ゆっくりと高度を落とした気球はやがて木に引っかかり、一同は無事地面に降り立った。名前は久々の土を踏む感触に心から安堵する。しかし、ここで安心している場合ではない。
「馬に乗って追って来る兵士が上空から見えた。あんな目立つものに乗っていたんだから、おおよその位置は把握されている」
尾形が双眼鏡で辺りを見渡しながら言う。追っ手がせまってきているのなら、のんびりはしていられないだろう。
だが、杉元の顔色が良くない。アシㇼパは杉元を近くの木の根元に座らせ、被弾した右肩と左胸を確認し始めた。杉元が肌を晒すと、痛々しい銃創から血がとめどなく流れていた。
「グズグズしてたら追いつかれるぞ」
「杉元の出血が止まらない。手当てしないと」
急かすように尾形は言うが、止血だけでもすべきだろう。被弾した際の処置は家永からしっかり教えてもらっている。何かできることがあるはずと思い杉元のもとに向かおうとした時、尾形に腕を掴まれた。振り返り「なんですか」と聞いても尾形は何も言わないし、じっと見つめても何を考えているのかちっともわからない。怪我人がいるのに、こんな時にも『俺から離れるな』とでも言いたいのか。名前は眉をひそめた。
「あの、手当てを手伝いたいのですが……」
「あいつらに任せておけ」
「でも、せっかく家永さんに教えて頂いたのに」
「俺だけを手当てすればいいだろ」
「…………はい?」
意味がわからないことを言われ、言葉が詰まってしまった。言い返すことができなくなり苦し紛れに目で訴えてみたものの、腕は掴まれたまま。そんなしょうもなくも思えるやりとりをしてる間に、アシㇼパは止血効果がある植物を見つけ、テキパキと杉元の手当てを終わらせてしまった。
「だから言っただろ、お前の出る幕もない」
「………………」
尾形の言葉に名前は再び黙り込むしかなかった。杉元が衣服を整え始めた頃、パッと手を離される。なんのために家永から処置を教えてもらったんだろう。名前はなんともいえない気持ちになりながら、スマホのメモ帳に『ノコギリソウには止血効果がある』と書き留めた。
杉元の応急処置を終え、山道を進んでいく。森を抜けて季節外れの雪が残る平野を歩いていると、辺りを見渡していた尾形が「見つかった!!」と声を上げた。その瞬間、緊張が走る。
「急げッ、大雪山を越えて逃げるしか無い!」
「マジかよこの山を?」
「え、本気ですか!?」
目の前には標高二千メートルはありそうな山々がつらなっていた。これを越えるしかないのか……!? 皆も冷や汗をかき、焦り困惑したような表情をしている。だが、逃げ切るにはそうするしかないのだろう。
歩みを進めているうちに冷たい風が吹き荒れ始めた。山風だ。冷たく重い空気が山から吹き下りてきている。
「まずいぞ、天気が急に崩れてきた」
風がとてつもなく冷たい。もうすぐ夏本番だというのに、まるで真冬のような寒さだ。風はおさまるどころかだんだんと強くなっていっている。風に煽られ外套がバタバタと勢いよくなびく。体ごと飛んでいってしまうような気がして、名前は外套の胸元に寄せてギュッと掴んで踏ん張った。
「この高さだと燃やす木が生えてねぇ!! 戻って下山しよう!」
「馬鹿を言え! 追っ手が来てるんだぞ!」
「残雪に穴を掘って避難するか?」
「ダメだッ、身を隠せるほど雪が残ってない!」
皆が声を荒げてあれやこれや言い合っている。名前にはこんな時どうすればいいのか全くわからず、その様子を見ながら震える身体を縮こまらせてただただ強風に耐えていた。少しずつ意識が曖昧になっていくのが自分でもわかり、意識を保とうと勢いよくかぶりを振った。考えろ、わからなくても考えろ。頭を使わないと。意識を保たないと。
そうこうしているうちに、白石がぶつぶつと呟きながら楽しげに笑い出した。この症状に覚えがあり、名前の焦りや不安がどんどん大きくなっていく。
