彼をなくした理由は彼にある
夏の終わりも、きっとあなたが一緒にいるんだと思ってた。
あなただけじゃない。ピアノも、教科書も、友達も。
なにもかもがずっと一緒で、たとえ形が変わろうとも共に在れるものだと思っていた。
「ねえ。みさきは今の海斗さんがもし本物の琥珀さんだったら、どうしたい?」
夏休みが終わり、新学期を迎えてからの初めての休日にしのぶは会いにきてくれた。
『当校と致しましては、みさきさんに休学をお勧めします』
両親を含めて面談した際、担任はそう言った。音楽科の教師は気難しいひとばかり、なんて言われている通り、担任も少し偏屈なひとではあった。
けれど生徒の望む『一番』を叶えてやりたいと心から願ってくれるひとでもあった。
『みさきさんは、きっとご自分で道を選べると思うんですよ』
担任は両親に自信を持ってそう断言してくれた。
成績優秀なみさきは普通科に転科することも可能だ。ただ普通科とは科目が異なるので単位の関係からまた三年生をもう一度やる事になるだろうとは言われた。しかし担任は、みさきが転科を望まないことを理解していたようだ。
みさきは転科を断り一年間休学することに決めた。両親もそれに賛成してくれた。
(ゆっくり決めればいい――。私は勉強もスポーツも得意。どこの大学だって、行ける)
その程度の自覚はあった。問題は『自覚』と『自信』が一致しないことなんだろう。
だからこそ日々をぼんやりと過ごすなか、親友が発した言葉はみさきにとって意外なものだった。
「え……?」
「学校の事は残念だけど……みさきが決めたなら私は文句は言わないよ。でも、琥珀さんの事だけは心配なんだ」
「しの……」
「だってもし本物の琥珀さんだったら、みさきには色々と聞く権利があると思うよ。それでみさきが傷ついたら……嫌だな。もうこれ以上傷ついて欲しくないよ」
「……うん」
両手で包んだグラスのなかで、氷がびしりと音をたてた。
沙織との会話で知った琥珀のバイト。双子の母親が、コーヒー派である海斗に紅茶を出したこと。仕草や口癖。
これまであった出来事をしのぶにはすべて話してあった。
確かに彼女の言う通りで琥珀が何かの意図があって海斗のふりをしているのならば――理由をきく必要があるはずなのだ。
しかし
「わからない」
みさきは小さな声で呟いた。
他人事のような言葉しかでてこない自分を、わらいたかった。
ちらりと右腕に視線を落とす。あんがい早く外れたギプス。
拘束から逃れたのに、ほとんど力がはいらない飾りのような右手。
片手で瞳を覆った。
「わからないの、でも、もし海斗がこうちゃんだとして、こうちゃんが海斗として生きる事が幸せなんだったら、このままでいいのかもしれない」
「みさき……」
「私はこうちゃんに頼りすぎたよ。ううん、違う。縋りすぎたんだね」
だってあなたは私をとても優しく傷つけてくれたから。
私は今、教科書もピアノも必要なくなって――違う、失くしてしまって――自分の中身になにか詰め込む方法を考え続けている。
からっぽなわたしを埋める、新しいなにかを。
『みさきのそれは、自傷行為だ』
そうだね、こうちゃん。きっとそうなんだろうね。
でも今はまだ、必要だと思えるの。
右腕も、教科書も、ピアノも。
まだ捨てることは出来ない。
だって針でピアスをあけて自分を美しく飾るのと、ピアノで自分を傷つけて中身を満たす事にどの程度の違いがあるの。見えるか見えないかの差異でしょう。
あのジムノペディを、奏でるために。
私の傷口をひらいてくれる、あのジムノペディを愛する為に。
「みさきはそう言うけど、なんで縋るのは駄目なの?」
「普通だめでしょ」
「うーん『普通』かあ」
しのぶは思案気に天井を見上げて言う。
「もしこの世界の人全員が、みさきと琥珀さんみたいな関係だったらそれが『普通』なんでしょ」
「言葉遊びは嫌だよ」
