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 兵舎が燃えてしまってから、名前は鶴見の家で過ごすようになった。一部の兵士……鶴見の腹心である月島や宇佐美も鶴見邸で寝泊まりしているようだが、他の兵士たちが今どこでどのように過ごしているかは知らない。
 家事は女中が全てやっているので、あいかわらず名前に明治での生活力がつくことはなかった。見るだけでもと……炊事場などに顔を出せば「お嬢様は部屋でおやすみになっていてください!」と女中に言われ早々に追い返されてしまう。お嬢様でもない、鶴見の娘でもないのに。
 残念な気持ちで引き返すと、部屋の前に月島がいた。いたずらがバレたような気まずさから苦笑いをすると、月島はハァ……とため息をついた。なんだか申し訳ない。

「勝手な行動は慎んでくれ」
「はい……」

 名前は月島に恩がある。兵舎が燃えたあの日、月島が荷物を持ち出してくれなかったら全てが消し炭になっていたかもしれないのだ。勝手な行動をして叱られるのは月島かもしれないと思い、むやみに動き回るのはやめることにした。
 が、部屋にいてもやることがなくて暇なのだ。兵舎が焼けて、宇佐美が名前を連れ回すこともなくなるだろう。名前は鶴見邸の一室でこれからどう過ごそうか考えていた。

「……部屋にいても退屈なんだろう。あとで本でも適当に見繕って持ってくる。それでいいか?」
「……! はい!」

 名前の思考はどうやらお見通しだったらしい。まあ、誰がどう見ても名前が暇を持て余しているのは一目瞭然なのだが。名前に取り入るのを目的として連れ回した宇佐美と違い、純粋に気遣ってくれたであろう人は月島が初めてかもしれない。やはり月島はいい人だ。そう名前は思った。

 ◇

「名前くん、西洋の菓子はお好きかな?」

 放火騒ぎのごたごたが少し落ち着いた頃、久々に鶴見との茶話会が開かれた。目の前には珍しくマドレーヌやクッキーなどの西洋のお菓子が並べられ、お洒落なカップに注がれたのは紅茶だった。最近イギリスから輸入された海外産ブランド紅茶らしい。茶葉の入った缶には現代でもよく見るブランド名が表記されていて気分が上がった。食べてみたい、飲んでみたい、とそわそわする。久々の洋菓子と紅茶を前に名前が目を輝かせていると、鶴見はふふふと笑った。

「さあさあ、食べなさい」

 お言葉に甘えて、紅茶を一口飲んでマドレーヌを手で割って口に入れる。美味しい。和菓子とは違う食感や甘みに、頬が緩むのが自分でもわかる。

「ところで名前くん、君は医者の娘らしいね」

 鶴見の発言で、一瞬で味がわからなくなってしまった。やはり宇佐美は名前が医者の娘だと鶴見に伝えていたらしい。どうしよう。どうやらこの西洋菓子と紅茶は、話を聞き出すためのご機嫌取りだったらしい。名前はマドレーヌを片手に固まってしまった。

「これまで色々と話をしてきたが、名前くん自身のことや家族のことは一切出てこなかったね。未来での生活を語るのならば、例えで自分自身の話が少しくらい出てきてもおかしくはないのに、全くだ。まるで意識して話さないようにしているようにも思える」

 図星だった。名前は何も言い返せず、黙って紅茶の表面を見つめる。

「名前くんには家族のことを語れない理由でもあるのかな?」
「いえ、そんなわけでは……」
「ならば、私に名前くんのことを教えてくれないか?」
「…………」
「私は、君のことを知りたい」

 視線を上げると、鶴見はじっと名前を見つめていた。真剣な表情にたじろぐ。どうしよう、どうしよう。口が乾いて紅茶を一口すすった。……味がしない。

 医者の娘だから学があるとか、医学の知識があるとか、そう思われかねないのが面倒なだけではない。ただただ単純に家族のことを話したくないのだ。いい思い出ではないし、名前が家族に向けている感情は綺麗なものではない。それを表に出したくない。だから、いっさい自身のことも家族のことも話さなかった。
 しかし、真剣に見つめられ、君のことを知りたいと言われたら、それだけで心が揺らいでしまう。名前のことを見ることも興味を持つこともなかった男の顔が、名前の脳裏によぎる。

「大した話ではありません」
「それでもいい」
「面白くもありません」
「かまわないよ」
「……聞いていて気分のいい話ではないかもしれません」
「ならば、溜まっているものは吐き出したほうがいい」

 鶴見は力を抜いてフッと笑った。

「話してごらん?」

 鶴見に優しく微笑まれ、名前は根負けしてしまった。名前は小さな声で、ぽつりぽつりと話し始めた。

 ◆

 名字家は名の知れた代々医者の家系だ。完璧主義者で厳格な父は腕の立つ有名な医師だった。そんな父の御眼鏡に適った母もまた医師で、美人で容量良く仕事も家事も育児も卒なくこなす人だった。まさに十全十美。母の欠点を上げろと言われたら、怒ると故郷のきつい鹿児島弁が出るところくらいしか思い浮かばない。そして、歳の離れたふたりの兄たちもまた優れた人間だった。

 長男は品行方正な聖人君子、周りの人達には神童と呼ばれるくらい優秀な人だった。言い方は悪くなるが、父の最高傑作と言えよう。
 次男は二番目の余裕からかお調子者で好き勝手しているようにも見えたが、勉強せずとも満点を取るような天才だった。
 優秀なふたりの兄は医者を志し、医学部にストレートで合格している。

