鯉登が小樽にきてから、鶴見の不在が増えた。何かあれば鯉登に頼りなさいと言われているが、あれから鯉登とは話をする機会もなくそれきりだ。初対面でやらかして印象最悪かもなぁと思うとなんだか話しかけづらい気持ちもある。べつに何も相談することはないけれど。強いて言えば、尾形が五百円硬貨を返してくれなくて少し困っている。が、これは誰にも相談できない。もう諦めてしまおうかな……。
「名前さん、鯉登さんがお呼びですよ」
自室で本と辞書と睨めっこをしていると、女中がそう伝えにきた。鯉登は応接室で待っているらしい。
「わかりました、今から行きます」
本を閉じて返事をすると、女中はぺこりと頭を下げてパタパタと仕事に戻っていった。いつ見ても忙しそうだ。何かお手伝いができればよかったのだけれど、名前はそれを許されていない。
それより今は鯉登のもとへ向かわなければ。鶴見の代わりの上官からのお呼び出しだ、早く行かないと。鏡台で身なりをささっと整えて応接室へ向かった。
応接室につくと、座卓に茶菓子が並べられていた。まるで鶴見との茶話会の時のようだ。一言声をかけ腰を下ろすと、タイミングよく女中がお茶を汲みにきた。しばし間。気まずい。歳の近い男女、なんだか少し緊張してしまう。もしかしたら鯉登もそう思っているのかもしれない。しばらくして鯉登がお茶をぐっと飲むと、口を開いた。
「……甘いものが好きなんだろう? 鶴見中尉殿からお聞きした。よく茶話会をしていたそうだな」
標準語だ。なんて、ちょっと当たり前なことに驚いてしまった。鯉登の標準語を名前は今この瞬間初めて聞いたのだ。
「それで……だな…………」
「鯉登さん?」
「………………」
「それで、用意してくださったんですか? ……ふふ、ありがとうございます。嬉しい」
月島とは違った九州男児の不器用な優しさに笑みが溢れる。名前が笑ったのを見て鯉登は一瞬驚いた顔をした。
「食べてもいいですか?」
「ああ、好きなだけ食べてくれ」
「では、いただきます」
遠慮なく茶菓子をぱくりと頬張ると、口一杯に甘さが広がる。頬が緩み、おもわず「美味しい」と感想が口からこぼれる。その様子を見て鯉登は安心したのか、力を抜いてフッと笑った。場の雰囲気がなんだか柔らかい。……今なら初対面の無礼の謝罪ができるだろうか。
「あの、初めてお会いした時はすみませんでした。悪気はなかったんですが……結果的に大失言でした」
「失言?」
「……わっぜよかにせ」
名前の発言を聞いた瞬間、鯉登は真顔になって固まった。ずっと謝りたいと思っていたが、この様子だと駄目だったかもしれない。せっかく和やかな雰囲気だったのに……。またきつい薩摩弁が飛び出すかもしれないと、名前は覚悟した。
「わっぜむぜ、よかおごじょ」
「よか、おごじょ……えっ!!」
母の実家に帰るたびに親戚の方々によく言われていた言葉だ。意味がわかった瞬間、名前は両手で頬を押さえた。カッと恥ずかしさで頬が火照る。顔が熱い。
「いきなり、なんでそんなこと言うんですかっ」
「ほら、そうなるだろう」
「…………」
「フッ、仕返しだ」
してやられた。鯉登は『よかおごじょ』だなんて欠片も思ってないだろう。冗談を言われたのだ。冗談でも恥ずかしいものは恥ずかしい。名前は自身の大失言を身をもって体感した。はぁ、とため息を吐いて熱くなった顔を手でパタパタと扇いだ。
恥ずかしげに目を伏せる名前は、鯉登の耳が少し赤くなっていることに気が付かなかった。
しばらく美味しい茶菓子を楽しんでいると、鯉登が重々しく口を開いた。
「少し、話をしてもいいか?」
「ええ、もちろん」
「聞き流してくれて構わない」
「……はい?」
「私のことは気にせず菓子を食べていてくれ」
そう告げると、鯉登はぽつりぽつりと話し始めた。年の離れた今は亡き兄のこと、落ちこぼれの自分が死ねばよかったと思っていたこと、ロシア人に誘拐された時に鶴見と父が助けに来てくれて父と和解できたことを。
聞き流しても構わないと言われたが、名前は茶菓子を口に運ぶ手を止めて話を聞いた。そして、名前は自身の過去を思った。父と和解できたこと以外、境遇が似ていると思ったのだ。だから、鯉登はこんな話をしたのだろうか。
「もしかして、私のことを鶴見さんから聞いていましたか?」
「……ああ。その、すまない」
「いえっ、それは全然! 気にしてませんから!」
