「不合格でした」
制服姿の名前がぽつりとそう呟いた。――これは、夢だ。今の名前には懐かしい風景が目の前に広がっている。
暖かな色合いのカーテンがリビングの大きな窓を飾り、窓からは手入れの行き届いた庭が見える。柔らかい革張りのソファに腰掛けていた長男が目を見開いてこちらを見ていた。
一枚板のダイニングテーブルには陶器の花瓶に色鮮やかな生花が飾られていてる。汚れのない白い大理石のアイランドキッチンで料理を作っていた母の手が止まる。
そんな生まれ育った家のリビングに、名前は立っていた。目の前には、怒りをむき出しにした父がいる。父は手を振り上げ――
◆ ◆ ◆
名前は目を覚まし飛び起きた。ハッ、ハッ、と荒れる呼吸を整えようと胸に手を当てる。……嫌な夢を見た。久しぶりにあの日の夢を見てしまった。じっとりとかいた額の嫌な汗を乱暴に拭うと、額の傷痕の凸凹が手首を撫でた。最悪の気分だ。
周りを見渡すと辺りはまだまだ暗く、起きるには早過ぎるくらいだった。名前以外に人が動いている気配は感じられない。どうやら誰かを起こしてしまったということもなさそうだ。安堵かなんだかわからないが、名前の口からハァ〜〜……と深いため息が出た。
さて、どうしようか。また横になって寝てしまおうか。だが寝付ける気がしない。少し悩んでガソリンランタンを手に取り、リュックの中からポーチを取り出して少し離れた茂みの陰に足を運んだ。
ランタンで手元を照らしながら地面にハンカチを広げ、その上にポーチの中身を広げる。ハンカチの上に現れたのは大量のピアッサーとニードルの箱。左耳を消毒しながら適当にピアッサーをひとつ手に取る。ピアスのデザインを確認しようとしたが暗くてよく見えない。ホールが安定すればつけ替えられるしなんでもいいやと思い、そのまま封を切った。
名前はニードルよりピアッサーが好きだった。音がするから。大きな音がすればするほどいいと名前は思っている。
『あの日』のことを思い出すと、ついピアッサーを手に取ってしまう。あの音を、痛みを、感情を、忘れたくないから。忘れた頃にまた思い出してしまうから。それが、つらいから。忘れるものか、と名前はピアッサーを握るのだ。
ピアスの位置を決め、斜めにならないように気をつけながらピアッサーを耳に当てる。ふぅ、と小さく息を吐き、名前はピアッサーを持つ親指に力を込めた。
◆ ◆ ◆
バチンッ!!
父の振り上げた手が名前の左頬を叩いた。ジワジワと熱い痛みを頬に感じる。名前は痛む左頬に手を当てて、ゆったりと父に視線を戻した。
「この出来損ないが! お前のためにどれだけの時間と金を注ぎ込んだと思っているんだ!! この無駄にした年月をどう償うつもりだ!!」
父はひどく憤慨した様子で名前に罵声を浴びせる。名前はそれを頬を押さえながらただただ聞いていた。ゆらりと無感情な瞳で父をただただ見つめる。
「お前は本当に期待外れだ。こんな失敗作に育つとは、どれだけ親の顔に泥を塗れば気が済むんだ!?」
母も兄も見て見ぬふりで、誰も助けてくれやしない。こんなに大声で怒鳴りつけられているのに、聞こえてないわけないじゃないか。誰も助けてくれないなら、黙って父親の怒りが過ぎ去るのを待つしかない。……そう思っていたのに。
「お前なんか生まれてこなければよかった」
その言葉を聞いて、名前の瞳が揺れた。そして、頭の中が真っ白になってしまった。だから、口が勝手に動いてしまったのかもしれない。――これは名前の生まれて初めての反抗だった。
「私を産んだのはあなた達じゃないですか。どうして? 私は産んでくれと頼んだ覚えはない。私だって、生まれたくて生まれてきたわけじゃない……!」
次の瞬間、父の拳が名前の顔面に叩き込まれ、ゴキッという鈍い音が響いた。名前は顎を押さえ、痛みに顔を歪めながらその場に崩れ落ちた。
◆ ◆ ◆
「何をしている」
「ひっ……!」
突然背後から声をかけられて、ピアッサーが手からぽろりと落ちてしまった。膝に転がったピアッサーを慌てて拾い上げる。
振り返るとそこには尾形がいた。薄暗くてよく見えないが、この聞き覚えのある低音は尾形で間違いないだろう。尾形が名前の近くに座り込み、尾形の顔がランタンの灯りに照らされる。色んな意味で名前の心臓はバクバクだ。
「び……っくりした……。なんなんですか……」
「それはこっちの台詞だ。突然飛び起きたかと思えば、勝手にどっかに行きやがって」
「それは、その、すみません」
しどろもどろに謝罪をしながらバネが無事か確認するようにピアッサーを手でいじっていると、尾形の視線が名前の手元に落ちた。これがなんなのか気になったのだろうか、尾形は勝手に名前の手からピアッサーを取り上げた。
「なんだこれは」
「あ〜っと、ピアッサーと言って、その……耳に穴を開ける器具、ですね」
「こんな夜中に穴だぁ? 意味がわからん」
「い、いいじゃないですか、そういう気分だったというか……アシㇼパちゃんとそんな話になったし……やるなら今かなって」
「ハァ…………」
尾形が呆れた声を出しながら、手にあるピアッサーを見つめていた。
コソコソしてたのに見つかってばつが悪いというか、この空気感に耐えられなかったというか、なんというか。そんな気持ちを誤魔化すように、名前は聞かれてもないのにピアッサーの使い方を語り出した。
「えっと、これ、結構単純な作りでして、まず針が付いてる方を手前にして耳を挟むんですけど」
名前が人差し指と親指で耳を挟むジェスチャーをすると、何を思ったのか尾形は手に持ったピアッサーで名前の左耳を挟んだ。ドキリとした。尾形が何を考えているのかがわからない。本当に開けてやろうという気がないからか、はたまた耳殻の外側を沿って開けられた他のピアスが邪魔だったからか、ピアッサーは適当に奥まで差し込まれて位置を定めることなく耳殻の真ん中辺りを針が掠めていた。名前が開けようと思っていた位置とはだいぶ違う。変なところに穴が開いたらどうしよう。少し動揺して、説明が余計しどろもどろになっていく。
「えっと、それで、そう、あれ。引き金を引くように強く押し込むと貫通するんですけど、バネがあるから――」
バチンッ!!