 そんな家庭で名前は、早産で三月に産まれてしまった女子だった。兄たちは揃って四月生まれ。今思えば、名前は産まれた瞬間から期待外れの出来損ないだったのだと思う。父は名前を見向きもしなかった。

 名前は特別劣っていたわけではない。兄たちと同じ有名な進学校に入学し、成績も常に上位。習い事のピアノやバレエも詰め込まれる塾も、家事だってすべてこなした。名前の並々ならぬ努力のおかげか、不服ではあるが『名字の娘』『神童の妹』というレッテルのおかげか、名字名前は才色兼備で優れていると周りの評価はとてもよかったのだ。しかし、家庭内では出来のいい兄たちと比べられ、父は名前の粗探しをしては罵倒した。名前はいつしか完璧な両親と兄たちに劣等感を抱き、惨めな気持ちでいっぱいになっていた。

 それでも名前は、父に見てほしくて、一言でも褒めてもらいたくて必死で頑張った。兄達と同じ医学部に入るために全てを投げ打って勉強をした。通知表は全て5で埋めた。嬉々として父に通知表を渡したが、だからなんだと一蹴された。死にものぐるいで兄たちと同じように学年首席になっても相手にされなかった。……医学部に入るしかない。ただただひたすらに勉強した。

 高校三年生の冬、父は不合格通知を見て力任せに名前の頬を張り飛ばし、今までにないくらい酷い罵声を浴びせた。

 それから、家族とは疎遠だ。

 高校を卒業し、家を出た。もう疲れた、自由になりたい。だから、ひとりで、のらりくらりと暮らすことにした。全てを勝手に決めたけど、誰も何も言わない。当てつけのように高い賃貸を借り、高い家具を買い揃え、支払いを全て親に押し付けた。それでも、誰も何も言わない。
 完全に見限られたのだ。何をしたってしなくたって、父は名前を怒鳴りつけることすらしなくなった。

 ◆

 あらかた話をして、名前は長話で乾いた口に紅茶を流し込んだ。気まずい。空になったカップを見つめ、俯いたままの顔を上げられずにいる。

「……がっかりしましたか?」

 あれほどバレたら面倒だと思っていたのに、言ったら言ったで結果的に医学部に入らなかったことが期待外れだとがっかりされたのではと名前は不安になった。
 名前の利用価値は地の底に落ちてしまったのではないだろうか。鶴見が名前を手元に置くのは、自身に利用価値があるからだと名前は思っている。利用価値がなくなれば、また見限られてしまうのだろうか。
 ……使えないやつだと思われたくない、父のような冷たい目で見られたくない。

「いいや、そんなことはない」

 名前は驚き目を見開く。恐る恐る顔を上げると、鶴見は優しく温かい目で名前を見ていた。動揺して、黙りこくる。

「つらかったろう。よく、頑張ったな」

 たったの二言の言葉が、いとも容易く名前の心にトンッと突き刺さった。じわじわと何かが侵食していく。

「こんな優れた子を蔑ろにするなんて……酷い父親だ。私なら大事にするよ。たっぷり愛を注いでな」

 名前の隣に座った鶴見が空のカップに紅茶をなみなみと注ぎ入れる。この人ならば、からっぽな名前の心に目一杯の愛を注いでくれるのだろうか。

「そうだ、これからは私のことを本当の父親だと思ってくれて構わないよ。この時代には君を蔑視していた高慢ちきな実父は存在しないのだから、いいだろう? 私も君のことを実の娘のように、うんと可愛がってあげようじゃないか」
「っ! それは、養子に、ということでしょうか……?」
「ははは、賢い名前くんを養子にしたい気持ちは変わらないが……所詮書面上での繋がりだ。そんなもの追々で構わない。ただ、私に『本当の父親』になって欲しいと思うのならば……その時は前向きに検討してほしい」

 甘い誘惑を前に心が揺らぐ。鶴見はそっと名前の頭を撫でた。それを振り払うことを名前はできない。

「名前くんは自身のことを名前で呼んでほしいと言っていたね。それは自分を不当に扱った家族を好ましく思っていないからか? はたまた、『名字の娘』というだけで周りから個人での正当な評価を得ることができなかったからか? そんな名のある家系ならば、その血を目当てに擦り寄る輩も沢山いただろうなァ。……誰も名字家のことを知らないこの時代ではその名字はなんの意味もなさないだろうが、そこまで嫌悪している姓ならば、私の娘となり『鶴見』と名乗るのも、良い手だと思わんか?」

 鶴見の真剣な眼差しに射抜かれる。全て見抜かれてしまった。そして、図星だったからこそ気付いてしまった。
 鶴見は『名字の娘』を欲しているわけではないが、やはり『未来を知る人間』が欲しいだけなのだ。少なくとも、養子にしてでも手の内に入れたいくらいには。結局鶴見も名前に貼られたレッテルを見ているだけで、名前自体を見ているわけではない。正当な評価は今なお得られていない。そう気付いた瞬間、急に冷水を被ったような気持ちになった。
 これはただの甘い餌だ。しかし、それを知ったうえで鶴見の提案に乗り欲しかったものを手に入れるのも、悪い選択ではないのかもしれない。

「まあ、ゆっくり考えなさい。ほら、今日の紅茶と茶菓子は名前くんのために用意したものだ。なにも気にせず、たぁんとお食べ」

 鶴見はマドレーヌを手に取ると、名前の口元に運んだ。名前は鶴見に言われた通り、なにも気にせずなにも考えずにそのマドレーヌを齧った。
- hakushi -