「そういうんじゃないよ。でも普通なんてびっくりするくらい個人差があるんじゃないのかなあ。だって琥珀さんはみさきに頼るなとか縋るなって言わなかったんでしょ」
言わなかった。
私を抱くときも自分が傷ついた顔をして、それでもなお自分が傷ついているとも言わなかった。
そのかわり空っぽの君でいいと何度も言った。
『そこにいて、そこで笑っていてくれれば――それでいい』
そして彼が望むのはそれだけだった。
「みさきが頼ったりするのが琥珀さんにとっての普通だったんじゃないの?むしろ、みさきが頼ってくるの込みで付き合ってたんじゃない?だって琥珀さん、みさきのこと大好きだったじゃない」
「わからない。カイと喋ってて思った。私なんにもこうちゃんのこと知らなかったんだよ。バイトの事も怪我のことも、家に帰ってないことだって知らなかった」
彼は完璧だった。
私に対して襤褸をだすことなく、隠し続けていた。
「カイの事もそうだよ。私、あんな海斗見た事なかった」
お調子者で、お日様みたいな奴だと思ってた。
いつだってぼんやりしてる琥珀をせっついて世話をやく頼もしい双子の弟。
『言葉の脚色をやめろ。『必要』を深読みするな。あれはそのままの意味だ』
小浜夫人の言葉に対して、そう述べた海斗の瞳は昏い闇を孕んでいた。そこから垣間見えたのは諦念と達観。
彼はあの場で何かを確実に諦めていた。
体育会系の海斗は、昔から諦めの悪い性格だった。粘り強く、根気があり、だからこそ部屋にあんなにも賞状やトロフィーがあるのだ。
諦めることが嫌いな彼が、諦めざるを得ない何かがきっとあったんだろう。
『笹岡。お前にだって琥珀は必要だったろう』
海斗の言葉を思い出すと、首を絞められているような閉塞感を覚えた。
「それでも、ねえ、人に縋るのってわるいこと?」
だからこそ、しのぶの問いには答えられなかった。
*
しのぶが来た次の日、海斗が家まで来た。
「よっ、笹岡」
あんなことがあったのに、数日後には何事もなかったかのような顔をして会いに来るこの男の神経が、みさきにはわからなかった。
机に向かったまま参考書とノートから顔をあげずに、みさきはとりあえず文句を言う。
「海斗。突然何よ。だまって入ってこないで」
「だっておばさんいないからさ。一応お邪魔しますは言ったぜ?」
「うちは両親共働きだから、昼間は私しかいないに決まってるじゃない」
「そうだな」
あっさりとそう言って、彼はベッドに腰掛けた。
「――だから来たんだよ」
その静かな声音にみさきはぴたりと動きを止めた。
海斗に視線を向ける。
自然と瞳は細められ、剣呑な眼差しになった。
「――この間の文句の続き?」
そう皮肉を言ってしまう程度には、傷ついていたから。
「いや。今日は誘いに来た」
「どこへ」
「こはの墓参りに行かないか?」
「……いい」
あの事故があってから一度も、琥珀の墓へは行けていなかった。
「どうして」
「行きたくないから」
「怖い?」
「怖いに、決まってる」
みさきも海斗の隣へ腰かけて、彼の顔を見ながら告げた。
「私はあなたが時々、琥珀に見える」
「……こは、にか」
その言葉に滲むのは、安堵とひっそりとした痛み。
そっと彼の頬に手を添えて、静かに問う。
「あなたは、だれ?」
ずっと胸につかえていた想いを、言葉にした。
ねえ、答えて。いとおしい、わたしの幼なじみ。
『海斗』は頬に添えられた手に、自分の手を重ねて笑った。
「『俺』は誰にも望まれていない人間だよ。笹岡みさき。『君』にすらね」
言葉尻を和らげると彼はとても琥珀に似ていたが、それは『彼』が意図して演じているのだとわかる。『彼』がどちらであろうと今を演じているのは間違いない。
重ねられた手がぎちりと握りこまれ、彼が体重をかけてくる。
それに逆らわずに、みさきはベッドに背を預けた。
ぎしり、とスプリングが軋む。
『彼』の手が、みさきの目尻を頬を、唇をそっと撫でた。
「君が必要なのは『小浜琥珀』なんだろう?だからそう『お前は誰だ』と問うんだ。海斗でいて欲しくないから、琥珀でいて欲しいから」