「白石の様子がおかしいッ!」
「しょ、初期の、低体温症です! ど、どどうしようッ」
「風をよける場所を探すんだ!! 全員、低体温症で死んじまうぞ!」
尾形の言う通り、このままでは低体温症で全滅してしまう。とにかく風を凌げるところを探さないと。だが、必死に頭を動かし周りを見回してみるものの、風除けになりそうなものは見つからない。それに、なんだか頭がぼんやりしてしまい探すのに集中できない。……おそらくこれは低体温症の症状だろう。まずい、と思いながらもどうすることもできず、名前はいつの間にかただただ遠くを見つめていた。
何かを見つけたアシㇼパが何か叫んでいる、気がする。ゆく。なんだろう、それは。頭の中も目の前も霞がかっていく。
すると突然、銃声が耳に飛び込んできた。大きな音に意識が一気に覚醒する。ハッとして音が聞こえたほうに視線を向けると尾形が小銃を構えていた。小銃が向く先には倒れた二頭の鹿。ドンッ、と再び発砲音が鳴ると、鹿がもう一頭ドサリと倒れた。
「急いで皮を剥がせッ! 大雑把でいい!!」
アシㇼパが叫ぶ。慌てて下ろしたリュックからナイフを取り出し鹿の皮を剥ぐ尾形に駆け寄ったものの、鹿に手をあてたところで自身が鹿の皮の剥ぎ方なんて知らなかったことを思い出す。手からポロリとナイフが落ちた。……あれ、あれれ?
「自石を捕まえろ! 低体温症で錯乱しているッ!」
「パウチカムイに取り憑かれた!!」
杉元とアシㇼパの叫び声を聞き顔を上げると、目の前を素っ裸の白石が両手を振り上げながら走っていた。……あらあら、まあ。その様子をぼーっと眺める。すると尾形に肩を掴まれ勢いよく揺さぶられた。
「おいッ、どうした!」
「えっ……、あ、パウチカムイ、わかった。低体温症ですね。矛盾脱衣。寒いから、体温を温めようと頑張るんです、けど、なんだっけな、はは、暑いと勘違いしてしまって、えーっと、脱ぐ体力はあるけど、その……なんでしょう、あはははは、アイヌの想像力がよかったわけでなく、ん〜と」
「もういいッ、わかった、大人しくしてろ! お前まで脱ぎ出すんじゃねえぞ!!」
「……うん?」
なにを言ってるんだろう。痴女じゃあるまいし。
尾形は黙々と鹿の皮を剥いていく。下半身の皮だけ剥ぎ取ると、次は鹿の中身をどんどんと取り出していった。その様子を名前は少しねむいなあ、なんて考えながら眺めていた。あれ、なんだか寝てはいけない気もする。……ああ、鹿があったかいなあ。尾形を見つめながら、鹿の上半身にもたれかかる。少しチクチクした鹿の毛が鼻先をかすめる。ちょっとくすぐったい。ふふふ。まぶたが重くて、うつらうつらとし始める。
「何してんだッ! 早く入れ!!」
尾形が鹿の後脚を持ち上げて、こちらに向かって手を伸ばしている。どうして手を伸ばしているんだろう。おかしいなあ。どうして、どうして。身に余る寒さと問いが襲いかかる。
――この出来損ないが。
――お前なんか生まれてこなければよかった。
――死んだら死んだで好都合だ。
――期待外れ。
走馬灯のように頭の中でぐるぐると言葉が回る。誰がなんて言ったんだっけ。いや、そんなのどうでもいい。みんな、名前はいない方がいいと思っているんだ。誰がだなんて関係ない、みんなそうなんだ。
「どうせわたしなんかしんじゃえばいいっておもってるくせに」
うっそりと微笑みながら名前が言うと、尾形は目を見開いた。ふふ、おかしい、おかしい。どうしてそんな目で見るの? おかしい、笑いが止まらない。
ふふふ、と笑い続けていると、尾形に腕を掴まれ勢いよく鹿から引き剥がされてしまった。離れる温もり、空気が風が冷たい。寒くて体が上手く動かない。そしてそのままされるがまま、鹿の中にぎゅーぎゅーと押し込まれてしまった。