彼女をあの夏に置き去りにした
沙織は会う約束を了承してくれた。とりあえずみさきが彼女と会って話を聞いて、そのあとしのぶに結果を報告するつもりだ。
指定された場所は駅中にあるカフェだ。みさきの自宅から歩いていける距離なのでとてもありがたかった。正直まだバスには乗りたくない。
約束の時間まで余裕があるのでリビングでテレビをつけると、自分が遭遇したあのバス事故について放送されていた。咄嗟に番組を変えようとしたが――
『この事故では25人の死者が――』『――運転手の過労が問題となっており』『しかし、ひどいですね』『ええ、こうなる前にどうして会社は――』
うるさい。どうせ他人事のくせに。面白がってるくせに。
「……っ」
鉛を飲み込んだように胃が重くなる。首を絞められているみたいに、息が苦しい。
瞳を閉ざすとあの時の火の臭いや、音がリアルに甦ってきてだらりと脂汗が流れてきた。
あの日から、家には何度か取材と称してマスコミが来た。父と母が追い払ってくれたが、家のポストには記者らしき人達の名刺がどっさりと入っている。
「負けるもんか」
せり上がって来そうな胃液を堪えて、みさきは呻くように呟いた。
*
右手のギプスができるだけ目立たないように薄手のパーカーを肩からかけて、桃色のワンピースで出かけた。昼時を過ぎていたため、カフェは空いていた。
みさきも良く訪れるカフェだったので勝手はよくわかる。先に店頭で注文を済ませるタイプの店なのでアイスティーを注文してその場で飲み物を貰い、きょろきょろとまわりを見渡していると、一番奥の窓際の席にいた女性が手を振りながら
「笹岡さん、こっちこっち!」
長い足をダメージジーンズに包んで、シンプルな黒いシャツを着た女性が呼ぶ。
さっそく席につくと、みさきはお礼を言った。
「沙織さん、ありがとうございます。来てくれて」
「ううん、大丈夫。……笹岡さん、大変だったね」
目を伏せながら沙織はアイスコーヒーをストローでかるくかき混ぜた。からころと氷が鳴る。
「あたしもまだ小浜が死んだって、信じられなくて……」
沙織は琥珀の一学年上のサークルの先輩で、みさきの高校の卒業生だ。彼女は母校の部活動によく顔を出すので仲良くなった。世話好きなひとで男女ともに好かれるタイプのさっぱりした女性だ。
「本題に入るね。あたしに訊きたい事ってなにかな?」
「それは……」
みさきは少し迷う。特別親しいわけでもない人に琥珀と海斗の話をしても仕方がないだろう。ここは当たり障りのない事を言ったほうがよさそうだ。
「琥珀が死ぬ前になにか言ってませんでしたか?私と別れたいとか……そんなようなこと。ちょっと亡くなる直前に喧嘩しちゃって、それを私ずっと気にしてて……」
(ちょっと苦しいかな……)
そう思いながらもできるだけ沙織の目を見ないように俯きながら、訊いてみる。
「小浜が?それはないと思うよ。笹岡さんと旅行行くんだって嬉しそうにしてたし、その為にバイトもかなり詰めてたみたいだよ。気にしすぎだよ。笹岡さん、気になるのはわかるけど小浜の事想うなら最後まであいつが貴女の事好いてたってわかってあげて」
「そう……ですか」
「どんな喧嘩したのかわからないけど、でも笹岡さんと別れたがってたって事はないと思う」
「じゃあ、何か変わったことってありませんでしたか?」
「うーん……あたしも学年違うしそこまで詳しくないけどなあ……」
沙織は首を傾げて少し考えるようなそぶりをみせた。
「そういえば、しょっちゅうサークルを休んだんだよ。知っての通り、うちは美術サークルなんだけど、夏休みに絵画会への出展があるの。だから結構忙しいんだ。なのに何回も休むから理由を訊いたら『バイトが忙しいんです』って」
『ねえ、最近バイト忙しいの?』
『うーん……そうでもないよ?』
みさきは旅行中にした琥珀との会話を思い出す。あのとき琥珀は嘘を吐くときの仕草をしてみせた。やはりあれは嘘だったのだ。
「でも小浜は自宅から通ってるし、お金がどうしてそんなに要るのかわけわかんなかった。欲しいものでもあるのかと思ったけど……それにしても授業以外はほとんどバイトで潰してたみたい。彼氏に聞いたの。あ、あたしの彼氏が小浜と同級で、仲良かったんだ。でね、逆に訊くんだけど、笹岡さんは小浜があんなにバイトしてた理由とか知ってたりするかな?」
「私も……特には」
みさきは首を振る。
バイトをしていたことは知っていた。でもどんなバイトかも、どれくらいの時間入っているのかも知らなかった。
自分は受験生で塾やピアノに忙しかったし、デートの時は必ず時間をとってくれていた。
だから――私はなにも知らない。
「これはね、言おうか迷ってたんだけど……」
