いつだって本当を殺しながら
<彼>はもはや返らない日々を思い出していた。亡くなった兄弟のスマートフォンは大雑把で横着な彼らしくパスコードが設定されていなかったので簡単に開くことができた。
よくあの事故で無事だったな、と思いながら<彼>は片手でそれを弄る。
持ち主が死んで携帯端末だけ残るなんて、なんて滑稽なんだろう。いっそすがすがしく、なにもかもを残さずこの世から消えてしまえばいいものを。――中途半端はだれも救わないのだから。
もともとファミリー向けにまとめて二台買うとお得と言う触れ込みで、彼と自分は同じ機種を買ったので操作に悩むことはなかった。
写真はスマートフォン自体が色や人物を見分け、カテゴライズしてくれているのでお目当ての写真はすぐに見つかった。
ひとつは古いアルバムの写真をスマホのカメラで写したもの。ベージュのカバーがかけられたソファでまだ幼い自分たち兄弟が、並んでお菓子を食べている。
<彼>は大きな板チョコ一枚。自分は棒状のクッキーにチョコレートがコーティングされたお菓子を一本口に含んでいる。
「……はっ」
彼は哂った。
幸せそうな一枚。
しかし此処に写されている写真には大きな不幸も写っている。そしてそれに気づく人は――きっといないだろう。
自分たちと親しくしていたあの少女ですら、現になおも気づいていないのだから。
笹岡みさき。
自分たち兄弟にとって、あの子は太陽だった。
何事も一番を目指し、それを達成できないのならば生きていても仕方のないという顔ばかりしていた、彼女。
その姿勢がまぶしいから太陽なのではない。
どろりどろりとした『あの』汚いものを自分たちならば吸い取ってあげられる。あのこを覆うとする淀みをべりべりと引き剥がして、甘くて綺麗な言葉でコーティングしてあげればあのこはとても綺麗になる。
あのこは、うつくしいひとで、いることができる。
うつくしくなったあのこは、自分たちを照らしてくれる。
あのこの親も友人もできない事が自分たちにはできる。こんな自分たちに、できるたったひとつのこと。
だからあの子は<自分たち>にとって太陽だった。
さらにスマートフォンを操作して一番新しい写真を開く。
あの旅行の写真。
自分たち兄弟と、あの子。
少女を真ん中に互いに肩をだいてカメラに向かって歯を見せて笑っている。
<彼>はもはやこの世に存在しない自分の兄弟の顔を、そっと撫ぜた。
このままで、いい――。自分は。自分たちは。きっとこれで良かったんだ。少なくとも不幸になる数が、ひとつ減っただけ。
だから、あの少女に願う。
どうか、何にも気づかないでくれ、と。
*
朝起きると誰もいなかった。
両親は共働きなのであたりまえだ。花柄のクロスがかけられたテーブルには母が用意してくれたであろう朝食が虫よけネットにかけられておいてある。
「おいしそう……」
程良く罅の入ったライ麦パンに母御手製の鶏ハムが挟まった特製ホットサンド、ベーコンの乗ったサラダ、ポテトのポタージュ。まるで雑誌に載ってる女子大生が好みそうなメニューである。
「でも量が多いわ」
母はなるべく片手で食べやすいものを用意してくれているらしかった。みさきとしては申し訳ないようなありがたいような複雑な気持ちになる。
別に左手でもスプーンやフォークをつかえばたいていの食事は摂れる。そこまで気遣ってくれなくてもいいのに――と思ってしまうのは親不孝だろうか。
