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 もぞもぞと尾形が動くのを感じ、名前は目を覚ました。寝ぼけ眼で昨晩は鹿の中で寝ていたことを思い出す。どうやら尾形が鹿の中から出たらしい。隙間から日の光が入り少し眩しくて、朝の空気を感じた。尾形に続き外に出ようとした時、待てと言わんばかりに目の前に尾形の手のひらが向けられた。

「……ヒグマだ」

 少し焦ったような声色。名前は体をこわばらせた。名前が入っている鹿が外からゆさゆさと揺さぶられている。これは、もしかして、熊。もしかしなくても、絶体絶命の大ピンチなのでは。
 名前がどうすることもできず固まっていると、突然外から「おぎゃあ!!」と白石が叫ぶ声が聞こえた。続いて熊の鳴き声とともにドタドタと駆ける音が聞こえてくる。

「この隙に行くぞッ」
「ひゃいッ!」

 緊張のあまり噛んだ。どうやら白石の謎の産声により、熊が謎に怯んだらしい。おっかなびっくり鹿から出た名前は、尾形に腕を掴まれ引きずられるようにしてその場を去った。



 アイヌは大雪原をカムイミンタㇻという『ヒグマがたくさんいるところ』という意味の言葉で呼ぶとアシㇼパは語った。

「シカの肉は残念だけど諦めよう……」
「うん、熊の執着心はすごいみたいだしねえ」

 アシㇼパが少し残念そうだが、こればかりは仕方がない。熊に取られたリュックを取り返して襲われた事件もある。もったいない気もするが諦めるのが吉だろう。

「さすがに追っ手もあの天候では進めなかったか」
「このまま諦めて帰るとは思えないけどな」

 杉元と白石がそう話す横で、尾形は双眼鏡を使い辺りを見渡していた。尾形が何も言わないということは、今のところ追っ手は来ていないということなのだろう。熊からも第七師団からもひとまず逃げ切れたようで、名前はほっと胸を撫で下ろした。

 この先は第七師団の意表をついて網走方面ではなく十勝方面から下山し、詐欺師の鈴川の情報を元に釧路に向かうことになった。しばらくは追っ手を巻きながらの野宿生活が続きそうだ。

「何やってんの?」
「変な鳴き声のエルㇺがいたから山杖を削って罠を作った」
「……えるむ?」
「ネズミのことだ」

 気付けばアシㇼパが罠を作っていた。杉元と名前はアシㇼパの手元を覗き込む。これは『プラーシカ』というロシアの少数民族がリスを獲る時に使う罠らしい。ロシア、ロシアかあ……。パルチザンという言葉が頭をよぎる。アシㇼパの周辺にロシアにルーツを持つ人物がいたということだろうか。この罠は誰に教わったのだろう。名前は考える。

 アシㇼパが罠について話している間に、ゴトッと石が落ちる音が聞こえてきた。さっそくネズミが罠にかかったらしい。

「エルㇺが獲れた。下山したら森に入って丸焼きにして食べよう」
「ネズミ煎餅かよ……」

 石を退かすと、潰れてペラペラになった小動物が出てきた。アシㇼパがそれをつまみ上げると杉元は顔をしかめた。一見ハムスターのような可愛らしい見た目をしていてかわいそうだと思ってしまったが、こちらも何か食べなければ生きていけない。ネズミには申し訳ないが……ん? これネズミか?

「あ! この子、ナキウサギかも」
「ウサギ? ネズミじゃなくて?」
「ええ、耳も体も小さくネズミのようですが、ナキウサギは立派なウサギ目のウサギですよ」

 名前はスマートフォンを取り出し、画像欄をスクロールした。そして一枚の画像を表示して皆に見せる。

「エルㇺだ」
「お、似てるな」
「なんだこれ」

 一同がスマートフォンの画面を覗き込み、あれこれ声を上げる。尾形は無言で顔を向けてきたので、三人が見た後に尾形に向かって画面だけを向けて見せた。
 これは、某アウトドアブランドの店内に飾られていたポスターを写した写真だ。たしかその年のカタログの表紙にもなっていたはず。カタログを受け取った際に「可愛いネズミですね」と言ったら、店員に「ネズミじゃないんですよ〜」と言われ、正体が気になり過ぎて調べたのだ。日本にはエゾナキウサギが北海道の高山帯に生息しているらしいので、この罠にかかったネズミはナキウサギだと思っていいだろう。

「ううん、たしか準絶滅危惧種だったんだよなあ……」

 明治時代ではどうなのかわからないが、名前が元いた時代では準絶滅危惧種だったはずだ。それを思い出してしまうと、甲高い鳴き声を上げて石に潰されるナキウサギをさらに哀れに感じてしまう。

「あ、そうだ。ここで食べちゃおう」

 名前はリュックの奥底から缶をふたつ取り出した。

「なにそれ? 食べ物?」
「非常食の保存缶です。日本は地震大国ですからね、この鞄は防災鞄も兼ねていたんです。まあ、山登りも何が起こるかわかりませんからねえ」

 テントや食材、重たい荷物はキャンプ場の拠点に置いてきていたが、このリュックにはもしもの時のためにそれなりに色々と詰めていた。備えあれば憂いなし、というやつだ。
 白石の問いに答えながら、名前は賞味期限を確認する。逆行して明治時代に来てしまってはいるが、明治に来てからの日数で見れば全然余裕がある。まあ、おそらく大丈夫だろう。

