千代がわざと受験に失敗したことは、誰にも明かしたことのない秘密だった。誰にもバレてはいけない秘密だったのだ。
千代は最悪な過去を思い返しながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私それなりに頑張ったんですよ。ニコニコ笑って良い子のフリして、死にものぐるいで勉強して。でも、周りに評価されても、試験で満点を取っても、通知表を最高評価で埋めても、学年首席になっても、父は見向きもしないどころか兄と比べて粗を探して罵倒してきました」
いくら頑張っても兄を引き合いに出されるのだ。だから兄と同じ道を辿った。そしてついに兄と同じように学年首席まで上り詰めた時、今度こそ認めてもらえると思った。……けれどそれもぬか喜びだった。
もう医学部に入るしかない。……でも、医学部入ったら終わるの? 認められる? 本当に? この苦しみにゴールはあるの?
「……それで、私、気付いてしまったんです。医学部に入学しても、医者になっても、この先ずっとずっとずうっと兄達と比較され続けるんだって。ずうっと兄達に劣等感を抱き続けるんだって。一生認めてもらえず褒めてもらえず、一生見下されて嘲られて蔑まれて生きていくんだって。一生このままなんだなって」
茨の道を行けども行けども地獄。それでも親の言うまま医学部に進もうだなんて、気付いた時にはもう思えなくなってしまった。
「失望しました。馬鹿らしくなりました。私、期待もされず見向きもされず、何のために生きてるんだろうって。言われるがままやってきたのに、生まれて約十五年をすべて無駄にしたと思いました。ならせめて、これからの人生をもう無駄にしたくない。どうにかしないと、と、思って。……だから、父の厳酷さを暴いてしまおうと、少しづつ証拠を集め始めたんです。言われた暴言を盗聴器を使って記録を取り、紙にも書いて残しました」
少しづつ、でも確実に録音データを集めていった。何が悲しくて録音データを聞き返しながらノートとスマートフォンのメモに書き残しているのか。そう思いながらも、地獄の先にある春を見たくて、心を殺して記録を続けた。
「でもそれだけじゃ駄目な気がして、決定的な証拠が欲しかったんです。居間に盗聴器とカメラ……動く写真を撮れる機械をいくつも隠して、わざと受験に失敗して、不合格だったと父に告げました。暴言罵倒を叫んで一発くらい殴ってくれればという気持ちでした。けれど……はは、結果は上々過ぎて最低で……。予定通り頬を叩かれ罵倒されて、そこで終わりにすればよかったのに……『お前なんか生まれてこなければよかった』と言われて、つい『産んでくれと頼んだ覚えはない』と、まあ、そう、前に言った言葉を使うと『ちょっとしたヘマ』をしたわけです」
少し情けない気持ちになり苦笑をこぼすと、それまで黙って聞いていた尾形が千代の額をするりと撫でた。突然のことに驚いたが、不思議と嫌ではない。
「顎もこの傷も、父親にやられたのか」
「……はい、そういうことです」
あの場で千代は黙ってやり過ごすべきだったのに、余計なことを言ってしまったのだ。辛抱か反論か、この選択肢をを間違えた先は悲惨なものだった。
「全力で殴られて顎が外れて、頭もひどく揺れて、どうすることもできないまま殴られて蹴られて。『死ね』と何度も言われました。それでも怒りが収まらなかった父は私の頭を掴んで、私の頭を食台の角に叩きつけて……気が付いたら両親が勤める病院のベッドの上にいました。いやあ、それが、ほんと最低で……あはは、母は父の過ちが世に知れる事を恐れたようで、私は受験に失敗して狼狽して階段から転げ落ちたことになっていました」
千代にとっては最低な父でも、母にとっては愛する夫だったのだろう。愛されずに育った千代には愛なんて欠片もわからなかったが、愛とはおそろしいものだと思った。
「それでも怪しむ人はいました。父は名高い医者でしたが、その座を狙って敵視している人も多かったですからね。……だから私は入院している間に少しづつ情報を流したんです。父から暴行を受けました、暴言を吐かれました、階段から落ちてません、と。そして、退院してから数人に不合格を告げた時の盗聴器と動く写真の記録を渡したんです。そしたら、ふふっ、ある人は記録を記者に売り、ある人は記録を世間に広め、ある人は記録を然るべき機関に送りました」
