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 あれから、鶴見は名前にめっぽう甘くなった。優しい眼差しであれこれと世話を焼き、やたらと菓子や物を与えるのだ。そんなこんなで名前は鶴見に与えられた上等な着物を着て、一日の大半を鶴見邸の一室で月島から渡された沢山の本を辞書を引きながら読んで過ごしていた。
 箱入り娘のように甘やかされている名前は、あいかわらず家事も何もさせてもらえない。渡された本はあくまで娯楽だ。明治のことを学べるような内容のものは一冊もなかった。
 今の生活に不自由はない。が、ほんの少し不満はある。あの日から名前は外に一歩も出ていない。このままでは飼い殺されてしまう。そんな気がして、少し焦った。

「鶴見さん、ちょっとお願いがあるんですけど」
「どうしたんだい? なんでも言ってごらん?」

 名前はちょっぴり我儘を言ってみようと思った。名前をこれでもかというくらい甘やかしている鶴見なら、無茶なお願いでなければ聞いてくれるかもしれないと思ったのだ。ダメ元で言ってみても損はないだろう。

「その、尾形さんの、お見舞いに行きたいんですけど……」

 意を決して申し訳なさそうに伝えると、鶴見はきょとんとした後に「ははは!」と楽しげに笑った。今度は名前がきょとんとする。何かおかしなことを言っただろうか?

「そうか、名前は尾形のような男が好いのか」
「えっ!? いえ、そういうわけでは!!」

 どうしてそうなった!! 名前は慌ててぶんぶんと首を横に振った。尾形のことは嫌いではないが、好きでもなんでもない。確かに端正な顔立ちをしていると思った。心地の良い時間を過ごせたと思った。だが、好きとか嫌いとか思えるほど共に時間を過ごしていないし、それほど親しい仲ではない。
 全力で否定した名前を鶴見は微笑ましく見ている。いやこれ逆効果じゃない? 照れ隠ししてるみたいじゃない? そう思った途端、名前はスンッと大人しくなった。鶴見はまだ笑っている。
 お見舞いは外に出るための口実でもあるが、尾形のもとに行きたいことにも一応理由がある。五百円硬貨を持っていたらこっそり返してもらいたいのだ。ただその理由は鶴見には話せない。どうしたものか。うまく言い返すことができず、気まずそうに視線を逸らす。

「ははは。いや、冗談だ。助けた重傷の男が無事回復しているのか気になるのだろう? 名前は優しい子だな。そういうところが私は好きだ。いいだろう、行っておいで」
「……! 本当ですか!」

 正直、お見舞いを理由にしても駄目だと言われると思っていた。思わぬ外出許可に名前はパァッと顔を輝かせた。

「手隙の兵士に送迎を頼もう。勝手にひとりでふらふらと動き回らないように」
「はい! ありがとうございます!」
「よしよし、いい返事だ」

 鶴見は嬉しそうに微笑む名前の頭をそっと撫でた。

 ◇

 リュックを丸々入れた行李鞄と脱いだ外套、そして持たされた上生菓子の包みを手に、病室の前で深呼吸をした。ここにくるのは三度目だが、まだまだ顔見知り程度の人に会うのはやはり緊張する。
 扉を控えめに叩き断りを入れてそっと扉を開けると、ベッドに腰掛けていた尾形とすぐさま目が合った。「こんにちは」と挨拶をして尾形のもとへ向かう。
 尾形は名前を上から下まで全身を眺めると、視線を上げて名前の瞳を見つめた。よく見ると青が混じった不思議な色合いの瞳だ。

「…………名前か」
「はい、名前です。お久しぶりです」

 尾形がしゃべった。少々驚いたが、入院してから三週間近く経っている。そろそろ痛みも引いて話せるようになっててもおかしくない頃だろう。

「今日は和装なんだな」
「鶴見さんからいただきまして……」
「はッ、見事に服に着られてるな」
「う、おっしゃる通りで……」

 尾形の反応が鈍かったのは、以前と服装が違っていて誰だかわからなかったのかもしれない。着物に合わせて軽く髪を纏め、お粉を叩いて紅も付けた。
 しかし、尾形に言われた通り、上等な着物は身の丈に合っていない自覚がある。着物の所作も知らない。着慣れない着物と草履では、ちょっとした立ち振る舞いもお世辞にも美しいとは言えないだろう。

 手荷物を置こうとした時、ベッドサイドの棚の上にまだ手のつけられていない食事が乗っていることに気付いた。お粥と梅干しと柔らかそうな煮物がある。意外と固形物が多い。食事からもだいぶ顎が動かせるようになってきたことがわかった。
 私のことは気にせず食べてください、そう伝えようとした時。

「おい、食わせろ」

 尾形はスプーンを手に取り、名前に差し出した。



 その後、尾形の無言の圧に耐えられず名前はスプーンを受け取り、尾形の口に黙々とお粥を運んでいる。……いや、なんで? どうしてこうなった? と思いつつ、利き腕が折れていて食べづらいのかなぁと無理矢理自分を納得させた。
 ああ、袖が邪魔だなぁ……。やっぱり着物は慣れない。そんなことを考えながら食べさせ続け、最後の一口を尾形の口に入れスプーンを盆に置いて椅子に座り直した。

