尾形に連れられ森を歩くと、人ふたりが入れそうな小さな小屋にたどり着いた。猟師が建てたものだろうか、今は使われていないようだ。
「しばらくこの小屋を寝床にする」
「え、小樽の町に戻らないんですか?」
尾形の言葉を聞いて名前はギョッとした。正直、安宿の煎餅布団でもいいからゆっくり休みたいと思っていたのだ。
「今頃、鶴見はあんたを血眼になって探してるかもしれんぞ」
「こわ……」
「しばらく森で身を隠したほうがいいと俺は思うんだがね。町に戻るか?」
「いや、やめときます」
やっと手に入れた自由だ、逃走三日ほどでは見つかりたくはない。尾形だって鶴見に見つかればただでは済まないはずだ。ならば頭の回る尾形の言う通りにすべきだろう。そう思った名前は早々に宿を諦めて小屋の中を覗き込んだ。
簡易的な小屋ではあるが、雨風が凌げるし茣蓙が敷かれていてそれなりに居心地がよさそうだ。現代ではよくキャンプをしていた名前はこれはこれで楽しいかもと少しわくわくし始めた。
「お、焚き火の跡がある。火をつけたいけど……見つかったらすぐ撃たれちゃいますか?」
「これは猟師の小屋だ。中にいる奴を確認せずにいきなり撃ったりはしない。それに、未来を知る人間を殺すわけにもいかんだろうしな。……なあ、弾除けちゃん?」
「はは……」
不敵な笑みで顔を覗き込んでくる尾形に、名前は苦笑いを浮かべる。撃たれないのは嬉しいが、弾除けちゃんという呼び名はちょっと不服だ。
「その弾除けちゃんっていうのやめてくれません?」
「事実だろ」
「いやまあ、そうなんですけど……」
事実だろうと嫌なものは嫌だ。適当な愛想笑いで誤魔化しつつも、他人に勝手に貼られたレッテルで呼ばれるのが好きではない名前はだんだんと機嫌が悪くなっていった。
「あ、でも、撃たれる可能性が低いなら火を起こしてもいいってことですか?」
「まあ、いいだろ」
「やった!! 枝取ってきます!!」
「おい、勝手に動くな!」
焚き火をする許可を得た名前は見事な手のひら返しを決めた。
着物の入った行李鞄を放り投げ、近くの林へ駆け出そうとしたところを尾形に首根っこを掴まれ阻止された。服を掴まれ駆け出した勢いでグッと首が絞まり、名前の口から「ぐえっ」と声が漏れる。
「あいかわらず、色気がねえ声だな」
「突然襟首掴むからでしょ!」
「掴まなかったらどっか行ってただろ。勝手な行動はするんじゃねえ」
「……わかりました」
わかったと言ったものの、首根っこは尾形に掴まれたままだ。
「離して……」
「離したらどっか行くだろ」
「行きません……」
「なら俺から離れるんじゃねえぞ」
「はい」
しっかりと言質を取ったところで手が離され、名前は解放された。改めて焚き火に使う枝を集めに行こうとゆっくりと歩みを進めたところで、また首根っこを掴まれた。どうして!?