「コスビ……?」
「違う違う、反対です。左から読むんです。多分五十年後には左から右に読むようになってると思いますよ」

 杉元が赤い円柱型の缶に書かれた文字を右から読み上げた。これは現代なら皆が知っている、男児の顔が目印のおいしくてつよくなるビスケットの保存缶だ。近年では味気ないカンパンだけではなく、色々な種類の保存缶が増えていい時代になったものだ。まあ、今ここは明治なんだけれど。

「赤い缶はビスケット、白い缶は飴ちゃんです」
「飴ちゃん〜〜!? 名前ちゃん、俺に一個ちょ〜だい!!」

 白い長方形の缶は某アニメーション映画にも出ているドロップの保存缶。白石は飴が好きなのか、飴と聞いた瞬間に目をキラキラとさせて手を差し出してきた。名前はクスッと笑いながらシールを剥がして丸い蓋を開け、白石の手に飴をコロンと一粒落とした。薄ピンクだから、りんご味かな。白石は飴を受け取ると、迷わず口に放り込んだ。

「ん〜〜! 甘くて美味しい〜〜!!」

 白石がニコニコ顔で両手で頬をおさえている。幸せそうで何よりだ。
 ビスケットは喉が渇きそうだし、まずは飴を皆に配ろう。名前は「よければどうぞ」と言いながら、杉元とアシㇼパの手にも飴を転がした。赤色と水色、水色って何味だったっけ。

「白石で毒味が済んだなら、俺にも寄越せ」
「ちょっと、尾形ちゃんひどくない〜!?」

 尾形の余計な一言に白石がぷりぷりと怒っている。それをガン無視する尾形をちらりと見て、名前は苦笑いをこぼした。
 ……今朝から尾形と面と向かって話すのはこれが初めてだ。昨夜のこともあって、少し気恥ずかしくて尾形の顔が見れない。名前はフッと視線を飴の缶に向けた。

「そんなこと言うならあげませんよ?」

 なんて冗談を言いながら自身の手のひらに飴を出すと、白と黄色の飴が転がった。名前は少し悩んで黄色い飴を摘む。毒味だとか言うのなら、名前も責任持って先に食べるべきだろう。そう思い摘み上げた飴を口に運ぼうとした時、尾形は名前の手首を掴み黄色い飴をパクリと口にしてしまった。驚いて白い飴が手のひらから転がり落ちる。

「な、あげないとは言ってないじゃないですか!」
「くれるとも言ってなかっただろ」
「だからって、〜〜〜〜ッ」
「ははッ、やっと俺を見たな」

 尾形とバッチリ目が合った。……もう、なんなんだ。最近こんなことばかりだ。からかわれてるのだろうか。
 勢いよく顔をそらすと、落ちた白い飴が視界に入った。落ちたものを食べる気は出ないが、そのままにしておくのもよくないだろう。だが、腕を掴まれては拾うことができず、名前は飴を見つめていた。

「もう、飴落としちゃったじゃないですか。もったいない」
「白石に食わしておけばいいだろ」

 尾形は名前の腕を離すと、すぐさま飴を拾い上げ白石めがけて放り投げた。ああ、なんてことを! もう三秒ルールは適応されない飴は、名前が止める間もなく白石の手に渡り、まもなく口に入ってしまった。
 喜んで飴を口にした白石だったが、途端に渋い顔になる。

「やだぁ、甘くな〜い」

 ……あ、ごめん、それハッカ。名前は色んな意味で白石に申し訳ない気持ちになった。



 最後に自身の分の飴も取り出して口に放り込み、缶の蓋をはめた。その蓋の丸い形状に、名前はふと五百円硬貨のことを思い出す。

「そういえば、五百円硬貨。まだ返してもらってません」
「ああ、そうだな」
「そうだなって……。ふ、褌の中とか冗談言わないでくださいよ?」
「誰が言うかよ、助平女」
「なっ!」

 尾形の言葉にわなわなと震えていると、尾形は革製の長財布から五百円硬貨を取り出した。それを見た名前は「あっ」と声を出した。五百円硬貨との久々のご対面に少々驚きつつ、尾形がなくしていなかったことに名前はほっとした。

「よかった……!」

 安心したような声を出し、油断した隙に! と勢いよく硬貨に手を伸ばした。が、名前に尾形の隙をつけるわけもなく、ひらりと簡単にかわされてしまった。頭上に手を上げられてしまえばもう届かない。ぐぬぬ、と硬貨を見つめていると、尾形は楽しげにハハッと笑った。

「前みたいに飛びつかないのか、助平女」
「しませんッ!!」

 尾形に煽られ名前は叫んだ。その言い方、どうにかならないのか! やめてほしい!!

 理由はわからないが、やはり尾形は五百円硬貨を返す気はさらさらないようだ。今回は尾形が所持していることが確認できてよかったじゃないか。名前はそう思うことにした。
 名前が大人しく諦めたことを察した尾形は手を下ろして財布を開けた。尾形の長財布にしまわれていく五百円硬貨をジッと見つめながら、名前はため息をついた。
- hakushi -