とある父親が娘に暴行する動画はインターネットに流されるやいなや、瞬く間に拡散された。モザイクも何も処理のされていない動画だ、すぐに特定された。鳴り止まない電話、児童相談所や警察、テレビや週刊誌の記者からの連絡。何ももみ消すこともできぬまま、週刊誌に記事が載り、ワイドショーで何度も放送された。
有名過ぎる名医の苛酷過ぎる誤ちは、それはそれは話題になったのだ。
「私の思い通りに、父の醜悪な行為が明るみに出たんです! 世論は私の味方をしました! 何百もの命を救った神の手を持つ父の評判は、ひとりの実娘を殴って地に堕ちました。はは、あんなに私のことを高みから見下していたのに、転がり落ちるのは一瞬なんですね!」
母は泣いていたし、長男は顔面蒼白で、次男は顔を逸らしていた。父は顔を真っ赤にして何か叫びながら週刊誌を投げつけ拳を振り上げた。「いいんですか? 隠しカメラがまだあるかもしれませんよ?」と言うと、父は膝から崩れ落ち震えていた。あなたの行為が正しかったのなら、皆あなたの味方をしたはずなのにね。
「……父の行いは正しくありませんでした。正しさを説く父は正しくなかったんです。だから父の『お前なんか生まれてこなければよかった』という言葉は正しくなかったんです。この言葉を全力で否定してやりたかった。私は、父が正しくないと証明して……私は生まれてもよかったんだと、思いたかったんです」
もっと穏便にことを解決する方法はいくらでもあっただろう。けれど、どうしてもあの言葉が許せなかった。……もう我慢の限界だったのだ。
「桜糀家が嫌い。私に酷いことをする父が大ッ嫌い。見てるだけの母も兄も嫌い。『桜糀の娘』だと『神童の妹』だと血ばかり評価して私を見てくれない奴らも、血とコネが欲しくて擦り寄ってくる男共も、兄とお近づきになりたいだけの女共も、みんなみんな嫌。みんなして桜糀、桜糀、桜糀って。誰も私の血の滲む努力を見てくれない。全部桜糀のおかげ。血のおかげ。私を見てくれない。そんな大嫌いな桜糀の看板を私の血で汚してやりたかった。桜糀の世評を地の底まで叩き落としてやりたかった。遥か上にいる父を引きずり下ろしてやりたかった。どん底にいる私と同じところまで落としてやりたかった。だって、そうすれば、桜糀に価値がなければ、対等に皆と同じところに立てば、きっと私を正当に評価してくれるはずだって、そう思ったんです」
膝から崩れ落ちうずくまる父を、千代は初めて見下ろした。その父の様子は、どん底にいたはずの千代より下まで落ちてしまったようにも見えた。人を見下すことはちっとも面白くなかった。
「私が求めていたものを全て得られたかというと、全然そんなことはないのですが……後悔はしていません。親が敷いたレールから外れることはできたし、家を出て自由に生きることができました。今はひょんなことで時代も場所も全く違うところに来てしまいましたが、うん、ここまできてやっと欲しかったものを全て得られた気も、して……」
明治の北海道まできて、やっと桜糀が無価値なところまでこれたのだ。やっと欲しくて仕方がなかった自由を得られたのだ。だから、千代は元の時代に帰りたいと思ったことなどなかった。
尾形は静かに千代の背を撫でている。千代はそれを甘んじて受け入れた。尾形が、肯定してくれたようにも感じたからだ。――だが、
「道理があれば殺せたはずだ」
尾形の一言に千代はゾッとした。おそるおそる尾形を見上げたが、暗くてよく見えない。
「……どうして」
「だって、殺されそうになったんだろう。殺す道理はあったはずだ」
「……無理です、私にはできません。私は……自由になりたかったから、刑務所に入れられるような行為は……そんな危険なことは……っ」
「そうか、この細腕では無理か。だから回りくどい方法を選んだんだろ」
千代は何も言えなくなった。そんなわけないと、千代には言えなかった。千代が見て見ぬフリをしてきた気持ちを、尾形は容赦なく暴いていく。
「お前は父親が生きてることを残念だと思ってるはずだ。そうでなければ『残念ながらご存命』なんて言葉は出てこないだろ」
「……っ、死ねばいいのに、とは思いましたよ。……首吊って死ね、とは思いましたよ」
「そうだよな。そのはずだ」
「…………」
「お前も、俺と同じはずだ」
「……おなじ?」
お前も俺と同じはず。……なんのことだろう。いったい何が同じなのだろうか。千代には何もわからない。長くも短い間しか共に過ごしていない尾形について知らないことが多すぎる。
「……尾形さんも何か話してくださいよ」
