結局雨は降り続き、やむ頃には日が落ち始めていた。杉元達も帰ってこない。雨の中での捜索は無理があったのだろう。
「すみません、結局長居してしまって」
「いい、気にするな。これは夕食だ。兵隊さんにも持っていくといい」
「わあ、ありがとうございます!」
名前はキラウㇱから温かいオハウが入ったお椀をふたつ受け取り、にこにこ笑ってお礼を言った。
「アイヌ語で『ありがとう』ってなんて言うんですか?」
「『イヤイライケレ』だな」
「ふふ、イヤイライケレ!」
早速教えてもらったアイヌ語でお礼を言う。キラウㇱがフッと笑うのを見て「発音がおかしかったですか?」と聞くと、彼は首を横に振った。
「尾形さん、ただいま戻りました。お夕飯もらってきましたよ!」
「遅え。もう帰ってこないかと思ったぜ」
「だって雨がなかなかやまなかったから……」
尾形が座っていた食糧庫に戻ると、彼は小銃の点検をしていた。布で包んでいたとはいえ一日中雨に打たれていたからか、普段より念入りに確認しているようだ。
「作業中に申し訳ないですけど、温かいうちに食べてください。雨ざらしで冷えたでしょう」
「ああ、わかった。あとランタンを貸せ。日が完全に落ちたら何も見えん」
「いいですよ。けど、まずご飯です」
手が塞がっていては食糧庫の足場に登れないので、尾形にふたつとも手渡して滑らないよう慎重に登る。上がりきり隣に座る頃には、尾形はすでにお椀の半分くらいを食べていた。もぐもぐと咀嚼する尾形を見ていい食べっぷりだなあと名前は思った。
「ほらよ」
「ありがとうございま……ちょっとこれ尾形さんが食べてたお椀じゃないですか?」
名前に差し出されたのは尾形が食べて中身が減ったお椀だった。尾形が間違えたのだろうか。尾形に視線を向けると、だから何だ? というような顔をしていた。
「お前は家ん中でたくさん食ったんだろ。一杯では俺には足りん、少しくらいわけてくれたっていいだろ」
「夕飯はまだ一口も食べてません! 分けるにしても私のお椀から取るとかもっとこう……ああもう〜いいですよいっぱい食べてください私少食なので!」
色々言いたいことはあったが、言ってるうちに面倒になってしまった。べつに食べれれば尾形の食べかけでもいいだろう。……この食いしん坊め! 名前はそう思いながら中身が半分ほど減ったお椀を受け取り食べ始めた。
三日目の朝は早かった。朝日が上がり始めたばかりで薄暗い中、尾形に起こされて名前の一日は始まった。
「見張りが寝ている。今のうちに行くぞ」
「え、行くって……どこに……!?」
「谷垣を助けるんだろ?」
ヒソヒソと小声で話しながら、尾形は食糧庫から麻袋を取り出し外套をかける。そこに布を巻いた棒を立て掛ければ、まるで尾形が俯いて寝ているように見えた。
「お前が家の中で奴らの気を引いてくれたおかげで準備が捗った」
「え、ええ?」
「早く外套を脱げ」
「あ、はい!」
尾形がもうひとつ麻袋を積み上げるのを見て、名前も慌てて外套を脱いだ。見張りがいつ起きるかわからない。のんびりはしてられないだろう。
寝起きの突然のことに言われるがまま動いていたが、尾形は谷垣を助けると言った。助ける、助ける……本当に!?
