形勢逆転か。アイヌのふりをしていたヤクザにアシㇼパを隠された杉元は豹変し、尾形は小銃を手に取った。
「俺のひと声で外にいる仲間があのガキの喉を掻き切るぜ! お前ら武器を捨てろッ!」
弟役をしていた男がマキリを抜きながら叫ぶ。だが、ひと声あげる間もなく杉元に三叉の棒を口に突っ込まれ、首を一捻りされてしまった。ゴキンッ、と今まで聞いたことのない首の骨が外れる音がした。男が崩れ落ちる。首をあらぬ方向に向けて絶命している男を見て名前が絶叫した瞬間、尾形は名前の目を隠して抱き寄せた。
気付けば名前は尾形の外套の中にいた。何も見えない。尾形にグッと頭を抱え込まれている。名前はそのまま尾形にしがみ付き震えて身を縮こまらせた。
「ひと声出せるもんなら出してみろッ!!」
杉元が叫び、すぐさま発砲音が名前の耳に飛び込んだ。しがみ付く腕を伝って反動を感じる。何も見えないが、尾形が撃ったのだろう。ジャキッとボルトを操作する音がすぐ近くで聞こえた。
「エクロク助さん、アイヌ語で命乞いはどういうんだ?」
このままでは尾形の邪魔になる。そう思ったからか、恐怖で力が抜けたのか。……いやどちらもだろう。名前がしがみ付く手が緩み、尾形が杉元の小銃に駆け寄ったと同時に名前は床に崩れ落ちた。
「銃から目を離すな一等卒ッ」
軍人らしい言葉と共に尾形が杉元に小銃を投げ渡すと同時にヤクザ達が次々と襲いかかる。窓から武器を持つ男達が現れた、牛山は彼らに向かってエクロㇰを軽々と投げ飛ばした。
その隙に杉元は小銃に銃剣を取り付け、外へ駆け出た。ヤクザと戦いながらアシㇼパの名を何度も叫んでいる。
「おい、こっちにこいッ」
震えて動けなくなった名前は、尾形に引きずられて窓辺まで連れてこられた。窓の外に小銃を向ける尾形の足下で名前は床を見つめていた。
「目を瞑れ、耳を塞げ、じっとしていろ」
呻き声、叫び声、斬撃音、そして打撲音。地獄のような、恐怖心を煽る音がそこら中から聞こえてくる。尾形の言葉に返事を返すことができないまま、名前は硬く目を瞑り耳を塞いで身を縮めた。
……どのくらいの時間が経っただろう。耳を塞ぐだけでは防ぎきれなかった音が止みしばらく経った頃、背中にそっと手を添えられた。肩が大袈裟に跳ね、ハッと顔を上げると尾形が名前の顔を覗き込んでいた。
「終わった。ここで待ってろ」
尾形はそう告げると、ひとりで家の外に出て行ってしまった。もう恐ろしい音は聞こえない。だが、この状況で置いて行かれるのは、とてもこわい。
「待って……ッ!」
恐怖心に駆られた名前は何も考えずに尾形を追って家の外に出てしまった。目に飛び込んできた光景に、名前は絶句する。アイヌと偽ったヤクザ達の死体が村中に転がっていたのだ。あまりに凄惨な光景に悲鳴すら出ない。膝から崩れ落ち、胃の中身が迫り上がるのを感じて震える手で口を押さえた。
尾形が少し驚いた顔でこちらを見ていた気がするが、アシㇼパを見つけるとすぐに彼女に視線を向けた。
「杉元のやつ……ほとんどひとりで偽アイヌ共を皆殺しにしやがった。おっかねぇ男だぜ」
尾形が笑ってアシㇼパに語る。アシㇼパは何も言わない。彼女は何を思っているのだろう。
