「はあ……」
病室でいつも通りの日課となってしまった尾形に昼食を食べさせる行為をしながら、名前は本日数回目になるため息をついた。
「なんだよ、辛気臭ぇな」
「いや……なんでも」
「なんでもなくはないだろ」
たしかになんでもない人はため息なんかつかない。無意識に出ていたものだけれど、なんだか察してくれ〜聞いてくれて〜な構ってチャンみたいだったかなぁとひっそり反省する。と思いつつ、はたまたそう思っていたからか、最後の一口のお粥を掬いながらまたため息を吐いてしまった。ああ、どうしようもない。自分に呆れる。
ばつが悪いと思いつつスプーンを尾形の口元に運ぶ。尾形はいつも通り何を考えているかわからない顔でそれを口に含んだ。名前も恥ずかしいともなんとも思わない。これは作業だ、作業。空になった器とスプーンをトレーに戻し、椅子に腰掛ける。尾形はお粥を飲み込むと「話してみろよ」と呟いた。名前は少し悩んだが、尾形の無言の圧に負けて観念したように話し出した。
「宇佐美さんが結婚を迫ってきて困ってるんですよ」
「……ははッ、これまた厄介なやつに好かれたな」
「好かれてなんかないですよ」
尾形はさも愉快そうに笑っているが、こっちは楽しくもなんともない。名前はじと目で尾形を見つめた。
「ならどうして結婚なんて迫られてんだ。あいつは鶴見中尉に心酔してんだろ」
「だからですよ。私、鶴見さんに養子になってほしいって言われてるんです。それで、鶴見さんの息子になりたい宇佐美さんが、その、めんどくさいんですよね……」
「へえ、養子ねぇ……」
養子にしたいのは利用価値があるからでしょうね、なんて鶴見の腹心である尾形には口が裂けても言えない。が、それきり黙りこくって理由を問うてこない辺り、尾形も同じことを考えているのかもしれない。
「迷惑してんのか」
「あはは、まあ、そうですね」
思わず肯定してしまったが、鶴見の腹心で宇佐美と同じ第七師団の上等兵である尾形にこんなことを言ってよかったのかなぁと思い始めた。告げ口されないといいけど。だが、一度口から出てしまったらよくないと思っていてもなかなか止められない。名前は続けて不安を漏らす。ずっと誰にも話せずもやもやしていたのだ。
「明日、鶴見さんはニシン場に行くみたいで一日不在なんですよね」
「…………」
「おそらく月島さんも同行するだろうし、鯉登さんは忙しそうだし……。宇佐美さんにまた絡まれるかもなあ〜と思うとちょっと憂鬱で」
「なるほどなぁ」
話したら後に、やっぱりこの話を宇佐美や鶴見に話されたら困るなと名前は少し後悔した。覆水盆に返らずとはまさにこのこと。人差し指を立ててシ〜っとジェスチャーをすると、尾形は「ははぁ」と笑った。
「内緒か?」
「内緒です。前に起きてたこととか内緒にしてあげたんですから、尾形さんも言わないでくださいね」
「さて、どうするかな」
「内緒にして……」
付き合いの浅い名前には尾形のこれが冗談なのか本気なのか判断できなかった。くつくつと笑っている尾形は、これまた笑いながら面白おかしく宇佐美に話してしまうかもしれない。期待はせず内緒にしてくれたらラッキーくらいに思っておこう、と名前は覚悟した。
「なあ、俺の見舞いは迷惑か?」
「いいえ、私が行きたくて来てますよ」
「そうか」
「……逆に尾形さんは迷惑ですか?」
「いいや」
尾形の言葉を聞いて、名前は少し驚いた。外に出たい一心でお見舞いを理由に名前が勝手に押しかけているだけだと思っていたが、意外にも尾形はそれに迷惑していなかったらしい。
尾形は上機嫌で髪を撫で付けている。先程から尾形はなんだか楽しそうだが、何故だろう。名前には見当が付かない。
「あの硬貨はいいのか」
「よくない、と言ったら返してくれるんですか?」
「いや、まだだ」
まだってなんだろうか……。お見舞いに行くたびに五百円硬貨を返してほしいと言い続けているが、いまだに返してもらえずにいる。それには少し迷惑していたが、お見舞いに通う理由になって逆に都合がよかった。五百円硬貨奪還は、お見舞いに行くため……外に出るための口実でもあるのだ。
それに、現代価値で考えればたかが五百円だ。五百円硬貨自体に執着してはいない名前は、この現状を少し楽しんでいたりもする。……鶴見にバレたらまずいけど。だが、それを持ってて返してくれないのは腹心の部下だし、名前を甘やかす今の鶴見なら笑って許してくれる気もする。
「明日もくるだろ」
「そのつもりでしたが、」
「迷惑じゃない、からな」
「……はい」
毎日押しかけるのが迷惑ではないのなら名前にとっても好都合だ。とくに今は宇佐美に会いたくない。尾形の病室は避難場所にうってつけだろう。
「名前、明日も来いよ」
念を押すように、真剣な目で尾形は言った。少しドキリとする。尾形の真っ黒な瞳はあいかわらず何を考えているかわからない。が、名前には断る理由も必要もない。名前が「はい」と呟き頷くと、尾形はにやりと笑って髪を撫でつけた。
◇
翌日、いつもの時間に病室の扉を開けると、宇佐美が尾形に殴られる瞬間だった。
ゴンッ! と鈍い音が病室に響く。驚きすぎて声も出ず、吹っ飛ばされて床に落ちる宇佐美をただただ眺めていることしかできなかった。戸惑いながら尾形に視線を向けるとバチリと目があった。尾形が真顔でズカズカと歩み寄ってくる。なに!? なんなの!?
