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「見ろ杉元。コタンがあるぞ」

 アシㇼパが指差す方を見てみると、遠くにアイヌの村が見えた。樺戸まであと少しのところまで来ているようだが、今日はこのアイヌの村で休ませてもらうことにした。この村にはアシㇼパの親戚はいないようで、アシㇼパも来るのは初めてらしい。
 名前にとっては人生二度目のアイヌの村だ。初めてアイヌの村に訪れた時……谷垣を探していた時のように、名前は村をふらふらキョロキョロと見回した。慣れない場所にくると、色んな意味でドキドキする。
 突然肩に手を置かれ、振り返ると尾形が少し呆れたような顔をしていた。

「またキョロキョロしてんな」
「む、いいじゃないですか。私には馴染みがなくて面白いんですよ。あ、またあの時みたいに『話すな』とか『目立つな』とか言う気ですか?」

 あの時は尾形に釘を刺された後は言いつけ通り大人しくしていた。けれど、今は状況が違う。何も言われていないし正体を隠しコソコソする必要もないのだから、アイヌの村を興味津々で見渡すくらいはいいだろう。というのが名前の意見だ。

「お前はいちいち言わなきゃわからないのか」

 尾形は名前に向き合い、名前の両肩に手を乗せて顔を覗き込んだ。少し真剣な、真っ黒な黒曜石のような尾形の瞳が名前を射抜く。

「いいか、俺から離れるな」
「……はい?」
「今も、これからも、だ。何度も言わせるな」

 名前は目をぱちくりとさせた。離れるな、これからも、何度も言わせるな。尾形に言われた言葉を頭の中で反復する。名前には予想外な言葉だった。
 確かに、尾形に「俺から離れるな」と数えきれないくらい言われてきた気がするが、何度も言うのが嫌になるくらい言わせてしまっていたのだろうか? 何度も言うほど離れたりしただろうか? 今だって、念を押されるほど離れたつもりはなかった。
 名前が小首を傾げると、尾形の眉間に皺が寄った。あっ、やっちゃったかも。

「俺から離れるな、返事は」
「っ、はい」
「あとキョロキョロされるのも鬱陶しい」
「……すみません」

 圧に負けて勢いよく返事をしてしまった。「はい」と言ってしまったからには、できる限り尾形の近くにいなければならないのだろう。そんな義理はないと思いつつ、守らなければ後がこわい気もする。
 名前の返事と謝罪を聞いて気が済んだのか、尾形は肩から手を離し名前から視線を外す。名前は尾形の言う通り、離れることなく黙って尾形の横に立ちつくしていた。
 


「やあ、こんにちは。あんたら何の用だい?」

 村の真ん中で立ち尽くしていると、アイヌの男性に声をかけられた。彼は日本語が話せるらしい。牛山が「旅をしていて寄っただけ」「今晩の寝床と米をわけてほしい」「タダでとはいわん」と伝えると、アイヌの男性は「そうだったのかい」と穏やかに返した。流暢な日本語だ。

「あんたも日本語うまいね」

 杉元がアイヌの男性に言う。日本語を話せるアイヌは珍しい。谷垣を捜索した際に会ったおばあちゃんは日本語が全く話せなさそうな様子だったことを名前は思い出す。先程の会話でこちらの意図をしっかり理解してくれてたと感じられたので、きっと交渉もスムーズに進むはずだろう。

「オイ、なんだあれ」
「ん? ああ、あれは小熊のオリ……え?」

 牛山が杉元に問う。指差した先にあった木のオリには、茶色い体毛の大きな生き物がミチミチに押し込まれていた。木のオリは微かに揺れて、木の軋む音が鳴っている。小熊のオリ、ということは、あれは熊なのだろうか。アイヌの村に慣れていそうな杉元も動揺している。

