建てつけが悪い障子が勢いよく開く音に驚いて、名前は飛び起きた。あれ、ここは……そうだ、バッタの大群に襲われて番屋に避難したんだった。淡い光が射す縁側に視線を向け、朝焼けが綺麗で眩しくて目を細めた。……静かな朝だ。いつの間にか寝ていたようで、その間に無数のバッタもどこかに行ってしまったようだ。
縁側の障子を開けた尾形が振り返り、目が合った。その瞬間、昨日のふしだらな出来事を思い出して名前は勢いよく顔ごと目を逸らした。空のお椀が視界に入る。どうやらあの取り分けたラッコ鍋はいつの間にか尾形が食べたようだ。
「…………」
「………………」
尾形は覚えているのだろうか。なんて言ったらいいかわからずひたすら畳の目を数えていると、尾形は静かに隣の部屋に行ってしまった。
あのおかしな身体の熱さはもうない。けれども昨夜の記憶に顔が熱くなり、名前は両手で頬を押さえて冷めろ忘れろ思い返すなと自身に強く言い聞かせた。
しばらくして、襖が開く音が聞こえて肩が跳ねた。おそるおそる視線を向けると、尾形がふたりの外套を持って立っていた。
今度は尾形にフイっと目を逸らされてしまった。これは、覚えていそうだ。気まずさを感じているのは尾形も一緒なのだろう。
「着ろ」
尾形は静かに言うと、名前の顔面に外套を投げつけた。
尾形に続いてそろりと座間に向かうと、気持ちよさそうに寝ている谷垣以外の三人はせかせかと身支度をしていた。夜通し相撲を取ってたかもしれない彼らも、なんだか気まずそうに見える。
彼らは名前に気がつくとこちらを見て、ギョッとした。……え、なに、なんなの。
「うわ、え、名前ちゃん……? お、尾形ちゃん……? うそぉ……」
なぜか動揺している白石に震える手で指差される。何が何だかわからなくて同じく名を呼ばれた尾形に視線を向けるも、スッと顔を逸らされてしまった。……え、なに、本当になに?
白石は「だから俺はヤバイって言ったのに……」とかなんとか言っている。杉元は「オイ尾形ァ!」と焦りを含んだ声をあげたが、尾形は真顔でそれを無視していた。尾形は名前どころか誰とも目を合わせようとしない。なんだか尾形の様子がおかしい。
「それ、アシㇼパには見せられないんじゃないか……?」
「……はい?」
「あの……名前さん。言いづらいんだけど、首のソレ……隠したほうがいいと思うよ……?」
「……首?」
キロランケと杉元がおそるおそる名前に言う。『それ』とか『首』とか言われてもなんのことかわからず、名前は確認するためにスマホのインカメラを立ち上げ……絶句した。噛まれたような内出血と、赤い跡がぽつぽつと首元に散っていた。虫刺されなどとすっとぼけられるもんじゃない。まず歯型がしっかり残ってる時点で虫なわけがない。
「ひッ、ぎ……ギャアァァァア――ッ!!!」
パニックを起こした名前は叫び声をあげ、勢いよく杉元のマフラーを剥ぎ取り自身の首に巻いた。杉元が「チョット名前さんっ!」とかなんとか言っているが、それどころじゃない。どうして、どうしてこんなことにッ! 誰がやった? 犯人は? そんなのひとりしかいない!!
「おッ、尾形さんッッ!!!」
大声で尾形を呼びかけ咎めるような視線を投げたが、尾形は明後日の方向を見ている。うーわ、ぜんッぜん目が合わない!! 尾形の顔を覗き込もうとしても、スッと顔ごと逸らされてしまう。なんなんだ、埒があかない!