「今度はなに!?」
「その背中の荷物も置いてけばいいだろ」
「え、でも鶴見さんに肌身離さず持ってなさいって……」
「そんなのもう守る必要はないだろ」
「っ!! そっか!!」
そうだ、自由になったんだった! 名前はハッとして、勢いよくガシャンッとリュックを下ろした。先ほどまで大切に持ってたものを雑に扱う様子を尾形は呆れたような様子で見ていたが、この程度で壊れるようなやわなものは持っていない。名前にとっては普通のことだ。何も気にせず下ろしたリュックから枝を切るためのナイフを取り出し、先にすたすたと歩き始めた尾形の背を追って近くの林へ向かった。
枝を集めている最中、名前は「あっ」と声を出した。尾形は名前に視線を向ける。
「どうした」
「いやその、不要なら着物売っちゃおうかな〜と思いまして」
「……鶴見からもらったもんだろ。いいのか?」
「べつに? 欲しくてもらったわけじゃないし執着はしてません。宇佐美さんじゃあるまいし」
「はっ、そうかよ」
現代の衣服に慣れた名前には着物は着るのも動くのも一苦労、上等な着物だからといって大事に持ち歩いたところで邪魔な荷物になるだけだ。だったらお金にしてしまったほうがいいだろう。
「そしたらお世話になった分の代金が払えますよ!」
「あれは冗談だと言っただろ」
「ふふっ。まあ請求されなくても売りますよ」
尾形が入院している時に話した冗談だ。あの時は無一文で着物を勝手に売ることもできなかったが、いまならできる。お金が用意できる。世話代を請求されなくても、自分の分のお金は出せたら出したいとは思っているのだ。
そんなことを思っているうちに、気づけば尾形は名前に背を向け小屋に向かって歩き出していた。名前は慌てて枝を抱え直して尾形の背を追った。
小屋に戻り、持ってきた枝を長さや太さで分けていく。尾形は比較的太めな枝をたくさん集めてくれたようだ。女である名前があまり持てないと思って気遣ってくれたのだろうか? いや、尾形はそんな気が回せるような男か? ……まあ、気遣いが気のせいだったとしても、ありがたいことには変わりない。
「で、火を起こしたいと言ったからにはできるんだよな?」
「火起こしなら任せてください!!」
すかさずチャッカマンを取り出しカチッと火をつけると、尾形は少し驚き目を丸くした。ふふふ、すごいでしょすごいでしょ! 調子に乗った名前はガス残量に限りがあるのを気にせず、ドヤ顔でカチカチと火をつけたり消したりした。
それから名前はテキパキと細い枝を組み、着火剤に火をつけた。細い枝に火が移ったところで少しづつ太い枝を入れていき、名前ひとりの力で難なく焚き火を起こすことができた。
「尾形さん見てください! ほら! ひとりで火起こしできましたよ!!」
嬉々として後ろを振り向くと、そこには誰もいなかった。……えっ? 小屋から出て辺りを見渡しても誰もいない。…………えっ? 小屋の前でひとりぽつんと立ち、名前は呆然とした。尾形どこいった。
思ってみれば、枝を拾いに行く時も何も言わずにひとりですたすた先に行ってしまう人だった。「俺から離れるな」と言われたが、その俺様が突然いなくなった場合はどうすればいいんだ。
「……勝手な行動はするなって言った人が、勝手に行動しないでよ!!」
名前はひとり叫んだ。
◇
「鴨」
「見りゃわかるだろ」
「鴨……」
しばらくして尾形が戻ってきた。帰ってきたら文句のひとつやふたつ言ってやろうと思っていたのに、差し出された鴨に驚き気を取られて名前は何も言い出せなかった。受け取るべきだろうか……と思いおずおずと手を伸ばしてみたものの、死んだ鴨がなんだかこわくて触れずにいる。
「……え、鴨をどうしろと」
「どうって、捌いて食うしかねえだろ」
「誰が捌くんですか」
「お前しかいねえだろ」
「いや無理でしょ」
鴨は嫌いではないが、名前は鴨を捌いたことがない。捌ける自信もない。が、そんなこと言ったところで尾形は名前に捌かせる気満々なようで、鴨を差し出す手を下ろす気配がない。拒否権はおそらくない。
「いいから捌けよ」
「だから無理ですって」
さて、どうしたものか。鴨を触ることができず上げただけの手を彷徨わせていると、名前のお腹がグゥと鳴った。……お腹を膨らませるためにはこれを捌くしかないのかぁ。尾形から鴨をしぶしぶ受け取ると、生ぬるい温度が手のひらに伝わった。……先ほどまで生きていた証拠だ。とても申し訳ないが、そのぬくもりに少しぞわりとした。撃たれたまま頭も羽根もそのままの鴨は、名前には食材には見えなかったのだ。
「やっぱ無理です、捌けません……」
「はぁ、鳥も捌けないなんてとんだ役立たずなお嬢様だな」
「…………」
役立たず。お嬢様。尾形にとってはただの軽口だったのだろうが、名前には存外深く刺さってしまった。
「……わかりました。三羽です。三羽で完璧に捌けるようにします」
名前は覚悟を決めて、尾形不在時にこっそりソーラー充電器で充電したスマートフォンをポケットから取り出して言った。