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 時は数刻前、杉元とアシㇼパが村を出る直前のことだ。

「私と杉元が三日以内に姉畑支遁を連れて戻れなかったときは……尾形が谷垣を守ってくれ」

 食糧庫の足場に座る尾形にアシㇼパは言った。隣に座る名前は尾形をチラリと見て、湿地で谷垣を見つけた時の尾形の言動を思い返し考える。……正直名前には谷垣を守る尾形の姿を想像できなかった。

「あの子熊ちゃんを助けて俺に何の得がある? 奴は鶴見中尉の命令で俺たちを追ってきた可能性が高い」

 案の定、尾形は谷垣を守るつもりなんて更々なさそうだ。尾形は「鶴見中尉を信奉し、造反した戦友三人を山で殺す男だ」と続けた。

「谷垣と行動していた三人のことか?」

 尾形の言葉に、杉元が言う。どうやら杉元は先遣隊の三人を知っているらしい。……それもそうか、先遣隊は尾形を襲った『フジミ』を探していた。もしかしたら彼らと遭遇し一悶着あったのかもしれない。三人を殺したのは谷垣ではなく杉元の可能性も……と思ったところで、その考えはどちらも間違いだとわかった。

「あいつらを殺したのはヒグマだ。俺がその場にいたんだから間違いない」
「ヒグマ?」
「谷垣はマタギに戻りたがっていた。足が治ったあとも軍に戻らずフチの家にいたと聞いた。谷垣に何かあればフチが悲しむ」

 アシㇼパが懇願するように尾形を見上げている。名前には嘘を言っているようには見えなかった。
 おそらく先遣隊は杉元を見つけ、その場で三人がヒグマに殺され、生き残った谷垣はアイヌのおばあさん……アシㇼパのフチのもとで療養し、マタギに戻りたかった谷垣は軍に戻らず、フチに恩を返すためにアシㇼパを探す旅をしていた。ということなのだろう。となると杉元を見ていないと言ったことが嘘だったわけだが、杉元やアシㇼパに助けてくれた恩を感じていたのならば、第七師団にも造反組にも協力する気がなかったのならば、それは優しい嘘だったのかもしれない。

「言っとくが……俺の助ける方法は選択肢が少ないぞ」

 尾形はうっすら笑みを浮かべて小銃越しに村の男達に視線を向けた。村の男達は険しい眼差しでこちらを見ている。湿地での第一印象が最悪だったんだろう、当たり前だ。

「もしもの時は、頼んだぞ名前」
「わ、わたしィ……?」
「名前さん、悪いけど谷垣と尾形のことお願いね」
「は、ははは……」

 いや、荷が重い。谷垣はともかく尾形まで任されてしまった。そんなこと言われても、名前には尾形の手綱を握るのは不可能だろう。空笑いで誤魔化していると、尾形に鼻で笑われた。

 杉元とアシㇼパの背を見送りながら、名前は考える。もしもの時、尾形はどうするのだろう。

――あんたはこの人たちを皆殺しにする選択しか取らないだろう。
――俺の助ける方法は選択肢が少ないぞ。

 尾形は本当に『皆殺し』という選択しかしないのだろうか。……谷垣を探し第七師団に見つかった時、尾形は狙撃の腕を活かして兵士の脚を狙い逃げ切った。選択肢は他にあるはず。名前は尾形の言葉を信じたかった。

「……選択肢、少ないけど『皆殺し』以外があるってことですよね」
「さあ、どうだかな」
「おばあちゃんっ子の尾形さんがアシㇼパちゃんのおばあちゃんを悲しませるようなことはしないって……信じてますからね」

 尾形の目をジッと見つめて言うと、彼はめんどくさそうに髪をかき上げてため息をついた。



 捜索一日目、その日杉元達は帰ってこなかった。夕方になるとマタンプㇱを目深につけた男……キラウㇱがオハウを持ってきてくれたので、腹を空かさずに済んだ。小熊の檻にいる谷垣にも食事を渡しているのを見て、名前はほっとした。さすがに三日三晩飲まず食わずにはさせないようだ。
 その日の夜は食糧庫の足場に座ったまま、尾形の肩を借りて眠りについた。



 捜索二日目は朝からあいにくの雨だった。尾形は外套ですっぽり身を包んで雨に耐えている。名前も撥水生地のマウンテンジャケットをしっかり閉め外套をかぶり、雨に打たれてため息をついた。

