朝。目を覚ますと見慣れぬ天井が目に入り一瞬驚いてしまった。体を起こし鶴見邸の物とは違う煎餅布団に触れ、昨日のことを思い出す。ふと、寝る直前に二階堂に言われた「危機感持てよ」という言葉を思い返し、ないとは思いつつ念のため自身の着物が乱れていないか確認した。……寝返りで崩れた程度だ。そう思った時、どこからか笑い声が聞こえた。顔を上げ声がしたほうを見ると、入り口で見張りをしていた尾形がクツクツと笑っていた。
「襲うほど飢えてねえよ」
「……それは大変失礼いたしました」
「くくっ……」
大変失礼なのは尾形のほうでは? と思いつつ、のそのそと布団から出て軽く身なりを整えた。ふと手元が暗くなる。顔を上げるといつのまにか近づいていた尾形がにやにや笑ってこちらを見ていた。
「なんですか」
「寝癖」
「……寝起きなんだからしかたないでしょう」
起き抜けに憎まれ口の連発で最悪だ。しかめ面で尾形を見る名前の頭に尾形の手が伸ばされる。寝癖を直してくれるのかと思いきや、尾形は名前の髪を乱暴にわしゃわしゃとかき乱した。……ほんとに最悪だ。尾形をじとりと睨みつけながら手櫛でササッと髪を整える。尾形はその視線を無視して二階堂を蹴り起こした。
宿の方が用意してくれた朝食を食べ、三人は身支度を始めた。
「森を抜けてアイヌの村に行く。慣れない着物に着られてたんじゃ迷惑だ。元々着てた服や靴は持ってるか?」
「鞄の中にしまってありますけど」
「ならそれを着ろ」
命令形なことに少しむっとしながら、名前は行李鞄の中に入っていたリュックから以前の衣服を取り出した。尾形は珍しいものを見るような目でその衣服を見つめている。やはり明治の人にとっては見慣れぬ珍妙な服なのだろう。
「……大丈夫ですか? 動きやすいかわりに目立つのでは?」
「外套がある。足には脚絆をつけろ。中さえ見えなければ、一見軍人と変わらんだろう」
「なるほど」
尾形と二階堂を部屋から追い出し着替えを済ませた後、尾形が身につけているものと同じ外套を渡された。羽織ってみると名前には大きいようで、ふくらはぎまで体をすっぽり隠してしまった。うん、たしかにこれなら軍の脚絆もつければぱっと見は軍人だ。軍人に見間違われるのは面倒事を引き寄せるのではと思ったが、単独行動をすることはないだろうし彼らが上手く誤魔化してくれるだろう。
「どうですか?」
「どうもこうもねえだろ。まあ大丈夫そうだな」
尾形が近づき、外套のフードを目深に被せた。
「顔もできる限り見せないようにしろ」
「はい」
「逆に、第七師団のやつらに殺されそうになったら顔を見せてやれ。未来を知るあんたを殺すことはないはずだ」
「……はい」
殺される。これからその可能性があることを感じ取り、背筋が寒くなった。
もしもの時は、自身の価値を信じて尾形が言う通りすぐに顔を見せ、第七師団の誰かに助けを求めよう。私は脱走兵に連れ去られた可哀想な未来人……。よし、これがいい。完璧だ。鶴見のもとに戻るのはあまり望ましくないが、死ぬよりましだ。尾形が駄目なら鶴見につく、そう名前は心に決めた。
「俺から離れるなよ」
「…………」
嘘が下手な名前は「はい」とは言えなかった。
◇
まだまだ雪が残る森を歩いて進んでいく。尾形の言う通り、着物に草履のままでは早足で進んでいく彼らについて行くのは苦労しただろう。現代の服と靴を身につけることができて本当によかった。それでも平成生まれの現代っ子にはきつい道のりで、疲れて足が棒になってきた頃に目的地であろうアイヌの村にたどり着いた。
初めて見るアイヌの村を前に、名前はついあちらこちらと視線を動かしてしまう。その動きがせわしなかったからか、尾形が名前のほうを振り向くと声を出さずにシーっといつものジェスチャーをした。この村に向かう前に「姿は見せるな」「俺から離れるな」、そして「お前は何もしゃべるな」と尾形に言われている。釘を刺されたのだ。名前はこくりと頷き外套のフードを目深にかぶった。よし、沈黙沈黙……。
標準語が通じる村の人に尋ねると、ある家に案内された。どうやらここに怪我をした兵士がいるらしい。誰もアイヌでの礼儀作法を知らないため、言われるがままついて行きそれに従った。
「シンナキサㇻ! シンナキサㇻ!!」
家の中に入ると突然幼い女の子がアイヌ語を発しながら尾形と二階堂を勢いよく指差してきて少し驚いた。意味はもちろんわからない。
「シンナ、キサㇻ……?」