「あの小熊のオリ……いつからあのまんまなんだ?」
「ちょっと小熊が大きくなるのが早くてな。大きいオリを作ってうつすとこだった。気にしないでくれ」

 杉元がアイヌの男性に聞くと、彼はなんてことないという様子で返した。気にしないでくれ、と言われても……。この異様な雰囲気と熊がすぐ近くにいる恐怖に、名前は尾形の背に隠れるように体を寄せた。

「俺はエクロㇰ。俺の父であり村長のレタンノ エカシに滞在の許可をもらうといい」

 アイヌの男、エクロㇰは村長の息子だったらしい。エクロㇰに言われた通り、杉元達は滞在許可をもらうため村長の家に訪問することにした。



「アイヌの家を訪問するときはいくつか作法があるんだ。俺はこれまで何度かやってるからよく見ておけ」

 杉元はアイヌの家の前で、牛山と尾形そして名前に強い口調で言い聞かせた。さらに続けて「騒ぎを起こしたくなければ行儀よくしろよ」と言い、「特に尾形」と釘を刺す。……まあ、チタタプって言わなかったしね。チラリと尾形を見ると返事もせず真顔でたたずんでいた。どうかそのまま大人しくしててほしい。名前は少し不安な気持ちになった。
 そんな名前を見た杉元が「名前さんは大丈夫だと思うんだけど」と笑って言った。たしかに自身が騒ぎを起こすことはないとは思うが、アイヌの作法は何一つ知らない。場に適した作法は大切なことだと思い、名前は緊張した面持ちで杉元の話に聞き耳を立てた。

 杉元はまず咳払いをした。家の人にすみませ〜んと声をかけてはいけないらしい。この時点で和人の作法とだいぶ違い、さっそく己の常識はここでは通じないと名前は感じた。
 しばらくするとアイヌの若い男性が顔を出し、杉元を見るとすぐに奥に引っ込んでいった。家の若い者が客を確認して主人に報告し、主人が客を入れる許可をすると掃除が始まるのだが……その掃除がなかなかに長かった。
 待ちくたびれた牛山が「まだなの?」と言うと、アシㇼパは『土砂降りになって雨宿りをしようと和人が訪れた時、この手続きをきっちりやって入れた頃には雨が止んでいた』という話を語った。それは、結構、いや……かなり長いのでは。名前は何をすることもなく、ヒラヒラと飛ぶ蝶に手を伸ばす尾形を見つめていた。案外可愛いところがあるんだな、この人。

「アフㇷ゚ヤン」
「あッ」

 先程こちらを見に来た若い男性が、しゃがんで蟻を見ていた杉元に声をかけて手を差し出した。杉元は立ち上がりその手を掴むと、反対の手を牛山に差し出す。牛山は少し困惑しながらその手を掴んだ。

「全員で手を繋ぐのか?」
「背筋を伸ばすなッ。手を引かれて招き入れられるときは、腰をかがめるのが作法だぞ」

 肝心の全員で手を繋ぐべかきどうかはわからなかったが、おそらく流れ的に手を繋ぐのだろう。多分。不安げにアシㇼパに視線を向けると手を差し出されたので、名前は頷いてその手を取った。ならばと牛山に続いて手を繋ごうとした時、伸ばした手は尾形に掴まれた。そのまま尾形は牛山の手を掴む。なんか横入りされてしまったが、まあ問題はないだろう。名前はあまり気にせず、腰をかがめて皆に続いてアイヌの家に入った。

 中に入った者から順に囲炉裏の周りに腰を下ろしていく。名前も手を引かれるまま奥へと行こうとしたが、アシㇼパは名前の手を離して入り口前に立ち止まった。……もしかしたら、女性は上座にいかないほうがいいのかもしれない。
 名前が突然立ち止まり、尾形は振り返って名前に視線を向けた。