「アシリパさん、怪我はないかい? 奴らに酷いことされなかった?」
杉元のアシㇼパを気にかける声が聞こえてきた。声色はとても優しいのに、名前にはそれがなんだか恐ろしくて仕方がなかった。
「おい、立てるか」
視界が陰り顔を上げると、尾形が名前の視線をさえぎるように目の前に立っていた。杉元のような心配する表情でも優しい声色でもないのに、ひどく落ち着く。……けれどダメそうだ。脳裏をよぎる悲惨な光景に、充満する血の匂いに、吐き気がする。名前がゆるゆると首を横に振ると、尾形は無言で名前に外套のフードを深々と被せた。
◇
村中に転がるヤクザ達の死体を放っておくわけにはいかない。村の女達と一緒に村の外れに死体を埋めることになった。
村の女達は協力しあって死体を運び、力のある杉元ら男達は穴を掘った。死体運びは無理でも穴を掘るくらいなら……と穴掘りの手伝いを申し出たのだが、名前の顔色は相当悪かったらしい。杉元と牛山にやんわりと断られた名前は近くの木陰に座り込み、水筒片手に地面に穴が増えていく様子をただただ眺めていた。またもや役立たずの無能っぷりを披露してしまったわけだが、おかげで体調はだいぶ落ち着いた。……が、しばらくするとヤクザの死体が次々と運び込まれ始め、名前の気分はふたたび崩れていってしまった。血の気が引き、胃の中のものが迫り上がる。
「あ、あの、ごめ、すみません……! ちょっと……お花摘みに行ってきますっ!!」
名前は勢いよく立ち上がり、誰からの返答も聞くことなく近くの森林に一目散に駆け込んだ。
ある程度奥まで進み、名前はしゃがみ込んだ。あんなにも大量の死体を、惨たらしく殺された死体を見たのは初めてだ。ほんの一瞬だけ見た光景が脳裏にこびりついて離れない。……ここなら血の匂いはしない。深く深呼吸をして吐き気が収まるのをじっと待つ。
「離れるなと言っただろ」
背後から聞こえたよく知る声に驚き、勢いよく立ち上がり振り向いた。声の主は尾形だった。……どうして、彼はどうして追ってきたのだろう。どうして放っておいてくれなかったのだろう。こちらに歩み寄ってくる尾形を見て、心臓がバクバクとせわしなく動き出す。
「す、すみません」
名前の口から漏れ出したのは謝罪だった。フイッと顔を逸らして背を向ける。名前は役立たずだった、足を引っ張った、迷惑をかけた、……言いつけを守らなかった。様々なことに後ろめたさを感じてしまい、つい背を向けてしまった。……こんな役立たず、放っておけばいいのに。
ザッザッと草を踏む足音がだんだんと近づいてくる。けれども振り向けない。しばらくすると名前のすぐ後ろで足音が止み、そっと背に手を添えられた。
「かわいそうに、吐き気がするんだろ」
尾形が名前の背中をさすりながら肩越しに顔を覗き込んでくる。横目で尾形を見るとその表情は心配げ……とは全く言えない、いつも通りの無表情だった。この人はこういう時なにを考えているんだろう。名前は返事もせずに尾形の真っ黒な瞳を見つめた。
「吐いたほうが楽になるだろ」
「…………え?」
背後から顎に手を添えられる。反対の手はするりと胴体に回され、名前はさすがに動揺し体がこわばった。本当に、尾形は何を考えているんだ!