 ザッザッと足音が聞こえ顔を上げると、キラウㇱがこちらに向かって歩いてきていた。朝食を持ってきてくれたのかと思ったが、手には何も持っていない。

「客人としてもてなすつもりはないが、雨の間だけ中に入るといい」
「いいんですか?」
「いや、俺はいい」

 ありがたいことにキラウㇱに家の中に入るように言われたが、尾形は即座に断った。なぜだか尾形はここから離れる気はないらしい。
 名前は悩む。お言葉に甘えて雨宿りだけでもさせてもらいたいところだが、尾形が断ったなら名前も断るべきだろうか。

「名前、お前は中に入れ」
「え、でも」
「雨に打たれて風邪でも引かれたら迷惑だ」
「あ、はい……」

 尾形にそう言われてしまっては断る必要がない……というか断れない。名前は尾形に少し申し訳ない気持ちになりながら、ひとり食糧庫の足場から降りた。

 キラウㇱに案内された名前は、家の出入り口の前で足を止めた。先に入ったキラウㇱが雨に打たれて立ち尽くす名前を不思議そうな目で見ている。
 名前はアイヌの作法に疎い。谷垣の件で不審に思われているだろうに、何かよくないことをしてしまったら大変だ。そう思った途端とても不安になってきたのだ。

「どうした、入らないのか」
「あの、主人の許可とか掃除とか……大丈夫でしょうか」
「ほう、詳しいんだな」
「いや全然! 詳しくないから確認しているんです……」

 中途半端に知っているから、余計あれこれ不安になってしまう。素直に入ってしまってもいいのだろうか、咳払いはするべきなのか、手を繋ぐ人がいない時はどうすればいいのか。何もわからなくて立ち尽くしてしまう。
 
「無作法なことをしてしまうかも……」
「気にしなくていい、いいから入れ」

 キラウㇱはそう言うと先に家の奥に入ってしまった。名前はおそるおそる控えめに身を屈めて家の中に入った。



 家の中に入ると、名前は慎ましく出入り口近くの下座に腰を下ろした。名前がひとりでアイヌの家に訪れるのは初めてのことだ。きっと歓迎はされていない。緊張した面持ちで座っていると、朝食のオハウを手渡された。おずおずと受け取り食べていく。オハウは雨で冷えた名前の体を温めてくれて、食べているうちに少しだけ緊張もほぐれてきた。

「ヒンナ、ですね」
「詳しくないとは言うが、よく知ってるな」
「本当にちょっとだけですよ。アシㇼパちゃん……一緒にいたアイヌの女の子が色々教えてくれたんです」

 空のお椀を置き、名前は窓の外に視線を向けた。雨はまだまだやみそうにない。きっとこれでは杉元達も満足に捜索できないだろう。尾形は大丈夫だろうか。
 雨が降り続く限り名前はこの家で過ごすことになるのだろうが、招かれぬ客への視線は少し痛い。キラウㇱがずっとそばにいるのは、名前が何かしでかさないか見張っているのだろう。

 できることもやることもなく家の中をゆっくり見回していると、あの謎の三股の棒が視界に入った。あの時のことはあまり思い返したくはないのだが、結局本来の使い方はわからずじまいだった。

「あの棒……見たことあるんですけど、どうやって使うものなんですか」
「ああ、『耳長お化け』か。キサラリといって、あれで脅かすと子どもがすぐ泣き止む」
「脅かす……?」
「窓の外からちらつかせながらこの世のものとは思えない声を出すんだ。今は雨が降っているから使えないな」
「なるほど」

 大喜利大会の時に杉元に「惜しいかも」と言われた意味が少しわかった。子どもに使うところは合っていたからか。

「じゃあ、ムックリは? ムックリを使うとヘビが出ると聞いたんですけど、楽器か何かですか?」
「アイヌの口琴楽器だな。口にあてて紐を引いて振動させて音を出すんだ」

 キラウㇱは竹でできた小さな棒状のものを持ってくると、口にあてて音を出してくれた。紐を引くたびにビョンビョンと予想外の音が鳴り、名前は思わず笑ってしまった。
 同じものを手渡されて見よう見まねで鳴らしてみたが、上手く鳴らない。それもなんだかおかしくて名前は笑いが絶えなかった。

「ふふ、面白いですね!」
「アイヌに興味があるのか?」
「そうですね、あれこれ聞いてしまうくらいには」

 楽しげに笑う名前を見て、今まで仏頂面だったキラウㇱの表情も緩む。そのことに名前は少しばかり驚いたが、嬉しくも感じた。こうして尾形と谷垣への不信感も少しは拭えたらいいのだけれど、そううまくはいかないだろうとも思う。

 それから名前は、キラウㇱや日本語がわかるアイヌの人達と他愛もない会話をして過ごした。
- hakushi -