ホットサンドをかじる。鶏ハムはほんのりとした塩レモンの味だ。塩加減が絶妙で、ふわりと柔らかい。
テーブルクロスや母の持ち物から分かる通り、彼女はとても少女趣味だ。なんでもきょうだいが兄と弟しかいなかったので、女性らしいものにとても憧れがあるんだとか。それは結構だが、娘に夢をみるのはやめて欲しかった。
「朝からカレーが食べたいとか言ったら卒倒しそうだもの」
そんなの女の子じゃない!とか言って。
独り言ちながら朝食を摂りつつ、みさきはラインを確認する。両親がいるときは食事中にスマホを弄るなと叱られるので、普段はしない。一人でいる時食事をとりながらなんとはなしにスマホを弄るのがなんというか……『ひみつのいたずら』みたいな気分で好きなのだ。
「……カイ」
『笹岡、今日会えるか?』
顔文字もスタンプもない素っ気ない文章だった。海斗はいつもそうだった。琥珀はそれなりに気を遣ってか絵文字やスタンプを使ってくれていたのに、海斗は単刀直入で余計なものは一切入れない。
海斗とはあの病室で会った日以来会っていない。海斗が琥珀かもしれないと思い始めてから怖くて連絡も避けていた。
「……なんだろ」
それでも既読にしてしまった以上、スルーすることは憚られた。
『今日は暇だけど。なんか用事?』
なるべくいつも通りが良いだろうと思い、可愛らしい黒猫がはてなマークを浮かべているスタンプも一緒送信しておく。
返信はすぐにきた。
『いや?俺ヒマだからってのもあるんだけど、うちの両親がお前の事心配しててさ。暇なら久しぶりに家こないか?』
『私が行っても平気なの?』
『うちの親も他人の心配してる方が気がまぎれるんだろ』
『そういうものかしら』
――そういうものかしら
自分で打って改めてそう思う。まだ事故からそんなに日は経っていない。息子を亡くした親が他人の心配をしている余裕があるものだろうかと思う。
『そういうものさ』
海斗が画面の向こうで苦笑している気がした。
人それぞれかもしれない。
『わかった』
早めに支度を済ませてかるく化粧をしよう。そう思いながらみさきはホットサンドの最後の一口を飲み込んだ。
※
小浜家はみさきの家から三軒隣にある。
その家の家主と同じく、品の良い佇まいで調度品もアンティークであるし、間接照明がほのかに部屋を照らしていて、ホテルのラウンジのようでもあった。
「みさきさん、よく来たね」
「ごめんね……うちの子が旅行に誘ったからあんな事故に巻き込まれて」
玄関で出迎えてくれた幼馴染の両親は涙を浮かべながらそう言った。
二人ともやはりやつれていた。母親のほうは特に顕著で、以前はふっくらしていた頬がこけて見える。まぶたはぼってりと腫れているし、やはり毎日泣いて過ごしているのだろうということが見て取れた。
「いいえ――私、嬉しかったんです。二人ともすごく私に気を遣ってくれて。優しくて……受験も頑張ろうって思えて……」
そう。頑張ろうと思えたの。ピアノも、勉強も。
きっと私はあのひとの言葉があれば、なんだって頑張ることができた。
「今日は来てくれてありがとうね。海斗は自分の部屋にいるの。ゆっくりしていってね」
礼を述べてから二階にある海斗の部屋に向かった。
「カイ、入るよ?」
ノックをしながら声を掛けると返事があったので遠慮なく部屋に入る。
