気球にしがみ付いていた兵士達を足蹴に乗り込んできた鯉登がこちらを睨みつけている。高度が上がり、狭い足場の上には逃げ場はない。被弾し傷を負った杉元か、水素の引火性から小銃を封じられ名前を支えている尾形のどちらかが戦うしかないのだろう。
「銃剣よこせ、俺がやる」
「自顕流を使うぞ。二発撃たれた状態で勝てる相手じゃない」
そう言いながらも尾形は杉元に銃剣を手渡した。
聞き覚えのある声がしたと思ったのだろう、鯉登が尾形の方に視線を向ける。
「尾形百之助……!」
尾形は正体がバレたと同時にフードを取り顔を晒した。鯉登の表情がみるみる険しくなっていく。自身の正体もバレてしまうんじゃないかと心配する名前をよそに、あろうことか尾形は名前のフードまで取ってしまった。慌てた名前の顔がお目見えし、鯉登は目を見開いた。
「……名字名前ッ!?」
「あ、あはは、鯉登さんこんにちは……」
どうしたらいいのかわからず愛想笑いで誤魔化していると、尾形は名前の肩をグッと抱き寄せた。名前は細い足場から落ちる恐怖が頭をよぎり、咄嗟に尾形の胸元にしがみ付く。なんてことをしてくれるんだ尾形百之助……! 恐る恐る鯉登のほうを見ると、とんでもない形相で尾形を睨みつけていた。
「尾形、貴様……ッ!!」
鯉登の口から恐ろしく早い薩摩弁が吐き捨てられた。名前の母も怒るときつい鹿児島弁が口から飛び出したが、それとは全くもって比にならない。ここまでくるともはや異国語のようだ。
「相変わらず何を言ってるかサッパリ分からんですな、鯉登少尉殿。興奮すると早口の薩摩弁になりモスから」
「な、なな、なんてことを……! すんもはん、すんもはん……!」
尾形の鯉登の早口を揶揄うような発言に、名前は思わず謝罪の言葉を漏らした。高所もコワイ、鯉登もコワイ、杉元も色々おっかない、もうどうしろっていうんだ。
そして間もなく鯉登は猿叫をあげ、杉元に斬りかかった。杉元は小銃を横に持ち、受けの体勢に入った。が、自顕流は先手必勝、一死必殺の技だ。初太刀は――
「は、外せ!」「受けるなッ!」
名前と尾形はほぼ同時に叫んだ。だが瞬時に体勢を変えられるわけもなく、杉元はそのまま小銃で太刀を受け勢いを殺しきれず額に小銃が直撃した。
鯉登の太刀は二、三と続く。杉元がよろけて足場に潜り込み、太刀先が骨組みに強く打ち付けられる。……杉元が落ちてしまうのではないか、骨組みが壊れてしまうのではないか。様々な不安が脳裏をよぎった。
「名前、お前が乗っていると知ったからには、気球を墜落させるようなことはしないだろう」
「あっ、そのために私の顔を見せたんですか……?」
「それだけじゃねえけどな」
「え、なんですか?」
「……いや」
「うーん、鯉登さん激怒してますけど本当に大丈夫ですか……?」
名前は尾形の曖昧な発言は気にも留めず、鯉登を見つめた。尾形はああ言ったが、もしかして名前の生存まで気が回らないのでは……と不安は募る一方だ。いや、鯉登は軍人だ。しかも少尉。怒りで我を忘れるなんてことないと思いたい。
鯉登が再度猿叫を上げ軍刀を振り上げた瞬間、カァァァン! と、どこからか飛んできた矢が鯉登の顔面すぐ近くの骨組みに刺さった。鯉登が視線を気球の下に向ける。その隙に白石が勢いよく鯉登に飛び蹴りをし、ふたりは足場の外に飛び出してしまった。
「シライシィ!!」
杉元が慌てて叫ぶ。このままでは白石も落ちてしまう。
だが白石は自身と足場を縄で繋いでいたようだ。白石は落ちることなく足場にぶら下がり、鯉登だけが何かを叫びながらひとり森へと落ちていった。
「あはははッ、アバヨ鯉登ちゃん!」
「シライシ、木に突っ込むぞぉ!」
調子良く鯉登を煽るように声を上げた白石だったが、引き上げる間もなく勢いよく木に突っ込んでしまった。ガサガサバキベキと枝を折る音と、白石の痛がる叫び声が聞こえてくる。やがて白石が木を通過し飛び出てくると、アシㇼパが白石にしがみ付いていた。
「アシㇼパさん!!」
すぐさま杉元が嬉しそうにアシㇼパの名を呼ぶ。先ほど飛んできた矢は、アシㇼパが射ったものなのだろう。素晴らしきファインプレーだ。彼女が気球を追い矢を射たなければ、もしかしたら鯉登を蹴落とすことはできなかったかもしれない。そう、鯉登を蹴落とし……落ちた鯉登はどうなったのだろう。
名前は敵ではあるが顔見知りでもある鯉登の安否が気になってしまった。味方である白石らをよそに、名前は鯉登が落ちたであろう場所を振り返り見つめる。
「鯉登さん、大丈夫ですかね」
「ハッ、敵の心配か?」
「敵……なんでしょうけど、知ってる人が落ちたら気になります」
「そうかよ。……まあ、木に落ちたのなら死にはせんだろう。死んでたほうが都合はいいがな」
「本当になんてことを……!」