バネがあるからある程度押し込むと勢いよく針が刺さる、と言い切る前に、バネの弾ける音が大きく名前の耳に飛び込んだ。え、うそ。慌てて尾形の手ごとピアッサーを強く掴んで固定する。軟骨に刺さった針がさらに押し込まれる痛みに名前は俯き顔を歪めた。
小さく息を吐き視線を上げると、名前は「えっ」と困惑の声を溢した。尾形が、瞳孔をキュッとさせて驚いた様子で固まっていたのだ。その顔を見て、ピアスが貫通してしまったのは尾形にとって予想外の出来事だったのだとすぐにわかった。きっと、バネ式ピアッサーの仕組みを知らなかったから、指の力で押し込むものだと思ってたのだろう。
「あの、手の力だけで押し込むわけじゃなくて、バネの力で一瞬で貫通する仕組みになっていて……ふふふ」
尾形の表情を見ていたらなんだかおかしくなってきてしまい、抑えきれなくなった笑い声が名前の口から溢れ出た。珍しく尾形がバツが悪そうにするものだから、余計笑いが止まらなくなってしまう。
「おい」
「いや、ごめんなさい。尾形さんがそんな顔するとは思ってなくて、くっ、ふふ……」
あまり大きな声で笑うとみんなが起きてしまうかもしれない。名前は必死で笑いを堪えながら、尾形の手ごと空のピアッサーをゆっくり耳から取り外した。ファーストピアスはしっかりと耳についている。変に曲がってたりもしなさそう。事故ではあったが、ひとまず成功ではあるだろう。
「早く外しちまえ。そうすりゃ塞がるだろ」
「んー……いや、でも」
尾形が名前の左耳に触れて、ピアスを見ながら言う。そのままピアスを外されてしまうと思い、名前はやんわりと尾形の手を制止した。
「いいですよ、このままで。曲がってたり変ではなさそうだし、ふふ、面白かったからこれでいいです」
「……なんだよそれ」
「ピアスを開けるのがこんなに楽しかったのは初めてです」
なんだか面白くて楽しくて笑い続ける名前を、尾形は何とも言えない顔で見つめていた。
「楽しくもないのに耳を穴だらけにしてんのか」
「ただ穴を開ける行為に楽しいも何もないでしょう」
「意味がわからんな」
「大層な意味はありませんからね、ふふ」
名前が片付けを終えてランタンを持つと、尾形に背を押されてみんなが寝静まるところに連れ戻された。早く横になれと言わんばかりにぐいぐいと背や肩を押される。
「終わったんなら早く寝ろ」
「でも耳が痛くて寝れないかも」
「横になって目を瞑るだけでもしとけ」
「はいはい」
一番体力のない名前が早々にバテないよう少しでも多く睡眠を取るべきなのもわかる。名前が渋々左耳を上にして横になると、尾形はすぐ後ろに座り込んだ。
「尾形さんは寝ないんですか?」
「お前が寝るまで見張っててやる」
「ええ、寝れそうにないのに……。寝返り打って耳痛くなったら嫌だし」
「なら寝返り打たなきゃいいだろ」
「無茶な。どうやって」
すると尾形は名前の後ろに寝転がり、名前の腹に左腕を回した。予想だにしない尾形の行動に名前は目を見開き固まってしまった。いや、寝なきゃいけないのに目を見開いちゃダメでしょ。
「こうすりゃ寝返りは打てんだろ」
「いや、そうなんですけど、その」
「そういや湯たんぽだったな、お前」
「違います」
「弾除けだったっけか」
クツクツと笑う尾形の声がすぐ近くから聞こえてくる。距離をとりたくて少し身を捩ると、回された腕に力が入り身を引き寄せられてしまった。背中に尾形の体温を感じる。尾形の息づかいをすぐ近くに感じる。顔に熱が集まる感じがして、左耳が余計にじくじくと痛んだ。……まだ暗くてよかった。尾形に背を向けていてよかった。
「も、もう寝るから、静かにしてください」
名前は固く目を瞑ったが、夢の世界にはなかなか逃げ込めなかった。
◇
「名前、耳の飾りが増えてないか?」
翌日、アシㇼパに声をかけられて、名前は笑顔で左耳を見せた。少し腫れた名前の左耳には、新たに黄色い石が輝くピアスが増えていた。
「気付いてくれて嬉しいなあ、可愛いでしょう?」
「けど、左耳なんだな。これではニンカリはつけられない」
「ごめんね。でも、私の耳飾りはまだ左耳だけでいいかなって」
名前はまだ右耳に穴を開けることはないだろう。父に叩かれたのは左頬だから。残念がるアシㇼパに申し訳ないと思いつつ、名前は新しいピアスのキャッチをつまんでピアスをくるくると回した。
視線を感じ振り返ると、尾形がこちらを見ていた。「どうですか?」と左耳を向けて聞いてみたが、何も言わずにフイっと視線をそらされてしまった。