「え、谷垣さんを助けるんですか?」
「お前が言ったんだろ。俺はバアチャン子だからな」
尾形がニヤリと笑って言うのを見て、名前は驚きと喜びで目を見開いた。そんな名前を見て、尾形もなぜか目を見開く。
「おい、まさかその格好でいるつもりか?」
「え、ちょっと暑いし……そのつもりでしたが」
外套を脱いだ名前の格好は白地の長袖のTシャツ。現代では至って普通の格好だ。何が良くないのかわからず首を傾げる名前を見て、尾形はため息をついた。
◇
その後、谷垣を小熊の檻から助け出し、尾形と谷垣と名前は湿地を走り続けていた。逃げ出したことがバレるのも時間の問題だろう、急いで逃げなければならない。
「杉元たちを信じて待っても良かったのに……」
「時間が迫ればそれだけ監視も厳しくなる」
お人好しな谷垣はそう言ったが、尾形が言うこともわかる。今朝は運良く監視が寝入っていたが、明日もそうとは限らない。遅かれ早かれいつか逃げるのなら、今朝がベストだっただろう。
「逃げれば罪を認めるようなものだ」
「お前の鼻を削ぐのは俺がやっても良かったんだぜ」
本心か冗談か、尾形が物騒なことを言う。そう言いながらも、尾形は少ない選択肢の中から隙を見てわざわざ準備をしてまで谷垣を助けてくれた。
「あの、尾形さん、逃げる選択をしてくれてっ、ありがとうございます……っ」
走り続けて息も絶え絶えな中、名前は尾形に感謝の気持ちを伝えた。
湿地を走り続けていると、遠くからドォンと銃声が聞こえた。
「銃声だ」
尾形は立ち止まり、銃声が聞こえたほうに視線を向けた。追っ手か、杉元か、それとも真犯人の姉畑だろか。尾形は何か考えている。この銃声は村田銃の音だったのだろうか。やはり名前には教えてもらったところで音の違いはわからなかった。
「いたぞッ! 逃げたふたりだ!」
「見つかった!!」
そうしている間にキラウㇱと村の男達に見つかってしまった。尾形は銃声が聞こえたほうに駆け出し、谷垣と名前も尾形を追って走り出した。
走っているうちに遠くからアシㇼパの悲鳴のような声が聞こえてきた。真犯人に襲われているのだろうか。いや、聞き間違えでなければ『ヘビ』と叫んでいるように聞こえる。
そして遠くに大きな茶色い生き物が見えた瞬間、名前の視界は突然真っ暗になった。誰かに、目を塞がれたのだ。目を押さえる手にぐっと引かれて、後頭部がボスッと何かに当たった。わずかに煙のようなニオイがして、尾形の手で目を覆われたのだと気付く。
「なんてこった……」
珍しく動揺したような尾形の声が聞こえる。続いて「信じられん……みんな見てるか」とキラウㇱの困惑しているような声が聞こえた。なに、なんなの、なにが起きてるの……!? 目を塞がれてしまって何もわからない!!
「やりやがった!! マジかよあの野郎ッ! やりやがったッ!!」
名前がいるこの場は騒然としているのに、遠くから杉元が「姉畑支遁すげえッ!!!」と叫ぶ声が聞こえる。な、なにがすごいんだ!? 同時にヒグマが唸る鳴き声、アシㇼパが焦ったように「やめろぉ!!」と叫ぶ声が響く。なに? 本当になんなの!?
「ねえ! 何が起きてるの!? ねえってば!!」
目を塞ぐ尾形の手をベチベチ叩いても、尾形は何も言わないし目を塞ぐ手を取ってくれることはなかった。
名前が何が何だかわからないうちに辺りは静かになり、尾形が名前の目を覆う手を下ろした時にはすべてが終わっていた。
「安らかな顔だ」
口髭に眼鏡の学者……姉畑支遁が事切れて横たわっている。なぜか下半身が露出されており、名前は色んな意味で直視できなかった。何もわからぬまますべてが終わり、名前は彼の死因が全然わからない。
「ウコチャヌㇷ゚コㇿして力尽きるとは……鮭みたいな奴だったな」
「う、ウコチャ……?」
姉畑はウコチャヌㇷ゚コㇿとやらをしたらしいが、一体なんなのかわからない。だが、次第に最悪の可能性が名前の頭に浮かび始めた。力尽きる鮭……? 待って……『カムイを穢す人間がいる』とインカラマッが言っていたけど、もしかして、穢すってそういう意味……!? 杉元が叫んでいた、姉畑がやったすごいことって……まさか……!!
アシㇼパは純粋に疑問に思っているのだろう。本当に動物を愛していたならどうして最後に殺すのか、どうしてウコチャヌㇷ゚コㇿする前によく考えなかったのか、そうすれば殺さずに済んだのに、と次々と言葉を吐き出す。
「なあ杉元!! そう思わないか?」
まだ少女とも言えるアシㇼパにそう問われ、杉元は言葉を飲み込んだ。
「男ってのは出すもん出すとそうなんのよ」
「オイやめろッ」
「ちょっと尾形さんッ」
尾形が突然とんでもないことを言い出すものだから、名前は顔を真っ赤にして慌てて尾形の口を塞いだ。な、なんてことを言い出すんだッ!!
「名前は何か知っているのか?」
「わ、私ィ!?」
アシㇼパは杉元も尾形ももう何も言わないと思ったのだろう。今度は名前に白羽の矢が立った。アシㇼパの純粋な瞳に名前は動揺する。するべきなのか、ここで性教育を。
「そ、その、事の前と後では分泌されるホルモンの種類と量が違うというか、男性がしゃ、しゃせムグッ!!」
今度は名前が尾形に口を塞がれた。