「よ、笹岡。元気か?」
「元気よ。おかげさまでね」
海斗の部屋は本人がスポーツ好きなだけあって、色んなスポーツ選手のポスターや自身が部活で獲得したトロフィーや賞状が飾ってある。
ベッドのシーツはぐしゃぐしゃで、部屋の真ん中に小さなテーブルが置いてあり、その上もあまり片付いていない。
「相変わらず汚い部屋ね。掃除しなさいよ」
「うるさいなーいいの。これで落ち着くんだから」
文句を言いつつもテーブルの前、海斗の正面に腰を下ろす。テーブルの上に乱雑に積みCDはジャンルが様々だ。ジャズ、ロック、クラシック。落語まであった。
「なんて脈絡のない……」
呆れるべきか感心するべきかわからず、半眼になって呟くと海斗が笑った。
「いい趣味してるだろ。なにか聴く?」
「……じゃあ、これ」
エリック・サティのCDを差し出すと、海斗がそれをミニコンポにセットしてくれた。最初に流れたのはジムノペディ第一番だった。
右手、左手と交互に沈むような深い音。
学校の授業で習った。
ジムノペディは三部から成る曲で、ジムノペディ第一番の指示は確かこう
――ゆっくりと苦しみをもって。
最初ピアノで弾いたとき、正直その意味はわからなかった。そして表現もできなかった。私は無知でそしてぬくぬくと幸福な無菌室にいたから。
今ならわかるかもしれない。そしてあの時とは違う音色でジムノペディを弾けるかもしれない。――皮肉な事に、今度は演奏する腕を失くしてしまったけれど。
そう思うと、余計にピアノに触れたくなった。焦げ付くような胸の痛みを。この想いの切なさを鍵盤に触れて形にしたい。
あの贅沢な白黒の鍵盤はきっとひやりと私を迎えてくれる。静かに受け入れてくれただろう。
「……笹岡、大丈夫?」
「その質問は好きじゃないからやめて」
だいたいの大丈夫かという問いは『大丈夫』だと相手が答える事を期待しているものだ。親しくない間柄の相手が問う場合は特に。しかし――
「俺になら『大丈夫じゃない』って言えるだろ。だから訊いてるんだよ」
「……」
やはり考えている事は御見通しらしかった。そう言われると、応えざるをえないのだ。
琥珀とは恋人で、海斗は幼馴染。そして双方に共通する肩書は『とても親しい友』でもあった。
なんでも言えるしなんでもわかる。
すくなくとも、みさきはそう思っていた。沙織にあのことを聞くまでは。
「大丈夫じゃない。大丈夫なわけ、ないじゃない――」
そこまで言いかけて、ノックの音に言葉は遮られた。
「ごめんなさいね。飲み物を持ってきたのだけど」
おずおずとドアが開かれる。海斗が素早く立ち上がって飲み物の乗ったトレーを受け取った。
「海斗は紅茶で良いわよね?みさきちゃんはりんごジュースが好きだったわよね?」
よかったかしら?と言われてみさきは嬉しさと切なさでいっぱいになった。以前何気なく言った好みを覚えていてくれたんだ。
「ありがとう。でも俺はコーヒーが好きなんだけど。母さん」
「あら、そうだったかしら?コーヒーが好きなのは、琥珀じゃなかった?」
「実の息子の好みくらい、覚えておいてよ」
「おかしいわねえ」
母親は不思議そうに首を傾げた。
(そうだ。紅茶が好きなのはこうちゃんだ。こうちゃんは紅茶が大好きで、色々な茶葉をあちこちで買ってた。特に好きなのはキーマンのストレートで……)
そこまでこだわりのあるものを、親が間違える?