沙織は少し躊躇ってから意を決したように言う。
「小浜のやってたバイト、あんまり良くないものなんじゃないかな」
「え?」
「ふらっと家を出て、何日か帰って無い日もあったみたいだし、時々殴られたみたいに顔腫らして学校来てたときもあるんだ。それに、街中でガラの良くなさそうなオヤジと一緒にいたの見たってやつがいるの」
かたかたと手が震える。それを沙織に気取られないように、みさきはハンカチを腿の上でぎゅっと握った。
「あ、でも、もちろん、ガラの悪いオヤジうんぬんって言うのは見違えかもしれないし、顔が腫れてたのはたんなる怪我かもしれない。家に帰ってなかったのも……友達と遊んでただけかもしれない。小浜は大人しいし、優しいし、友達も多かったからさ」
沙織はみさきを心配させないようにと、両手を振りながら必死にそう言い繕う。
しかしそう言っている彼女自身がそれを信じていないのは明白で、その話を聞いたみさきも彼がやっていたバイトが少なくともまともな部類ではないことが理解できた。
「そう……そう、ですよね」
それでも、そう答えるしかなかった。
沙織は親しかった先輩として事実を語っているだけだろうし、嘘をつく必要もない。
ぐらぐらと眩暈がした。自分と別れたいとか、そんな陳腐な話じゃなくもっと重大な――琥珀という人物像を覆す何かが、見えてきてしまった。
――気持ちが悪い。
「笹岡さん!笹岡さん!だいじょうぶ!?」
こくこくと頷くものの、身体に力が入らず、みさきは車で送ってくれるという沙織に甘えて自宅まで乗せてもらう事にした。
*
自室のベッド。
最近は此処で考え事をすることが多くなった。前は寝る時しか使わなかったのに、近頃は勉強も運動も集中することが難しくて、こうしてベッドに横になっては思考の海に沈んでばかりいる。
受験も――大学を変えるか、そもそもこのまま音楽科に在籍していて大丈夫なのかもきちんと両親や学校側とも話し合わなくてはならない。
「沙織さんとしのぶにラインしないと……」
ベッドに寝たままサイドテーブルに置いたスマホに左手を伸ばすと、こつんと指先だけが当たり、スマホが落下した。
それをぼんやりと見届けて面倒になり、連絡するのはしばらく後でいいか、と思う。
もう一度サイドテーブルに手を伸ばす。そして琥珀の形見であるあの本を手に取った。
「ナターシャは此処にいた、か」
ベッドの上で胡坐をかいて、左手で器用にぱらぱらとページをめくる。
状態が良くないのでところどころ判別がつかないが、辛うじて読める部分がいくつかある。
『それでいて、彼女は自分が誰であるかを××しなかった。彼女は自分がナターシャであることを理解していたが、』
『×××であったので、ナターシャでなくとも』
『それで、良いと』
『彼女は――言うのだ』
『貴方がもし泣くのであれば』
『私は』
『ナターシャでいよう』
『それで貴方が幸せなら』
「――私はそうしよう」
最後の一文を声に出して、みさきは声を殺して泣いた。
自分が誰なのか知っている人はとても幸運だと思う。
人は場面ごとに振る舞いを変えるが、極端な話、どんなに裏が猫かぶりで表が性悪だろうと、己がそれを自己と認識しているかぎり『自分でいられる』のだ。
これは自分ではない、と思いながら他人と接していけばきっと人は壊れていくだろう。
ある人の前では夏が好きだと言い、またある人の前では冬が好きだと言う。そんな『設定』を使い分けて生きていけるとしたら――とても哀しい話だ。
「こうちゃん……どうして?」
『こうちゃんの事、私はよくわかってるもん、ね?』
旅行の時そう言った私に、哀しそうに笑ったあなた。
嘘ばかり。
私はなにもわかっていなかった。きっとあなたについて、なにもかも。
取り戻したいと願っていても遅すぎて、そもそも何を取り戻したいのかもわからなくて、ただあなたの名を呼んで泣く事しかできない。
――恨んでいますか。
そう問う事すら、もうできない。
あなたが何をしていたのか。何を私に願っていたのか、知る術はもう、ない。
ただ私の為にと、微笑み、手を差し出し、宥め、支え。
私にすべてを差し出して、私にあなたの後ろ暗いところを見せてはくれなかった。
『君を守るためだよ』
きっと生きていたら琥珀はそう言っただろう。
でもそんなやさしさは要らなかった。
「ねえ。あなたは、誰?」
あなたはいったい誰だったんだろう。私は何も知らないままだ。
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title 彼女の為に泣いた
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