「――……」
否定は、できなかった。
心のどこかで琥珀でいてくれたらと思い続けていたのは事実で、それが意味するところは――
「君は『海斗』が死ねば良かったと思ってる」
「――そう、ね」
自分の想いが何を意味するのかくらい、わかっていた。
ふたつは手に入らないから。
だからいつだって、たったひとつを望む。
それがどんなに酷くて醜い現実でも。
「だって、こうちゃんだけが私を生かしてくれたから」
自分を見下ろす『彼』の頬に、透明なしずくが伝う。
「でも、あなたは確かに今は『琥珀』だから」
「……」
「演じているのか、本物のこうちゃんなのかは、今の私にはわからない。でもあなたは今琥珀を演じてるから、ほらまた、いらない希望がわいてくる」
手を伸ばして、そのしずくを拭う。そのまま頬を撫でて、撫で続けて、傷ついた、私が傷つけた小さなこどもみたいなこの人を、抱きしめたいと思った。
「きっと何か事情があるんでしょう。だからあなたは琥珀だったり海斗だったりする。そして私はあなたの大事な片割れを、死んでもいいと思ってる最低な人間よ」
「みさき……」
「最低でしょ?だって海斗が死んでいてくれないと、私、生きていけないんだもの。でもそれはあなたも一緒よね。『あのひと』がいないと生きていけないの、あなたも同じなんだから」
涙が溢れた。自分を嗤った。
私はいつだって、誰かを殺しながら生きていく。
「なのに、なんで生きていたいのかも――もうわからない」
あのひとを失くして。
今目の前にいる『彼』を傷つけて。
ピアノもそれを弾く腕ももうだめで。
「だから、ねえ。わたしたち、なんで生きてるんだろうね――?」
目の前の彼も同じように泣きながら、わたしの首をそっと絞める。
「それじゃあ、しねない、よ」
「殺さないに、きまってるだろ」
「ころしてよ」
あのひとの名前を呼んで、亡くしたと泣き叫ぶことが私達にはなぜかできない。
シンプルなその行動を妨げるのが、何なのか、まだわからない。
私は私を生かし続けることを肯定できず、そして目の前の彼は失くした片割れの何かを必死に拾いあげようとしている。
たったひとつのパーツをなくしただけの、わたしたちがこんなにも壊れてしまうのは、きっとどこか致命的な欠陥があるからなんだろうね。
私の首に手をかけたまま、彼は涙を流しながらわらった。
「そっか、俺達はあいつに殺して欲しかったのか」
いやだ、もう、頑張れない。
目の前の彼が迷子のように言うから、私はそっと彼を抱き締めて、寝かしつけるようにとんとんと、背中を叩いた。
私の腕のなかで彼は『あいつがいない』と呟く。
同じように私も『そうだね』と答えて、泣く。
互いに抱きしめあいながら、いつまでも子どものように泣き続けていた。
きっと目の前の彼の傷口を舐めれば、わたしと同じ味がするはずだから、そして彼もそれをわかっていたから、互いに己を晒して泣く事ができた。
泣き叫ぶことはできない。
声は、未だ――殺したまま。
声と言葉を殺したぶんだけ、きっとまだ『生きてること』を我慢できる。
『それでも、ねえ、人に縋るのってわるいこと?』
しのぶの言葉が何回も頭を過る。
悪い事じゃなければ、なんだっていうの。
人の死まで願って生き続けたい、私たちはなんだっていうの。
じぶんが生きるために、あのひとを、あいしているわたしたちは、
善人なんかじゃ、ないでしょう――?
だから互いに声を殺して泣きづづけて、最後には互いに泣き疲れて、いつの間にかふたりとも眠りに落ちていた。
いなくなってしまったあのひと。
望むような仕方で望むままに。
どうか壊れていく私達を優しく殺してくれればいいと、願っていた。
*前 しおり 次#
title 彼女の為に泣いた
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