またじわりと嫌な思いが湧いて来た。身体の芯がぞわりとして肌が粟立つ。
ねえ、お願いよ。
もうやめて、こんなの。
「おばさん」
勇気をだして訊いてみた。
「私の事を心配してくださるのはとても嬉しいです。でもおばさん自身は、大丈夫なんですか」
私の嫌いなこの質問。
ねえ、お願い。大丈夫だと答えて。紅茶はたんなるおばさんの勘違いよね。
おばさんはきょとんとしたあとに、ふっと瞳を細めて微笑んだ。どきりとした。もともと綺麗なひとだったけれど、息子を亡くしたという影すら彼女を美しく見せた。
「みさきちゃん。あの事故にあったひとも、そしてその家族も――大丈夫なひとなんてきっといないわ。だっておばさんはあの子が大事だったから」
そう言われてかっと頬が熱くなった。
当たり前だ。なのに自分の不安に負けて最低な事を訊いた。
おばさんは気を悪くした様子もなく、細めた瞳に美しい光を湛えたまま言葉を続けた。
「私には。私達には――あの子が『必要』だったのよ」
彼女はそう言うと、みさきの頭を撫でて階段を下りて行った。
「どうしたんだよ、お前らしくもない」
茫然と立ったままのみさきを他所に、海斗はゆったりとカップを口に運びながら問う。
振り返ると、いつも見慣れた『彼』が紅茶を飲んでいる。
カップを持つ手つき。伏し目がちにカップに口をつける、あの癖。一口含んだあとの
「うん、美味しい」
微笑んで言う、あの言葉――。
めまいがする。
「ねえ、どうして?」
思ったと同時に、今度は声に出してしまっていた。
「ねえ、どうしてそんなにこうちゃんと似ているの?双子だからとかそういうレベルじゃないわ。まるでこうちゃんそのものみたいに、仕草や言動が似すぎている」
「……」
海斗は黙ってカップをソーサーの上に戻した。立ち上がってみさきの前までくると、そっと名を呼んだ。
「みさき」
下の名前で呼ばれてびくりとする。何も聞きたくないとばかりに両手で耳をふさぐとその手を掴まれて、覗き込むように視線を合わせてくる。
「自分っていうのは脆いものだよ。信じられないくらい、ほんとうに、もろい」
「なに、それ」
「お前はさっきの母さんの言葉をどう思う?」
「どうって、こうちゃんはおばさんにとって大切だったんだなって」
「そうだな。でも間違ってはいないけど、適格じゃない」
手を放すと、彼は覗き込んでいた姿勢を元に正した。そこそこ長身の彼がみさきを見下ろす形になる。
「言葉の脚色をやめろ。『必要』を深読みするな。あれはそのままの意味だ」
「どういう意味よ」
「だからそのままだって。笹岡、お前にだって琥珀は必要だったろう。勉強で、スポーツでとにかくなんでも一番を取れないと気が済まないお前は、その都度琥珀の助けを必要とした。あの旅行の時と同じように」
「……それは」
確かにそうだ。
いつだって辛くなれば琥珀に相談していた。そして励ましてもらって力をもらっていた。
「お前が受験であんな風にならなければ、俺達は旅行になんて行かなかったさ」
「――っ!」
その通りだ。
私が自分で自分の感情をコントロールできていれば、日常で無理をすることもなかっただろう。そして親が私を心配することもなかったはずだ。
彼等に娘を旅行に連れて行ってくれなんて、頼むこともなかっただろう。
「私のせいだって、いうの――?」
その問いには答えずに、彼は言う。
「人はひとりじゃ生きていけない。そしてそれが間違っているわけじゃない。だけどひとりで生きようともせずに他人を頼るのは間違ってる。搾取される人間のことも考えろ」
何も答えることができなくて、みさきは部屋を飛び出した。
彼の言葉の通りだ。
あの事故は私のせいじゃない。でも琥珀が亡くなった間接的な原因は私にあった。私が私を守れなかったから。
琥珀を頼り続けていたから、琥珀は死んだ。
そして生き残った<彼>はこのうえない沈痛を抱えて今も生きている――。
「私って最低……」
家の前でみさきは声を殺さず泣いた。
あの人を失ったのはわたしのせい。
あの人の家族も兄弟も傷つけて、自分が一番つらいと泣いている自分が大嫌い。
「こうちゃん」
私はあなたが大好きだったけれど、あなたはどうだったんだろう。
あなたの事ならなんでもわかってると思ってた。
好きな本。大好きな紅茶。お気に入りの服。好んでいたケーキ。ふとした瞬間に見せる表情と、うつくしい仕草。
『みさき』
そう呼んで、優しく微笑むあのすがたを今いちどと望むことは、罪だろうか。
あなたのことも、そして今なお苦しんでいる<彼>のこともなにもわかっていなかった私が、そう望むことは。
「こうちゃん、ごめん」
そう、きっと罪だった。
わたしにそんな資格など、ありはしない。
*前 しおり 次#
title 彼女の為に泣いた
back to top