「せ、せめて、皆に見られる前に言ってくださいよぉ……!」
「………………」
「怒らないから、隠さずに言ってくださいよ……!」
名前がそう言うと、やっとこ尾形と目が合った。尾形はジッと名前を見ている。
「……ソレ以外は何もしてない」
やっと話したと思ったらこれか。尾形の言葉に安心していいのか、呆れるべきか、やっぱり怒るべきか。名前はもうどうしたらいいのかわからなくなって、顔を手で覆ってハァ〜〜とため息を吐いた。
「なんなんですか、ラッコのせいですか」
「……ラッコ? まさか、あれはラッコの肉だったのか!?」
「キロランケさん、ラッコ肉について何かご存知ですか……?」
アイヌであるキロランケはラッコの肉について何か知っていそうだ。名前が問いかけると、キロランケは気まずそうに頭を押さえて話し出した。
「アイヌの言い伝えでは、ラッコの肉を煮るときは必ず男女同数で部屋にいなければならないと信じられている。……ラッコの煮える臭いは欲情を刺激し、ひとりでいては気絶するほどだと言われているからだ」
「………………え、うそォ」
名前は信じたくなくて間抜けな声をあげたが、キロランケは静かに首を横に振った。……そうだ、もう、全てをラッコのせいにしてしまおう。
全ての元凶であるラッコを持ってきた谷垣は寝かせたまま、五人は番屋を出た。外の空気は澄んでいるのに、この場の空気は気まずさで満ちている。
「……誰にも言うなよ?」
「うん、わかってる」
「絶対ですよ、絶対言わないでくださいね……!」
おそらく一番やらかしている……というより一番やらかされている名前は、念を押すように絶対と繰り返し言った。
「あと、首巻き返してほしいな……?」
「……あ、はい、すみません」
「いや、いいよ……」
そういや杉元からマフラーを強奪したままだった。名前はリュックからいそいそとストールを取り出し、杉元に彼のトレードマークとも言えるチェックのマフラーを返した。そしてスマートフォンのインカメラで念入りに確認しながら、ストールをしっっかりと首に巻きつけた。
◇
アシㇼパ達はコタンに戻っているだろうと予想したものの、そこにはアシㇼパもインカㇻマッもいなかった。
もしかしたらアシㇼパは杉元達がハマナスの実を収穫していたことを聞いてそこに向かったかもしれない。そう思った杉元達は、二手に分かれて昨日ハマナスの実を収穫した辺りでアシㇼパを探した。
名前は尾形とふたりで周辺を歩いているのだが……どうも気まずい。全てはラッコ鍋のせいだと思っても、なかなか気持ちの整理がつかない。けれども名前はこの気まずい空気をどうにかしたかった。
「あの、尾形さん。私、気にしてませんからね……? 仕方ないです。全部ラッコが悪いんです。ラッコ鍋のせいです」
様子をうかがうように尾形の顔を覗き見ても、少し恥ずかしさは感じるものの今はもう変な気持ちにはならない。そのことに名前は心底ほっとした。……やっぱりラッコが悪いのだ。全てラッコのせいにするべきなのだ。尾形は何も悪くない。
「ラッコ鍋のせい、か」
「そうです、そうです。さあ、気を取り直してアシㇼパちゃんを探しましょう!」
尾形はどこか煮え切らない様子だったが、名前は無理やり気持ちを切り替えてアシㇼパを探すために身をひるがえした。気持ちを伝えてダメなら時間が解決するのを待つしかないだろう。
すると突然、背後からストールを掴まれグッと引き寄せられた。しっかり巻いていたストールが崩れ、尾形は露わになった名前の首元に顔を寄せる。首に何かが這うような感覚がして、名前は驚いて身体をすくめて振り向いた。尾形の舌が一瞬見え、首を舐められたのだと悟る。名前は顔を真っ赤にして首を押さえた。
「な、なんで、どうして……っ!」
尾形は戸惑う名前に顔を近づけ、口づけを落とした。唇が一瞬だけ触れて離れていく。
「これはラッコ鍋のせいじゃない」
尾形はそれだけ言うと、名前の手を掴みずんずんと歩き始めてしまった。名前は手を引かれるまま歩く。
……なんだったんだ、今のは。どうしてこんなことをするのだろう。せっかく、ラッコ鍋のせいにしたのに。「ラッコの鍋のせいじゃない」ってなんなんだ。今もあの時も違う、とでも言いたいのか。なんで、どうして。
尾形は、私のことが……ううん、そんなわけない。そんなはずない。
だって、親にも愛されない人間が他の誰かに愛してもらえるわけないじゃないか。
愛されることを知らない名前には、悲しいことにそうとしか考えられなかった。名前は尾形の考えていることが何ひとつわからないまま、困惑した目で尾形の背を見つめていた。