尾形、二階堂に続き女の子は名前を指差したが、謎の言葉は疑問形だった。私だけシンナキサラとやらではないの……? 名前は不思議に思い首を傾げる。言葉の意味がとても気になったが、尾形に何もしゃべるなと言われているため意味を聞くことはできない。
奥に進むとおばあちゃんが囲炉裏の近くに座っていた。部屋を見渡してみたが、怪我をした兵士は見当たらない。……が、壁際に置かれている小銃と背嚢を見て、ここに兵士がいることがわかった。
尾形はその小銃からボルトを引き抜き、小銃と背嚢の近くに腰を下ろした。どうやらその荷物の持ち主が帰ってくるまでここで待つようだ。
「二階堂、バアチャンの肩でも揉んでやれ」
「はい」
二階堂はおばあちゃんの後ろに腰を下ろし肩を揉み始めた。
さて、私はどうしたらいいのか。名前はどうすればいいのかわからず棒立ちしていると、外套の裾をクイクイッと引かれた。ゆっくりと視線を向けると、尾形は自身の隣をぽんぽんと叩いた。
「そのままここに座れ」
そう言われ、名前は服が見えないよう外套を押さえて尾形の横に腰を下ろした。
しばらくすると、外から足音が聞こえた。誰かが帰ってきたようだ。怪我をした兵士だろうか。足音の主が誰だか気になったが、名前は顔が見えぬよう外套のフードを目深にかぶり床を見つめ続けているので確認することができない。
「谷垣源次郎一等卒……」
帰ってきたのは兵士だと尾形の言葉でわかった。谷垣……記憶違いでなければ尾形を川で発見した時に一緒に救援を待った根は優しそうな兵士だったと思う。顔見知りだと気付いた名前は、さらに顔が見えないよう視線を下げた。
尾形と二階堂は谷垣を問いただしていく。どうやら谷垣は仕掛け罠の毒で動けなくなったところをアイヌの人に助けてもらい、その恩を返してから鶴見の元に戻るつもりだったらしい。軍人ではない名前は話を聞きてただ谷垣は情に厚い男なんだなとだけ思ったが、尾形と二階堂は違うようだ。厳しい言葉で谷垣を問い詰めていく。
谷垣が忙しなくアイヌ語を連呼する女の子におばあちゃんを何処かに連れて行くよう伝えると、二階堂がトトトトッとリズミカルにおばあちゃんの肩を叩く音が止まった。
「玉井伍長から何か聞いているだろう」
二階堂の一言で場の空気が一気に冷たくなったのを感じた。重苦しい空気感の中、心臓がばくばくと鳴り始める。谷垣の「乱暴するならただじゃおかない」という言葉で、おばあちゃんは人質だったのだと名前は気付いた。二階堂に視線を向けると、おばあちゃんの後頭部に銃口を向けているのが見えた。
「お前が玉井伍長たちを殺したな? 谷垣……」
「……ありえません!!」
焦ったような声色で谷垣は答える。玉井伍長からの『何か』とはなんなのだろう。名前にはまったくわからない。その『何か』を谷垣が聞いたのか聞いていないのか、はたまた玉井伍長たちを殺したか殺してないか、名前は判断できない。が、尾形と二階堂はどうだろう。
「いま……自分の銃を見たのか?」
尾形の一言で背筋がゾッとした。尾形が銃からボルトを引き抜いたおかげで銃は使えないらしい、が、谷垣は尾形と二階堂……そして名前を殺そうと思ったのだろうか……?
だが、「どうかこのひとたちだけは……」と懇願する谷垣の言葉を聞いて、名前はやはり情が厚い優しい男だとしか思えなかった。声色だけで判断するのはとても難しいが、名前にはどうしても谷垣が悪い人だとは思えない。
「冗談だ」
重い沈黙の後、殺伐とした雰囲気をふっ飛ばすように尾形はボルトをグルグル回しながらあっけらかんと「カマをかけてみた」「好きにしろ」と言い放った。名前も思わず呆気に取られる。谷垣は名前が感じたままの男だった、ということでいいのだろうか……?
立ち上がった尾形に「いくぞ」と言われ、名前も慌てて立ち上がる。
「ああそうだ、ところで……不死身の杉元を見たか?」
尾形が谷垣に問う。尾形が不死身の杉元と出会った場所から一番近い村がここらしく、アイヌの子供と行動をしているらしい彼がこの村を出入りした可能性があると尾形は思ったようだ。
だが、谷垣の答えは「いいえ」の一言だけだった。先程の慌てたような、懇願するような声色とは違う一言。谷垣は、本当のことを言っているのか?
そんなことを考えていたからだろうか。名前はすれ違いざまにチラリと谷垣の顔を見上げてしまった。その瞬間谷垣と目が合い、谷垣の目が見開かれた。しまった。名前は慌てて視線を正面に戻し、早足で尾形の背を追って家を出た。……谷垣が声を上げなくてよかった。