名前は今さら鯉登の耳には届かないと思いつつ「鯉登さん、すんもは〜〜ん!!」と叫んだ。尾形は瞬時に名前の口を塞いで舌打ちした。
◇
白石とアシㇼパは引き上げられ、浮かぶ気球の足場で無事に合流した。
「肩の銃弾は貫通してるが左胸にはまだ弾が入ってる。あとで取り出さないと」
アシㇼパは撃たれた杉元の傷を見ている。せっかく家永に被弾した際の対処方法を学んだというのに、名前は情けないことにあまりの高さに足がすくんで動けない。あとで弾を取り出す時に何かしら手伝いができたらいいなと思いながら、尾形の隣で小さく縮こまった。
尾形はというと、名前も杉元達もそっちのけで杉元が奪った小銃をいじっていた。その様子はなんだか嬉しそうに見える。元々尾形が所持していた小銃とは何か違うのだろうか。銃のことはよくわからない名前は、上機嫌な尾形の手元を見ながら杉元達の会話に聞く耳を立てていた。
白石が土方と内通していたことに気付いたことを杉元が告げると、白石は気球から飛び降りようとした。だが、白石が土方一派に渡した刺青の写しはデタラメだったらしい。杉元が明るい声で「白石は俺たちを裏切ってなかった」と言い、彼らは和解したようだ。めでたし、めでたし。彼らの会話を聞きながら、名前は白石の死体を見ずに済んだことに安堵した。
第七師団から逃げ切り、白石の件も無事に解決し、しばらくぶりに穏やかな雰囲気だ。気球はゆっくりと進んでいく。
名前は風に当たりなびく髪を、少しうっとおしいと思いながら耳にかけた。だがすぐにサラサラと落ちて、毛先が頬や首をかすめていく。
「簪、使わないのか」
ふと尾形に声をかけられ、彼に視線を向ける。尾形は小銃をいじる手を止め、ジッと名前を見つめていた。尾形が手を伸ばし、名前の髪をすく。ああ、もしかしたらなびく髪が尾形にも当たっていたのかもしれない。名前はすぐに「すみません」と謝り、慌てて片手で髪をしっかり押さえた。
尾形の言う通り、簪を使ってまとめてしまえばいいのだろう。名前はポケットに手を伸ばしたが、少し迷ってポケットの上から簪に触れて手を止めた。
「……尾形さんから頂いた大事な簪ですから。いま落としたら絶対に拾いにいけないから、まだ使いません」
こんなところで落としてまた簪を買う手間を取らせるのは忍びない。そう思い困り顔で笑って言うと、尾形は「そうか」と一言だけ言って小銃に視線を戻した。
しばらくして、突如エンジンがプスンプスンと音を立て、プロペラが止まってしまった。
「おい、なんか止まったぞ。白石直せるか?」
「どれどれ」
杉元に言われ、白石がエンジンを見始める。白石は機械に強いのだろうか? 名前がそう思った束の間、白石は猿叫……ではなくお猿さんのような声をあげながらエンジンをドンドンと叩き始めた。おいおい、ブラウン管テレビじゃあるまいし……。名前は白石に呆れた目を向けたが、杉元までウキーッ! ウキーッ! と声をあげながらガンガンッバンバンッと叩き始めてしまった。しまいにはアシㇼパまでウキーッ!! と叫び出す始末。流石に尾形も「やかましいッ!!」と声を荒げた。
尾形は名前をジッと見つめる。もしかして、もしかしなくても、未来人ならどうにかできるとでも思っているのだろうか。……いや、無理だ。できるわけがない。名前は顔をこわばらせて勢いよく首を横に振った。
「こ、これは推測ですが、エンジンが壊れたというより原動力となる何かが尽きて止まってしまった……と、私は思うんですけど……!」
「まあ、だろうな」
どうにかご納得いただけたようだ。名前はホッと息を吐く。……だが、機械が止まってしまったということは、気球が落ちていくということだ。墜落、その二文字が頭に思い浮かび血の気が引いていく。
「あとは風の吹くままだぜ」
呑気に呟く尾形とは裏腹に、名前は恐怖で震えて尾形の腕にギュッとしがみついた。
気球は風に揺られながらゆっくりと降下していく。すぐ近くに崖がそびえ立っていて、ぶつかるのではと思うと恐ろしい。そのことに怯えているのは名前だけではなかった。
「うおおお、危ねえ……ッ! 風に流されてあんな岩場にぶつかったらやばいぞ」
「パウチチャシだ」
「……パウチチャシ?」
アシㇼパは、パウチカムイが住む村という意味でこのあたりの奇岩はパウチカムイの砦と言われていると語った。それだけ聞いてもよくわからない。
「パウチカムイは淫魔であまり心の良くない神様だ。取り憑かれるとその人間は素っ裸になって踊り狂う」
「ハッハッハッ、そんな馬鹿な……。アイヌは想像が豊かだねえ」
さらに詳しく聞いてもよくわからない。白石は間に受けずに笑って話を流した。だが、アイヌは大事なオオウバユリのことを馴染みやすい恋の話として語りついでいた。白石の言う通り、アイヌが想像豊かなだけならばいいけれど……と名前は思った。