釧路街。明治末期に人口が増え、道東の拠点都市に成長した街だ。
白石達にははぐれたら釧路の街で待つよう言ってある。杉元達はぐれた白石達を探して街を歩いていた。合流後は壊れた小銃の修理と弾の補充、その他諸々旅の準備をする予定だ。
尾形は杉元が第七師団から奪い取った小銃……三八式歩兵銃とやらを杉元を言いくるめ晴れて我が物にすることができたようでなんだか上機嫌だ。三八式は最新式の小銃らしい。尾形が気球の上で嬉しそうに触っていたのも納得だ。
「谷垣ニㇱパ!!」
インカㇻマッは谷垣の姿を見るやいなや顔を綻ばせて駆け寄った。
「ケガは無いですか? ずっと心配してました」
「おれは大丈夫だ」
谷垣が怪我をしていないか確認するように胸や肩を撫でて触っていた。その様子はなんだかとても親しげで、夫婦のようにも見える。そんなふたりを見た白石と杉元は、え? あれあれ? と谷垣を冷やかし、アシㇼパは勢いよくインカㇻマッを指差し「オイおまえら結婚しろッ!」と煽った。
その後なぜかアシㇼパにジッと見つめられ、名前はわけがわからず苦笑いをこぼした。
◇
ところ変わって、ここは釧路の海。海を見ると気分が高揚するのか、尾形以外の皆で手を繋ぎ砂浜でピョンと飛び上がった。
「尾形さん! 海ですよ、海っ!」
「だからなんだ。海は海でしかないだろ」
名前はひとり離れて海を眺める尾形に駆け寄る。久々の海に心躍る名前とは違い、尾形は静かに海を眺めていた。
「私は内陸に住んでいたので、海に馴染みがなくて。見ているだけでワクワクします」
「そうかよ」
青い空、広い海、白い砂浜。季節は夏真っ盛り。そよ吹く海風が心地よい。ああ、広大な海を見ていると自由を感じる。遠くでチカパシとアイヌ犬のリュウが砂浜を駆け回っている。名前も年甲斐なく少しくらい遊んでもいいかな、という気持ちになってきた。
名前は外套を脱ぎレギンスを膝下まで捲り上げた。靴と靴下を脱いで裸足で砂浜に立つと少し熱くて、急足で海に向かう。服が濡れないよう波打ち際に足首まで浸すと、ひんやりとした水の感触に胸がふるえる。
「うひゃあ、冷たい〜!」
「ガキかよ」
遠くから見ている尾形に悪態をつかれ、名前はむくれて尾形に向かって海水を蹴った。けれど尾形に届くわけがなく、それがなんだかおかしくて笑いがこぼれた。逆に自身のTシャツが濡れてしまい、やっちゃったなあと思いながら白い布地をつまんだ。
「そんな野暮なお召し物で奴らの気を引くつもりか? 悪く言わねぇから止めておけ」
「……はい?」
尾形の言葉に顔を上げると、尾形は眉をしかめてこちらを見ていた。名前は首をかしげる。長袖Tシャツに膝丈のスカート、今は捲り上げているがレギンスも履いていて露出はない。現代ではいたって普通の格好だし、少し薄汚れている程度で見苦しさも感じないはずだと名前は思った。
「この格好、変ですか……?」
「変どころじゃねえぞ、この助平女」
「なっ……!!」
だが明治の人には違ったようだ。けど知らなかったんだから仕方ないじゃないか……! 尾形の『助平女』という言葉に理不尽さを感じながらも、とっさに胸元を両腕で押さえた。
尾形は下ろしたリュックの上に置いた外套を掴み取り、名前の方にずんずんと歩みを進める。
「いいからこれくらいは着ておけッ」
「わぶッ!!」
尾形に投げつけられた外套が顔面に直撃した。外套が海に落ちそうになり、名前は慌ててキャッチした。
名前が海を堪能している間に、アシㇼパ達三人は大叔母の船に乗りエチンケ……海亀を獲りに行ったようだ。
早々に水遊びをやめて尾形の側でアシㇼパ達が乗っているであろう船を眺めていると、ザッザッと砂浜を歩く音が聞こえてきた。視線を向けるとこちらに歩み寄る人影が見えた。遠くからでもわかる赤いアイヌの衣装。
「インカㇻマッさん、でしたよね」
「ええ、こうして話すのは初めてですね。不思議なお嬢さんと、傷の素敵な兵隊さん」
どこか掴みどころのない薄笑みを浮かべているインカㇻマッに、名前は人受けの良い笑顔を向けた。
「わたし、傷のある男性にとても弱いんです」
「……ああ、谷垣さんにも傷がありますもんね」
名前は尾形の頬の傷跡をちらりと見て、すぐに谷垣の名前を出した。揶揄とも取れるであろう言葉を言われても、インカㇻマッは変わらず微笑みをたたえている。
インカㇻマッは『シラッキカムイ』という狐の頭骨を使った占いを生業にしていると聞いている。彼女のどこか胡散臭くも感じる雰囲気は、そこからきているのかもしれない。
「それで、インカㇻマッさんはどうして私に声をかけたんですか?」
「わたし、占いが得意なんです。あなたはとっても不思議な人ですね」