「ほら、吐いちまえよ」
「え、あの、その……」
「…………ハア」
なんと言えばいいのかわからずまごついていると、痺れを切らした尾形が名前の口元に指を這わせた。名前は慌てて口を噤む。この人、口に手を突っ込んででも吐かせる気なのだろうか……? 口を開けろと言わんばかりに唇をトントンと触られ、名前は焦り始めた。
「俺が手伝ってやる」
「…………」
「何度もウロチョロされちゃ困るんだよ」
「っ…………」
少し苛ついたような声色。だが、人の前で吐くという醜態はさらしたくない。せめてもの抵抗にと頑なに口を開けずにいたが、そのせいで何も言い返すことができない。もう吐き気なのか焦りなのか恐怖なのかわからないが、名前は顔面蒼白になっていく。
「顔色が悪いな」
「……っ、だ、誰のせいだと……っ!!」
耐えきれず反論した瞬間、名前の口内に指が口内に侵入してしまった。腕ごと胴体をしっかり抱え込まれていて、どうすることをできない。尾形の指は容赦なく奥へ奥へと入り込んでいく。口内を指が這い、閉じられない口から唾液が伝う。
やめてほしい、汚い、吐きたくない。指を思い切り噛んでしまえば尾形はやめてくれるだろうか。……だが、小銃を扱う尾形の指を傷つけたくない。尾形に怪我をさせたくない。そう思ってしまった名前は、何も抵抗できないまま尾形の指を受け入れるしかなかった。
「お前がこうなったのは杉元のせいだろ」
「っう……!」
「早く吐け」
「…………っ!!」
腹を押さえられ喉の奥を押されてしまっては、反射的に起きる嗚咽感に抗うことはできない。名前はそのまま胃の中が空っぽになるまで吐かされてしまった。
◇
名前は呆然としていた。……なんでこんな目に遭ってしまったのだろう。吐き続けて喉が痛いし、押さえ込まれていた腕も痛い。もう、なんだか疲れた。名前はそう思いながら、水筒の水で手を洗う尾形をぼーっと見つめた。
「ほらよ」
「あ、はい、ありがとうございます……」
これ私の水筒なんだけどな。と思いながらも、お礼を言って水筒を受け取り、残り少なくなった水で口をゆすいだ。何度ゆすいでも口の中がすっぱい気がする。
口元を拭い、キュッと水筒の蓋をしめた後、尾形は名前の手首を掴んだ。そのままグイッと引かれ、名前はよたついた。こちとらあなたに吐かされたばかりなのですが……!?
「行くぞ」
「……はい」
「もう逃げんなよ」
「…………はい」
名前は少し不満気にたっぷり間を置きつつも素直に返事をした。逃げないと返事をしたのに、腕は尾形に掴まれたままで離してくれそうもない。名前は尾形に手を引かれ、ゆっくりと歩き出した。
アイヌの村の外れに戻ると、先ほど掘った穴はすべて埋めら土の山がいくつも連なっていた。その下には……と考えると再び吐き気がしそうなので、何も考えないことにする。吐き気がしたところで、良くも悪くも吐けるものはもうないのだけれど。
名前が尾形と共に戻ってきたことに気がついた杉元が鍬を片手に駆け寄ってきた。きっと、ついさっきまで力仕事をしたいたのだろう。彼らを放って去ってしまったことに名前は申し訳ない気持ちになり、みんなに軽く頭を下げた。
「名前さん! 顔色悪かったけどもう平気?」
「はい、もう大丈夫そうです。ご心配をおかけしました」
「おい尾形、お前は急にいなくなってんじゃねえよ」
「…………」
名前に心配気に声をかけたかと思えば、尾形には不満気に声を荒らげる。名前はふたりのやりとりを見て曖昧に笑った。杉元の二面性を見て今後に一抹の不安を感じたが、今どうこう考えたところで仕方がないだろう。
杉元の苦言にも尾形はどこ吹く風だ。名前はそんな彼らに視線を向け、自分のせいで尾形が責められているのなら申し訳ないという気持ちになった。
「尾形さん、すみません。ご心配をおかけしました」
「……別に、心配したわけじゃねえ」
「それでも、ありがとうございます」
尾形の真意はわからないし、無理やり吐かせる行為は褒められたものではない。けれども、微かに不器用な優しさを感じた気がしたのだ。あれは尾形なりの非常に難儀な心遣いだったのかもしれない。うん、多分。だから、尾形にもお詫びとお礼は伝えるべきだと名前は思ったのだ。
名前が頭を下げて言うと、尾形は何事もなかったかのように髪をかき上げた。……やっぱ気のせいだったかもなあ。その様子を見ていた杉元が「オイ尾形」と言って睨みをきかす。思わず名前の口から苦笑いがこぼれた。
「尾形さんが来てくれなきゃ迷子になってたかもしれないし、杉元さんには申し訳ないとは思うんですけど……あまり尾形さんを責めないであげてください」
「ハハァ、だとよ」
「…………フンッ」
まさに犬猿の仲。尾形と杉元のやりとりが今度はおかしくて、つい笑ってしまった。