「…………」
「なんでもいいですよ。出身地でも、好物でも。……私、尾形さんのことあまり知りませんから」
千代は尾形のことを知りたいと思った。なんでもいい、些細なことでも。だから尾形に問いかけてみたのだが……尾形が素直に話してくれるとは到底思えなかった。
だが千代の予想と反して、尾形は口を開いた。
「父は第七師団長……当時は近衛歩兵第一聯隊長、母は浅草の芸者。世間体を考えると芸者の妾とその子どもは疎ましかったのか、本妻との間に男児が生まれてから父はぱったりこなくなり、祖母が俺と母を茨城の実家に連れ戻したそうだ。頭がおかしくなった母は、父が美味しいと言ったあんこう鍋を毎日毎日作り続けた。だから、殺鼠剤をあんこう鍋に入れて母に食べさせた。愛があれば葬式にくるだろうと思ったんだが……父は来なかった。本妻との息子は二〇三高地で頭を撃ち抜いて殺した。父は自刃したように見せかけて殺した」
あまりにも簡潔に淡々と凄烈な話をされて、千代は目を見開いた。この短い話の中で、どうしようもない父親と、死人が三人も出ている。聞いたくせになんと言ったらいいのかわからず、尾形の外套をギュッと握った。
「これで満足か」
「え、あ、はい……そうなんです、けど……」
「けど?」
「……世の中どうしようもないクソみたいな父親しかいないんですかね……ってすみません大変失礼なことを言いました忘れてください」
千代が素直に思ったことがそれだった。父親という存在に嫌悪感を持つ千代だからか、尾形が親族を殺したことよりも父親がクソだという意見が優ったのだ。だいたいコイツのせいだろと思ってしまったのだ。他人の親にこんなこと言えた義理ではないのに。尾形が父親のことをどう思っていたかはわからない。それなのに勝手に人の父親を評価するべきではなかった。
だが尾形は自身の目元を片手で覆いクツクツと笑い出した。何がそんなにおかしいのか、千代は意味がわからなくて目を見張る。
「他にもっと言うことあんだろ」
「え……だいたい父親のせいって思いましたけど、いや、そういうことではないですね……あとお母様はお綺麗な人だったんでしょうね」
「くっ、くく……」
「な、なんで笑うんですか……!」
さらに笑い出すものだから、本当に意味がわからない。だが自身が相当見当違いなことを言ってしまったことは嫌でもわかった。尾形が不快にならなかっただけ良かっただろうか。
「終いだ、もう寝るぞ」
「い、いきなりですね。私、なんだか寝れそうになくて……そうだ、子守唄でも歌ってあげましょうか?」
「とおりゃんせか?」
「どうしてそんな物騒な……いや、うん、歌いましょうか」
はたしてこれは子守唄なのかと思ったが、千代は何かを察した。おそらく、尾形にとっての子守唄が『とおりゃんせ』だったのだろう。なんだ、おかしくなったとはいえ曲選に癖はあるが子守唄を歌ってくれるくらいには優しい母親だったんじゃないか。千代はそう思った。だが、そうだとしたら千代には少し荷が重い気もする。けれど子守唄なんて歌ってもらった記憶はなく他にそれらしい子守唄はうろ覚えだし、言ったからには何も歌わないというわけにもいかない。
そっと尾形の背に手を回すと、尾形がぴくりと動いた、気がする。気がしただけだ。そのままトントンと尾形の背を軽くたたきながら、千代はとおりゃんせを歌い出した。……が、残念ながらとうりゃんせもうろ覚えだったようだ。時折り歌詞も音程が怪しくなり鼻で笑われたが、強行突破で歌い続ける。
「いきはよいよい、かえりはこわい」
千代は帰る気などないのだから、何もこわいものなどない。
短い歌はすぐに歌い終わり、千代は手を止めた。ああ適当なことを言うんじゃなかった、と少し後悔。背に回した手を引っ込めようと動かした時、グッと体を引き寄せられピタリと密着し、手の行き場がなくなってしまった。というかちょっと苦しい。
「まだだ」
まさかの発言に千代は驚いた。何が? 子守唄が? しどろもどろな『とうりゃんせ』でいいのか? 千代は戸惑いながら、もぞもぞと顔を出して尾形に問う。
「……とおりゃんせ?」
「ああ」
「いつまで、ですか」
「眠るまで」
「……はあ、わかりました、仕方ないですねぇ」
千代はまた尾形の背を軽くたたきながら、とおりゃんせを歌い出した。「眠るまで」と言われたので何度も繰り返し歌っているうちに、千代はいつのまにか眠ってしまった。どちらが眠るのが早かったのかはわからない。