「不思議、ですか」
名前はインカㇻマッのほうがよっぽど不思議だろうと思ったが、名前には『不思議』と言われることにひとつ身に覚えがあった。――名前は百年ほど先から明治に来てしまった未来の人間だということだ。
インカㇻマッが名前の顔の前に手のひらを上にして手を差し出した。指の隙間から狐のような切れ目に見つめられる。占っているのだろうか、なんだか目が離せない。
「あなたの過去はずいぶん遠い未来にあるんですね。過去を見ているのに未来を見ているようで、とても不思議です」
名前は目を見開いた。過去が未来にあるだなんて、普通はありえないことが名前にはありえると思ってしまったのだ。だってそうじゃないか、平成を生きていた名前の過去は平成の時代にあるのだから。
「誰かに、私のことを聞いたんですか」
「わたしには見えるんです」
インカㇻマッはウエインカㇻ……『千里眼』で見えるのだと言う。そんなもの、本当に存在するのだろうか。名前は少し悩んでから、おそるおそる口を開いた。
「……私が百年ほど先の未来から来たと言っても、信じますか」
「まあ、そうでしたか! 信じるもなにも、あなたの不思議さに納得しました」
突拍子もない発言に怪訝そうにしたり疑うこともなく、あっけらかんと笑って納得するインカㇻマッの様子に名前は目を見開いた。今までにない反応に少し動揺する。本当に何か見えてるんじゃないかと思えてきてしまった。
以前の名前なら占いなんて信じなかった。占いはバーナム効果……誰にでも当てはまるような曖昧なことを自分だけに当てはまると捉えてしまう心理現象でしかない、そう思っていた。だが、百年前の明治にタイムスリップするという説明のできない摩訶不思議な体験をしている名前は、占いや千里眼を否定しきれなくなってしまった。
「……私の未来も、遠い未来にありますか。私は、」
「おい、こんな胡散臭い女の話は聞くな」
尾形が名前の言葉を遮り、インカㇻマッとの間に割って入った。尾形はインカㇻマッを一瞥すると名前の手を掴み、沖に向かうアシㇼパ達の乗った小舟のほうへ歩き出した。
◇
アシㇼパ達は無事に海亀を獲れたようだ。解体した海亀を大叔母が住む海岸のコタンに持って行き、海亀を使ったオハウを作った。汁の味付けとして海水を水で薄めて昆布や干し魚で出汁を取り、砂浜で採ったオカヒジキも入れた海の幸いっぱいのオハウだ。
どうやら今回獲れたのはクンネ・エチンケと呼ばれる肉に臭みがない海亀らしい。皆が次々と食べ始める中、名前はオハウが入ったお椀を見つめていた。海亀と言えば、アレだろう。
「ウミガメのスープ……」
「食わねえのか」
「あっ、食べるから私のお椀に箸を伸ばさないで!」
食いしん坊尾形にまた食べられてしまうと思った名前は、慌ててお椀を尾形から遠ざけた。油断も隙もありゃしない!
「じゃあなんで食わねえんだよ」
「ウミガメのスープ、という水平思考を活用した代表的な問題を思い出しまして。問題を出題された後、出題者に『はい』か『いいえ』で答えられる質問をして答えを導き出すんです」
――ある男が海の見えるレストランでウミガメのスープを注文した。スープを一口食べた男はシェフに「これは本当にウミガメのスープですか?」と尋ねた。「正真正銘ウミガメのスープです」とシェフが答えると、男はレストランを飛び出して崖から飛び降りて自殺した。それはなぜ?
「で、答えは?」
「考える気が全くありませんね……?」
「ねえよ」
考える気はないようだが、答えは気になるらしい。……けれど、この問題の答えはそれなりにショッキングなものだ。名前は少し悩み、食欲がなくなるかもしれないけれどと確認した上で尾形にだけ聞こえるように小声で答えを囁いた。
「男は海で遭難したことがあったんです。そこで仲間に『これはウミガメのスープだ』と嘘をつかれて人肉を食べて生き延びました。そして男は、本物のウミガメのスープを食べて真実を悟って絶望したわけです」
「なんだよそれ。んなもんわかるかよ」
「簡単にわかったらつまらないじゃないですか。質問できるから頑張れば正解に辿り着けるんでしょうね。まあ、やったことないですけど」
「やったことないのかよ」
名前は話し終えると海亀の肉を口に運んだ。うん、臭みがなくてあっさりしていて美味しい。アシㇼパがいちから調理しているところを見ていたので、これは正真正銘の海亀のスープだ。
「これで家永がいつ人肉混ぜてもすぐわかるな」
「や、やめてくださいよ」
「ハハァ、冗談だ」
「笑えない冗談はよしてくださいっ」
名前は少し食欲が失せたなあと思いながら、スープをすすった。うん、美味しい。