目の前まで近付いてきた尾形が歩みを止めることなく名前の腕をガッと掴み、そのまま名前の腕を強く引き病室を出た。バサリ、と手にかけていた鶴見からもらった外套が落ちる。拾いたくても尾形に腕を強く掴まれていて振りほどけないし、名前が慌てて声を上げても尾形は引き返すことも歩みを止めることもしてくれない。
「待ってッ、コート落とした!」
「そんなもんどうでもいいだろ」
「う、宇佐美さんは大丈夫ですかね!?」
「宇佐美のこと嫌いだったんだろ。ちょうどいいじゃねえか」
「でもッ! あの、どこに行くんですか!?」
「黙ってついて来い」
「…………っ」
痛いくらいに腕をグッと掴まれる。尾形は腕を離すつもりはないらしい。何を言っても歩く速度は緩まぬどころかどんどん速くなっている。まって、足がもつれる。訳もわからぬまま、慣れない着物と草履で転ばぬよう必死で尾形について行った。
人目を避けるためか細い裏路地をぐいぐいと進みしばらく経ったころ、尾形は足を止めてキョロキョロと周りを見渡した。手はまだ離されない。必死に小走りをしていた名前は掴まれた腕を見つめながら息を整えていた。
「尾形上等兵殿。と、名前……なんでお前まで」
聞き覚えのある声が聞こえ顔を上げると、そこには二階堂がいた。怪訝そうな視線に名前は思わず「さあ……?」と苦笑いで答えた。
二階堂は巾着袋を尾形に手渡す。
「軍服一式と小銃、持ってきましたよ」
「あァ、ご苦労」
尾形は名前の腕を掴む手を離し、袋から軍服を取り出した。……逃げるなら今、だろうか? だが、ここがどこだかわからないし息が上がったままだ。尾形が名前をここに連れてきた理由もわからない。名前は今すぐ逃げ出そうという気にはなれなかった。
尾形は取り出した軍服を名前に持たせると目の前で病院着を脱ぎ始め、名前は物凄い勢いで視線を逸らした。えっ、こんなところで、いま、着替えるの!? いますぐ後ろを向いたり距離を取ったりしたいところだが、名前は軍服を持たされているためそんなことしたら文句を言われる気がしてできない。
尾形が名前の手から襦袢らしき白い衣服を取った時、ククッと笑う声が名前の耳に入った。笑い声につられて横目でチラリと尾形を見ると、当たり前だが上半身はなにも身につけていない状態だった。めちゃくちゃいい体してる。……じゃない!! 慌てて視線を横に戻したが、またクツクツと笑う声が聞こえてきた。バレた、これはチラッと見たのがバレてる。
衣類の擦れる音にドキドキしつつ、手元から全ての軍衣がなくなり着替えの音が聞こえなくなったころ、おずおずと尾形に視線を向けた。……笑ってらっしゃる。完全に遊ばれた。
「これで俺たちは晴れて脱走兵だな」
軍衣を整えながら尾形が言った。……脱走兵? なぜ? そしてどうして私は連れてこられたのだろう? 私は尾形に連れ去られたことになるのか、はたまた尾形と同じく脱走扱いになってしまうのか? さまざまな疑問が浮かび不安に思いつつ、もしかして鶴見の管理下から出られる最大のチャンスなのでは? と名前は思い始める。
尾形は身なりを整えると、最後に頭に巻かれた包帯を乱暴に取り去り長く伸びた髪をかき上げた。両顎に二本の縫合痕が痛々しく残っている。名前はつい、その傷をまじまじと見つめてしまった。
「……なんだよ」
「えっ! ああ、素敵な傷跡ですね? 男前ですよ!」
「…………」
……今回も失言だっただろうか? 本当に思っているんだけどなあ。尾形は何も言わず、真顔で髪をかき上げている。それを見ていた二階堂が呆れたように口を開いた。
「お前、顔の傷を褒めんのが癖なの?」
「え、そんなつもりはないですけど……」
「あん時、不死身の杉元にも言ってたし、野間とかにも言ってたろ」
「あはは、そうでしたっけ? ほら、『向かい傷は男の勲章』って言うじゃないですか。かっこいいですよ」
尾形は髪をかき上げる手を下ろした。同時に前髪がバサリと落ちる。すごく邪魔そうだ。
「……まずは散髪だな」
そう言うと、尾形は名前の腕を掴みずんずんと歩き出した。またしても名前はその腕を振りほどくことができなかった。