのが?」
山科しのぶは学校で一番仲の良い、親友だ。
「大丈夫だよ、お母さん。私、しのに会いたい」
そう言うと母はほっとしたようだった。じゃあ呼んでくるわね、とにこりと笑って階段を下りていく。
玄関でしのぶと母がいくつか言葉を交わしている声が聞こえて、すぐに階段を上がってくる足音がした。そしてゆっくりとドアが開く。
「みさきー……?」
おずおずと顔をのぞかせた親友に、みさきは思わず吹き出した。
「どうしたの、しの。さっさと入りなよ」
そう言うと、しのぶは大きな目を潤ませてベッドに腰掛けていたみさきに駆け寄った。
「みさきー!」
みさきの腰のあたりに腕を回して、顔を伏せてわんわんとしのぶはなく。みさきはしのぶのさらさらとしたセミロングの髪を撫でながら苦笑した。
「心配かけてごめんね。あと、お腹縫ってるからちょっとホールド緩めてー」
わざと明るい声をだしてみた。親友の前で崩れそうになる、最後の矜持だった。
「ご、ごめん……」
しのぶは腕を緩めるとみさきの左手にそっと手を乗せてすすり泣いて
「大変だったね。みさきが無事で良かった……ほんとに良かったよ。ニュースみて、ずっと心配してて。センセーが連絡くれて、それで」
本当に心配してくれていたのだろう。嬉しいのと、それだけひどい出来事だったのだと――そしてそれを体験したのが自分だと思うと――自然と涙が溢れてくる。
泣きたくなどないのに、見られたくないのに、それは際限なく溢れては頬を汚した。
だって私は失くしすぎた。
愛する人も、好いた音も、抱きしめる腕もなにもかも。
「うん……ごめんね、びっくりしたね」
「謝らないでよ。だって、みさき、右手っ……」
お互いに涙でぐちゃぐちゃの顔で、言葉を続ける。
「しの。私、ピアノもう駄目かもしれない」
「そんなこと言わないでよ。治るよ……!大丈夫。治して、一緒の音大行こうよ……お願い」
みさきとしのぶは、音楽科のある高校に通っている。授業の大半は音楽に関連するものだ。勿論、そこに通う生徒のほとんどが音大へ進学する。
「うん……そうだね。しのと一緒の音大に、いきたいなあ」
失くしてしまったものを想うと、さらに涙が溢れた。
(ああ、ピアノに触りたい)
触れたい。あの冷たい鍵盤に。指先に力を込めて、想いを込めて、大好きな曲を弾きたい。
(でも――)
触れてしまうのが怖い。触れたらきっと知ってしまう。無知という甘い膜で覆った現実が破けて出てきてしまう。そして、自分はもう二度とピアノが弾けないのだと思い知ってしまう。
「……あと、琥珀さんの事もきいたよ」
鞄からハンカチを出して、乱暴に顔を拭いながら、しのぶはしゃくりあげる。
「琥珀さん、あんなに良い人だったのに……なんで、」
「うん」
「みさき、置いて逝っちゃう、なんて」
「……うん」
「そんなのって、ない、ひどい」
泣きすぎて言葉になっていないけれど、しのぶの気持ちは痛い程わかった。
自分の事を想って泣いてくれているのが、辛いくらいに――。
だから、みさきも虚勢を張るのをやめた。彼女の前でだけは、正直でいよう。
思ったことを。不安なことを。彼女に曝け出してみよう。
そう、思った。
「ねえ、しの」
「な、なに……?」
「こうちゃん、かもしれないの」
両手で瞳を覆う。
馬鹿らしくも願わずにいられない、それでいて恐ろしい――この胸の内に巣くう疑問を口に出してしまいたかった。
泣いても泣いても、涙は涸れることを知らない。
彼を亡くしただけじゃない。腕を駄目にしたことだけじゃない。
あの事故はどうしてこんなにひどい疑問まで残していくのだろう。なぜ素直に琥珀を失ったと納得させてくれないのだろう。海斗がだけでも生きていてくれて嬉しい。それだけでもまだ救いがある。
なのになんでこんな浅ましい、醜い希望を持たせるのだろう。
「え、何が……?」
「今生きている海斗が――本当は琥珀かもしれない」
親友はわけがわからないといった顔をする。
当たり前だ。ファンタジーの世界じゃあるまいし、双子の存在が丸ごと入れ替わるなんてそうそうあるわけがない。
「そんなわけ、ないでしょう?」
「……そう、なんだけど」
みさきは病室であった出来事をしのぶに話した。
しのぶは信じられないという顔をしながらも、真剣にきいてくれた。
「でも、もしみさきの言う通りに海斗さんが琥珀さんのふりをしてるんなら……理由は?」
「わからない。もしかして私が嫌になったから、とか」
「あんたと別れたいから海斗さんのフリをしてるってこと?」
「……」
わからない。みさきはただ黙って首をふる。
恋人が嫌になって死んだ双子のフリをするなんて馬鹿げてる。あるはずがない。しかし理由なんて他に思いつかない。
そもそも他人のふりをするメリットなんてないはずだ。むしろデメリットの方が多い気がする。
「みさきはそれが気になるの?」
「うん」
「じゃあ、元気になったら調べてみようよ。海斗さんとも話をしてさ。そうしたら、勘違いだって感じると思うんだ。その方がすっきりするでしょ」
「……そうかもしれない」
もし『彼』が琥珀だったとしたら、私はどうするんだろう。
理由はわからないけれど、彼が海斗として生きたいのだとしたら――いや、私との関わりを断ちたいのだとしたら――どうしたらいいのか。
わからない。
わからないけれど。
「うん、しの。一緒に調べてくれる?」
みさきはそう頼んだ。
*
その後、みさきはリハビリに勤しんだ。腹の傷は無理をしなければ大丈夫だと言われていたので、右手だけは動かさないようにしながら短い距離をゆっくり散歩したり、左手でダンベルを上げ下げしたり。
利き手が使えない不自由さを克服するために左手で書き取りをしたりもした。
とにかく何かをしていれば、深く考えずにすむからだ。
そんな風に過ごして、気が付けば八月も半ばになっていた。
『かなり動けるようになったよ。右手はまだまだだけど』
しのぶにそうラインを送るとすぐに返事が返ってきた。
『良かった!じゃあさ、ちょっと琥珀さんと海斗さんのこと誰かに聞きにいこうよ』
『うん』
『みさきは共通の知り合いとかいるの?』
『こうちゃんの大学に、ひとりいる。沙織さんってひと』
『ラインとかは知ってる?』
『一応。あんまり連絡したことないけど』
『じゃあ、してみてよ。そんで会えるかどうかきいてみて?』
『わかった。じゃあ今からライン送ってみる』
『じゃあ、返事がきたら教えて』
そう返事が来てラインは沈黙した。
「左手で打つのも……慣れるものなんだね」
独り言ちて、笑う。
泣いてもいい。迷ってもいい。
とりあえず出来ることをしてみよう。
『沙織さん。お久しぶりです。ちょっとお聞きしたいことがあるんです。近いうちにお会いできませんか』
文章を作成して、送信ボタンを押す。
「こうちゃん……」
みさきは祈るような気持ちでスマホをこつんと額に当てて目を閉ざした。
*前 しおり 次#
title 彼女の為に泣いた
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