「どうした」
「あ、その……私は下座に……」

 名前は困り顔で尾形とアシㇼパを交互に見ている。手を離して欲しくて尾形の手を握る力を緩めると、逆に尾形に強く握られて名前は驚いた。そのままグイグイと手を引かれ、尾形の横に座らされてしまった。尾形の独断で上座にきてしまったが、大丈夫なのだろうか。不安気にアシㇼパの様子を伺ったが、なんの反応も得られず良いのか悪いのかすらわからなかった。

 エクロㇰ含む三人のアイヌの向かい側に老人が座っている。きっとこの人が村長なのだろう。なにかアイヌの作法なのか、村長が手をサッサと動かした。杉元に「真似しろ」と言われ、名前も見よう見真似で手を動かす。合ってるかは、自信がない。チラリと尾形を見ると手を動かしてなくてギョッとした。嘘でしょ。名前は色んな意味で冷や汗をかいた。

「ムㇱオンカミ」

 突然、アシㇼパが村長を指差しアイヌ語で何かを言った。なんて言ったんだろう。杉元含め一同がぽかんとする中、アイヌの女性だけがブフォッと吹き出した。彼女はモノア。エクロㇰの妻らしい。エクロㇰが続けて家族を紹介していく。しかし、

「オソマ行ってくる!!」

 弟の紹介の途中でアシㇼパが勢いよく立ち上がり叫んだ。先ほどに続きアシㇼパの突発的な行動が目立ち、名前は密かに眉をひそめた。
 杉元が慌てて「我慢できないのか?」と止めたが、アシㇼパは「出口まで来てる!!」と言って家から飛び出てしまった。話の流れからしておそらくトイレ、多分大きい方のだろう。出口まで来てるのなら、仕方ないのだろうか……?

「すみませんね、普段は礼儀正しいんだけど……。他の家ではこういった場で挨拶の邪魔なんてしなかったし、頭の鉢巻とかも取ってちゃんとしてたのに……」

 礼儀正しく帽子を取っていた杉元はそう語り、「どうしたんだろうな」と呟いた。杉元があんなにも『行儀よく』と釘を刺したのに、同じアイヌであるアシㇼパが失礼なことばかりしている。そんなアシㇼパの行動に違和感を感じた。
 普段のアシㇼパを知らないエクロㇰは「子供のやることだから」と言って無礼を許してくれた。そして便所がわかりにくいところにあることを心配して、弟に迷っていないか見に行くよう伝えた。弟がアシㇼパを追うよう出ていくのを尾形は目で追う。

「ムㇱオンカミってどういう意味だ?」

 エクロㇰの弟が家を出てすぐ、尾形が疑問をこぼした。だが、誰も何も言わない。アイヌであり、日本語がわかるエクロㇰもだ。

「おや? もしかして分からんのか?」

 尾形はこのアイヌの人達を疑っているのだろう。だが、エクロㇰは「アイヌ語にも方言がある」と言い、杉元もそれに同意した。

「一体何を疑ってるんだ尾形! この人達に失礼なマネはゆるさんぞ!」
「こいつら本当にアイヌか?」

 疑いの目を向ける尾形に対して、杉元はアイヌの人達を一切疑わない。アイヌの知識がほぼない名前は何を誰を信じればいいのかわからなかった。

「ウンカ オピウキ ヤン!」

 突然の大声に驚き視線を向けると、窓の外からアイヌの女性がこちらに向かって叫んでいた。アイヌ語だから、和人である名前や杉元達には意味がわからない。エクロㇰに意味を問うても「知らない方がいい、和人を良く思わない者もいる」と言って意味を教えてはくれなかった。

「ウンカ オピウキ ヤン!」

 次いで妻のモノアも同じ言葉を叫んだ。アシㇼパの行動が気に障ったのだろうか。だが、モノアの声は震えていて、何かに怯えているようにも見える。
 エクロㇰは「出て行け」と日本語でモノアに凄む。それを見た杉元が気にかけ謝罪すると、エクロㇰは「いやいや……」と誤魔化すように言った。
- hakushi -