翌朝、遠くに上がる焚き火の煙を見つけた。命を狙われている谷垣が焚き火をするとは誰も思えなかったが、三人は身を隠して近づいていく。百メートルほど離れた草藪から焚き火付近を注視する。が、名前が肉眼でまじまじと見たところで焚き火とその近くに獣らしき何かが倒れていることしかわからない。二階堂が双眼鏡で確認すると、周りにいくつか足跡が見えたようだ。
「調べに行ってこい。谷垣の足跡であれば合図しろ」
「エサですか俺は」
文句を言いつつ、一等卒である二階堂は尾形に逆らうことはできない。双眼鏡を尾形に手渡すと焚き火に近づいて行った。
しばらくすると、二階堂は小銃を振って合図をした。どうやら足跡は谷垣のものだったらしい。
「うーむ……」
尾形は考えている。ど素人の名前ですら焚き火に足跡は怪しいと思う。これは罠、なのだろうか。
「名前、雪を口に入れろ」
「え、雪? 雪じゃお腹は膨れませんよ?」
「阿呆か。白い息で発見されないよう雪で口を冷やせ」
「……なるほど?」
そう言うと尾形は固くなった雪をガリッとかじって口に含んだ。
雪は空気中のチリやホコリを核にして凍ったものだ。それを知っている名前は雪を口にすることに抵抗があったが……尾形の指示ならば口にするしかないだろう。おそらく降り積もってから時間が経ってるであろう固い雪をおそるおそる口に含んだ。……うっ、冷たい。口から一気に全身が冷えていくような感じがした。遠くで焚き火で温まる二階堂が羨ましいと思いながら、尾形と共に二階堂のいるほうを見つめる。
しかし、事態は急変した。突如、音もなく熊が現れ二階堂に襲いかかったのだ。
「ひッ……!!」
「ヒグマだと!?」
二階堂がヒグマに襲われる様子を目の当たりにし、名前は悲鳴をあげそうになったが咄嗟に口を塞いだ。
名前の目でも二階堂の上に熊がのしかかっているのがわかる。こわい。こわいが、目を離すのも逆にこわい。名前は恐怖で震えながらも目を離すことができなかった。
「早く撃てクソ尾形ぁぁ! 早く撃てッ!」
二階堂が叫ぶ声がここまで聞こえてくる。名前は焦る。だが名前には何もできない。尾形に判断を任せるしかない。しかし、尾形は撃たない。どうして? 罠かもしれないから? 谷垣は小銃を使えないのに? 早く、早く撃ってッ!! 名前はただひたすら震える手で冷え切った口に雪を運ぶことしかできない。
「おがたあああああああ!!」
ダンッ!! 二階堂が全力で叫ぶと同時に尾形は熊を撃った。驚いた熊が逃げていく。倒れて動かない二階堂の周りの雪が血で染まっているのを見てゾッとする。二階堂は無事だろうか……?
「さあ、俺はここだぜ谷垣!! 銃無しでどう戦う? 石でも投げるか?」
尾形は谷垣を試すように外套のフードを取り去り手を広げる。次の瞬間、尾形は名前の目の前で胸を撃たれて後ろに吹っ飛んだ。
「――――ッ!!」
名前の悲鳴は口に含まれた雪のおかげで音になることはなかった。
どうして。谷垣の小銃は使えないはずなのに。
「――ッ、……お、がたさん、尾形さんッ!!」
雪を吐き出し尾形に駆け寄り、耳元で小声で声かけをする。反応はない。慌てて尾形の左胸に耳をあてるとドク、ドクと心臓の鼓動が聞こえた。……生きてる!! 外套を捲り上げ撃たれたところを確認すると、運良く首にぶら下げていた双眼鏡に弾が直撃していた。体は無傷のようだ。
「尾形さん……ッ、意識はありますか、おが――ッ」
「うるせえ……」
倒れたまま動かない尾形を揺すりながら声をかけていると、突然尾形の手が上がり口を塞がれた。そのまま尾形はむくりと体を起こした。
「ゴホッ、静かにしろ。谷垣は銃を持っているぞ」
名前は口を塞がれたまま赤べこのようにコクコクと頷いた。尾形が生きていることがバレたら二発目が撃たれるかもしれないのだ。
「発砲炎が見えただろ」
「……いいえ、私にはさっぱり」
「あっちだ、あの方向に谷垣はいる」
尾形が指差したほうに視線を向けてみたものの、谷垣と思われる人影は名前にはさっぱりわからなかった。
「立てるか?」
「……腰が抜けました」
「チッ。すぐ逃げられるようにどうにかしとけ」
「はい……」
尾形は銃剣を木に突き刺すと、そこに小銃を乗せ狙いを定めた。
「む?」
何か異変があったのだろうか。尾形が不審げに声を出す。どうしたんだろう。目を凝らせど名前には何もわからない。名前は気になり「どうしたんですか?」と問いかけたが、尾形はそれに応えることなくすぐさま銃を撃った。
「三島かな? 尾行には気をつけていたのに……」
胸に衝撃を受けたからか、ゴホゴホッと咳き込みながら尾形はボルトを操作し弾を装填する。尾形がいま撃ったのは谷垣ではなく三島という人物らしい。顔見知りの尾行……第七師団の兵士だろうか。