「また兵舎から追い出されたのか?」
「兵舎は燃えてなくなりましたよ」
「……ははッ」
「いや全然笑い事じゃないんですけどね」

 冷ややかに笑う尾形を見て、名前は呆気に取られた。物静かでおとなしい人だと思っていたが、尾形が話し始めた瞬間そのイメージがガラガラと崩れていった。モルヒネでぽやぽやしていたあの尾形が少し恋しい。が、前にきた時も手を掴んで引いたり、やや強引な一面があったなぁと名前は思い出した。

「不死身の杉元がやったのか?」
「さあ、どうでしょう? 前に尾形さんのお見舞いに行った夜に燃えたのでその可能性はありますが、私にはわかりません……。けど、あの日以降不死身の杉元の話は聞きませんね」
「なるほどなァ」

 尾形は前に垂れた髪を撫で上げた。髪が伸びて邪魔そうだけどなんだか様になるなぁ、と関係ないことを考える。

「妙な刺青の皮はどうした?」

 思考があさっての方向にすっ飛んでたところに尾形の口から予想外の発言が飛び出し、わかりやすくギョッとしてしまった。妙な刺青。アイヌの金塊の在処を記した囚人の刺青。の、皮。おそらくそのことだろう。名前の反応を見て尾形はにやりと笑った。

「その反応、知ってんだろ」
「……はい、鶴見さんが着てました」
「なら無事か。まだ一枚だけか?」
「……たぶん」

 これ以上聞かれても困る。そう思い、刺青が金塊の在処を示す暗号ということしか知らないことを伝えると、尾形はつまらなそうに視線を逸らした。……会話終了。気まずい。

「えっと、お見舞い品の上生菓子食べます?」
「………………」

 上生菓子が入った箱を差し出す。尾形はジッとそれを見つめ、肉球の形をした雪平をつまみ取った。あら、チョイスが可愛い。

「あんたも食え」
「むぐっ!!」

 尾形はつまみ取った雪平を名前の口にねじ込んだ。

 ◇

 先程から尾形の突拍子もない発言や行動に振り回されている気がする。そのせいで尾形のお見舞いに来た理由をすっかり忘れてしまっていた。

「尾形さん、この前渡した五百円硬貨持ってませんか?」

 すると尾形はベッドサイドの棚の引き出しから、畳まれた風呂敷を取り出した。あの時一緒に忘れていったお見舞い品を包んでいたものだ。尾形が膝の上で風呂敷を広げると、お目当ての五百円硬貨が出てきた。探し物が見つかったことに一安心する。

「あった! よかった……! 探してたんです!」

 五百円硬貨を取ろうと手を伸ばした瞬間、ひょいと尾形が取り去った。えっ? まだ見足りないのだろうか? 尾形は五百円硬貨をくるくるといじりながら眺めている。しばらくして「そろそろ返してください」と手のひらを差し出したが、その手の上に五百円硬貨が乗ることはなかった。

「あの、それ、返してくれません?」

 尾形の五百円硬貨を持つ左手に手を伸ばしたが、尾形は手を掲げて遠ざけた。むっ。名前はやけになり始めた。

「もうッ!! かえ! して! くださいッ!!」

 手を伸ばせど伸ばせど、尾形はひょひょいとかわし続ける。やっとのことで手首を掴んだと思ったら、五百円硬貨を握り込まれてしまった。ぐッ、力が強い!! 握り込まれた手を広げようと四苦八苦していたら、突然腕を引かれて名前は尾形に倒れ込んでしまった。耳元で尾形がくつくつと笑う声が聞こえる。

「随分と積極的だなァ?」
「……っ!? ひぎゃっ!!」

 耳元で低い声で囁かれて、名前は悲鳴をあげてバッと身をひいた。尾形がおかしそうに「色気のねぇ声」と言っている。色気がなくて悪かったですねッ!! 名前はわなわなと震えて尾形を見つめた。
 尾形の左手に再度手を伸ばそうとした時、病室の扉がガチャリと開く音がした。

「時間切れだな」

 尾形が呟く。扉のほうを見ると、二階堂が呆れたような顔して立っていた。

「迎えにきた。何やってんだよお前ら……」
「な、なんでもありませ〜ん! すぐ支度しま〜す!!」

 誤魔化すようにいそいそと身支度をしていると、尾形に「おい」と声をかけられた。名前は顔を顰める。五百円硬貨を取り返せず振り回されまくった名前の機嫌は悪く、その呼び方が鼻についたのだ。

「私の名前は『おい』じゃないです」
「んなこと知ってる」

 名前は尾形に視線を向けることなく言い張った。今度『おい』って呼ばれたら無視してやる。そう思いながら外套の釦を留めていく。

「名前」

 今度は名前を呼ばれ、不意に呼ばれて不覚にもドキリとしてしまった。案外律儀だなと思いつつ、むすっとしたまま尾形のほうを見ると、尾形は五百円硬貨を見せつけるように手元でいじっていた。二階堂からはおそらく死角で見えていない。手を伸ばそうと釦から手を離した瞬間、パッと握り込まれてしまった。

「また来いよ」

 尾形はニヤリと笑ってそう言った。
- hakushi -