ただひとりのにんげんでした

 あの部屋で聴いたジムノペディが私を苦しめる。
 
 ――ゆっくりと苦しみをもって

 じわりじわり、滲み込むジムノペディの旋律。
 ジムノペディを奏でるための苦しみはどんなものだろう。

 真綿でゆっくりと首を絞めるような?
 それともあの愛した白黒の鍵盤をさらりとした毒で冒すような?
 美しい絵に、あえて墨を落とすような?

 いいえ。きっと違う。私の場合は。

 私のうちがわにある、あの人だけが知る傷口をひらいて、どろりとした血液で私自身の『からっぽなうつわ』に満たしていくかのような、なのでしょうね。

 あなたを好きでした。
 あなたが好きでした。

 勉強で、スポーツで、音楽で。私は常に一番を目指していたから。
 だって、私は本来中身のない人間だもの。

 だれだって素っ気ないコッペパンより、クリームたっぷりの菓子パンのほうが、すきでしょう?
 だから自分のなかを、なにかでいっぱいに満たしたかった。
 
 ――好いて。満たして。私を。私のなかを。

「本当は、だめなんだ……こんなこと」

 そう言っては、いつもとは違う色にけぶる目元を細めて、あなたは私の為に肌を重ねた。
 そう、なにもかも私の為に。

 君を抱きたくないと、彼は言う。
 それは私の為であって、そして彼自身の為でもあった。

「ねえ、みさき。君は君らしくあれば良い。君は自分に中身が無いと言う。なにもないからっぽな自分に、無理やりに色んなものを詰め込もうとしている」

 瓦解していこうとしていく己を必死につなぎとめようとすればするほど、私はさらに壊れていく事しかできない。

 時には食事をすることができなくなり。
 またある時には笑う事をやめた。
 
 必要なエネルギーを自分の内側に注ぐためだけに、生活の必要すら切り捨てていけば良いのだと、私は今でもそう思っている。
 彼を失くした、今も。

 私たちは一緒。
 ずっと一緒。

 なぜ一緒に成長してきたのに恋をしたのは海斗ではなくて琥珀なの?
 その答えは単純で、あの人と私は壊れかたが一緒だったからなんだろう。

 からっぽな私は、からっぽな中身を傷で満たせば良いとすら思っていた。

「みさきのそれは、自傷行為だ」

 勉強、スポーツ、音楽。一見健全に見えるそれらすべてが君を傷つける、と彼は言った。
 
「空の自分を受け入れればいい。からっぽで何が悪い。僕は君になにも求めていない。陳腐だって良い。何度だって言うよ『そこにいて、そこで笑っていてくれれば』僕は」

 ――それでいいのに

 熱に浮かされた彼はいつになく饒舌で、なのに今にも泣きそうな顔をしていた。
 彼が何度私にそう望んでも、私は彼の願いを叶える事ができなかった。

 性分だとしか、言いようがない。

 私は教科書やピアノで自分を傷つけながら、自分を満たしていくだろう。そしてその先に望んでいるのは幸福ではない。
 幸福になりたいわけではなかった。

 生命を脅かすまでの、この狂暴な『渇き』をなんとかして――ただ生きていたかった。

「君が生きていれば、僕はそれでいい」

 だからあなたは私の為に私を傷つけ、私の為だけにあなた自身を傷つけた。





 今はひとりで、私を傷つけてくれるピアノを左手で触れている。
 いちばん好きなのは、ラの音。
 ポーンと高い澄んだ音。
 
 私が愛した、私の凶器。
 
 ドは黒
 レは赤
 ミは水
 ファは緑
 ソは桃
 ラは紫
 シは白

 私が知る、音の色。
 ねえ、そしたらジムノペディは何色になる?

 私を生かし続けてくれたあなたは、もういない。
 なら今、ジムノペディを弾けない私はどうなるんだろう、ね。


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title 彼女の為に泣いた
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