狙撃後、叫び声などは一切聞こえなかった。いまこの瞬間人が撃たれて死んだかもしれないのに、人影すら確認できなかった名前にはまったく実感がなく、そのことが逆に恐ろしいと思った。
「鶴見中尉が追ってくる前に谷垣を殺しておかなくては」
尾形は壊れた双眼鏡を取り捨てると、谷垣を撃つために銃を構え直す。その直後、パァンッと銃弾が近くの木に当たった。
「きゃあッ!!」
「伏せろッ!」
尾形はすぐさま名前に覆いかぶさり、頭を押さえて姿勢を低くさせた。その間も狙撃され銃声が鳴り続ける。バシッバシッ! と銃弾が木に当たる音が絶えず聞こえ、名前は恐怖で体を震わせた。
このままじっとしているわけにもいかない。姿勢を低く保ったまま尾形は名前の上から退き移動し始める。その際、尾形は頭を押さえていた手で名前の外套のフードを脱がせた。
「早いな、勘が良すぎる」
地面を這って移動する尾形を名前は震える手足で必死に追う。死角になる木の影まで移動し、尾形は立ち上がると二発続けて発砲した。遠くから撃たれたであろう兵士たちのうめき声が聞こえてくる。こわい、こわい。
「立てッ、逃げるぞ」
「えっ、無理ッ」
「しかたねえ。後ろ見てろ」
「へ? うわッ!!」
恐怖で震えて立てない名前を、尾形は乱暴に肩に担ぎ上げた。片腕で名前の脚を抱えて尾形は走る。落ちそうでめちゃくちゃこわいッ! 名前は落ちたくない一心で尾形の肩と背中にしがみつく。
「後ろを見ろ!!」
尾形に再度言われて半ばやけくそで顔を上げた。遠くから小銃を構えながら尾形と名前を追う兵士たちが見えた。ひっ、こわい。だが、数人の兵士は名前を見ると驚いた表情をし銃口を下ろした。それでもまだまだ銃声が聞こえてくるが、名前を避けるように足元の低いところに弾が当たっていく。
「ははッ、いい弾除けだな」
「ふざけないで、私に当たって死んだらどうするんですか!!」
「足手まといで面倒な未来人は死んだら死んだで好都合だ」
「最低ッ!!」
「黙れ舌噛むぞ」
「〜〜ッ!」
くそおがた!! と心の中で悪態をつく。やけくそで背中をバシバシ叩いてやったがびくともしない。
「また会おうぜ、鶴見中尉殿」
尾形はそう呟きながら森の奥深くへと逃げていった。
◇
「どうやら上手く撒いたようだな」
森を進み追手の気配が感じられなくなった頃、尾形は名前を肩から降ろした。しばらくぶりの地面に足がよたつく。
「すみません、重かったでしょう」
「ああ、重かった」
「すごい失礼」
「人が軽いわけないだろう」
たしかにそうだけど、嘘でも重くないと言ってほしかった。鶴見に甘やかされて肥えてしまっただろうか……と名前は自身のお腹や二の腕に触れた。
ふと辺りを見回すと、近くにいる尾形以外の人影は見えず、とても静かに感じられた。先程までの銃声や呻き声、叫び声の数々が夢だったように思える。
「第七師団から、鶴見さんから逃げ切ったんですね」
「そうだな」
「ふふ、ふふふ……」
突然笑い出した名前に尾形は怪訝そうに視線を向ける。
「……信じられない、逃げ切れた!! あははッ!」
「……は?」
「最高ッ、絶対戻ったりしないんだから!!」
この瞬間、現代のしがらみからも、鶴見の拘束からも、名前は逃げ切ったと思えたのだ。自由を感じた途端、嬉しすぎてなんだかおかしくて笑いがこみ上げてきてしまった。そこらへんの草を見て、これが草ね、なんて言い出してしまいそうな気分だ。
「気でも狂ったか」
「あはは、急にごめんなさい。ああ、嬉しすぎて舞い上がりそう……!」
「そうかよ」
「生まれてはじめての、自由だから」
上機嫌で微笑む名前を見て、尾形はあきれ笑いで乱れた髪をかき上げた。
「自由だなんだと言うなら、俺からも逃げる気なのか?」
尾形の言葉を聞いて名前はハッとした。自由を手に入れた気になっていたが、名前は今なお誰かに……目の前の尾形に囚われているのだろうか。……いや、違うはずだ。自由は、必ずしもひとりになることではない。誰についていくか、自分で決める。これもひとつの自由だ。
「いや、すみません。私ひとりじゃ死んじゃう。覚悟くらいはしてるけど、まだ死にたくない……! ほら、未来人だし、きっと役に立つはずだし、尾形さんの側に居させてください……!」
「ははァ、そうか」
「あ、ちょっとイヤな顔しないで」
「なら役に立ってくれよな、弾除けちゃん」
「え、弾除け以外でお願いします……」
名前の返答を聞くと、尾形は背を向け歩き出した。
尾形はきっと名前を待つ気も守る気もさらさらないだろう。でも今はそれでもいいと思いながら、名前は早足で尾形を追いかけた。