鯉登が申し訳なさそうな顔をしたので、大袈裟にぶんぶんと手を振った。本当に気にしてない。名前にとってはもう過ぎ去ってしまったどうでもいい過去だ。明治にタイムスリップしてからは知られたら面倒だと思い隠していたが、鶴見に知られてしまった今では自分から話そうという気にはならないが誰に知られようと構わない。
「私は鶴見中尉殿に救われた。だから、きっと名前のことも救ってくださるだろう」
「そう、ですかね」
鯉登の真っ直ぐな視線に射られる。痛いほど眩しいと思った。おもわず視線を逸らし俯いてしまう。鯉登は自身と似ていると思ったが、全然違った。父と和解できた鯉登は、きっと愛されて育ったのだろう。それがとても羨ましい。そして、少し妬ましい。
名前が鯉登のように父と和解するのは不可能だろう。それに今更そんな気もない。だが、鶴見を実の父のように慕い、鶴見の養子となり本当の家族になれば……名前は救われることができるのだろうか。鯉登のようになれるのだろうか。答えは、まだ出ない。
「もう、じゅうぶん救われていますよ」
下手くそな笑みを貼り付けて顔を上げると、鯉登はうら悲しい表情で名前を見つめていた。
◇
鯉登との茶話会を終え自室に戻る途中、宇佐美とバッタリ会った。宇佐美も鶴見邸で寝泊まりしていたはずだが、会うのは久々だ。話すこともないので軽く挨拶だけして部屋に戻ってしまおうと思ったが、すれ違う間に腕をがっちりと掴まれてしまった。
「なんでボンボンなんかと仲良くしてるわけ?」
「え?」
宇佐美に睨まれ、なんだか見当違いに思えることを問われ呆気に取られる。なんでと言われても、なんでだろうなぁ。名前は謝罪をしたいとは思っていたが、鯉登とお近づきになりたいという気持ちで話をしていたわけではない。結果的には和解し距離が近付いたのかもしれないが。
「鶴見さんに不在時は鯉登さんに頼りなさいと言われているんです。たぶん、鯉登さんも鶴見さんに私の世話を任されているんじゃないですか? ……向こうだって仲良くしたくてしてるわけじゃないと思いますけど」
「へぇ〜〜。じゃあ、百之助のところに通うのは?」
「……気分?」
「気分!? お前どうせ百之助のことが好きなんだろッ! わかってるんだよ!!」
「違いますよ……」
宇佐美がこれまた見当違いなことでキーキー怒っている。掴まれた腕が痛い。早く部屋に帰りたい。
「じゃあ、結婚するなら僕にしとけよな」
おお、強烈な愛の告白。なわけがない。宇佐美は敬愛している鶴見の息子になりたいだけ。彼も名前の『鶴見の養子』というレッテルを好いているだけで、名前自体には興味も好意も全く持ち合わせていない。
まるで嫉妬した彼氏のような台詞だったけれど、一切キュンとしなかった。この嫉妬は名前に向けられたものではないからだ。そして宇佐美は名前の彼氏でもなんでもない。月島の真似ではないが、本当にめんどくさい。名前はむすっと黙りこくった。
「ボンボンに百之助……思ってたより敵が多いな……。養子になる前に、先に名前に惚れてもらったほうが確実で手取り早いかな? ほら、結婚するには戸籍が必要だろ?」
「そうですね」
「じゃあ早くお前に惚れてもらわなきゃな」
「そうですか」
名前の腕を強く引き、宇佐美は顔をずいっと近付けた。痛い。尾形にも何度か腕を引かれたことがあるが加減してくれていたんだなぁ、なんて関係ないことを思う。痛くしないのは当たり前のことだ。たぶん尾形のこともどうこう言われたから思い出してしまったんだ。
しばらく見つめ合った後「けどな〜」と宇佐美は呟き、名前の腕から手を離した。
「僕は鶴見中尉殿から重大任務を命じられていて、近々ここを離れなきゃいけないんだ」
「あら、それは大変ですね、頑張ってください!」
「お前なに嬉しそうにしてんの?」
こわくてちょっとめんどくさい宇佐美と会わずに済む! という名前の気持ちはだだ漏れだったらしい。慌てて適当に「笑顔で送り出したほうがいいと思って」とか言っておく。最近宇佐美と会う機会が少なかったのは、その任務の準備やら何やら忙しかったのかもしれない。
「僕がいない間、浮気とかすんなよ」
「…………」
だから宇佐美は彼氏でもなんでもないんだけど。付き合ってもないのに浮気とか言われても困る。そんな約束する気もないので、名前は適当ににこりと微笑んで誤魔化した。