次の日、杉元一行はフチの妹の息子から聞いた近くの温泉旅館を訪れていた。宿ではない、旅館。ただの旅館ではない、温泉旅館だ。しかも屈斜路湖にある小さな半島の、秘境のようなロケーション。泥火山からガスが吹き出す音、周囲に漂う硫黄のにおい。
「〜〜っ、温泉ッ!!」
「療養や観光で来たんじゃねえんだぞ」
「はい、すみません」
名前は密かに温泉旅館を楽しみにしていたのだが、旅館を目の前にして隠していた気持ちが溢れ出てしまった。尾形に釘を刺され、しゅんとする。……わかってる、これは情報収集のためだ。わかってる、けど、どうしてもワクワクしてしまう。旅館に向かう途中に寄った町で、名前はちゃっかり湯浴み着代わりの襦袢や手拭いも購入していた。奮発して新しい石鹸も買った。それくらい久々の入浴が、天然温泉が楽しみだったのだ。
◇
夕食後、名前は昼に購入した入浴セットを前にソワソワしていた。温泉に早く入りたい。……けれども、どうやらこの田舎の小さな旅館の温泉は混浴らしい。町で聞いた通りだ、湯浴み着を買っておいて本当によかった。とはいえ混浴禁止令も出ているので、脱衣所はなんとなく男女で分かれていて岩風呂も奥が女性専用になるように衝立が立ててあると旅館の方から聞いた。……でも、混浴は混浴だ。
アイヌに入浴する習慣はないため、アシㇼパとインカㇻマッを誘って一緒に入るのも難しい。気持ち程度に分けられた混浴風呂に女ひとりで入る勇気が名前にはなかった。
「男性方は日が落ちて暗くなった頃に入るそうですよ。白石さんの刺青が目立ちますからね」
「え! それなら、まだまだ先ですかね?」
「そんなに温泉に浸かりたいなら、いま行ってきたらどうだ? 私たち以外の客はいないみたいだしな」
「うん、そうします!!」
インカㇻマッとアシㇼパにそう言われ、名前は目を輝かせた。名前が入浴している間、アシㇼパは杉元が泊まる客室に行くようだ。それならアシㇼパが男性陣を足止めしてくれるだろうし、ひとりのんびり温泉を堪能できるだろう。チャンスは今しかない! 名前は足早に温泉へと向かった。
◇
「はあ〜〜、気持ちいい〜〜」
思った通り、温泉には誰ひとりいなかった。まるで貸切り風呂、なんて贅沢なんだ。身体の汚れをしっかりと洗い流し、天然温泉で心も洗われる。万が一のことを考えて湯浴み着を身につけたものの、これなら何もまとわず入浴してもよかったかもしれない。
あまりの心地よさに時間を忘れてゆったりと湯に浸かっていると、脱衣所から物音が聞こえて名前はハッとした。……しまった! あまりの心地よさにのんびり浸かりすぎたっ!!
戸の向こうから聞き覚えのある声が聞こえる。どうやら男性陣が来てしまったようだ。明治では珍妙な名前の衣服は、脱衣所の隅に隠すように置いていた、それもまずかったかもしれない。おそらく男性陣は名前がまだ岩風呂にいることに気づいてないだろう。いや、気づいてたらワイワイと入ってくるわけがない。
慌ててももう遅い。脱衣所への戸はひとつ、今さら急いで湯から上がったところで絶対に鉢合わせてしまう。もうここから出れないのならば……と、名前は岩風呂の奥に進み衝立の端に身を隠した。
引き戸が静かに開き、男性陣の話し声とともに湯をかぶり岩風呂に入る音が響く。衝立で男女で分けてあると言っても、これは気遣いと暗黙の了解で成り立っているものだ。白石あたりが興味本位で衝立の裏側を覗きにくる可能性がなくもない。お願い、誰もこっちにこないで、と念じながら肩まで湯に浸かり息を潜める。……だが、無情にもザブザブと奥へ進む水音がこちらに近づいている、気がする。人数も人数だから誰かが衝立付近まで来ているだけだと思いたかったのだが、水音はどんどんと近づく。
すぐ近くで水音が止みおそるおそる視線を横に向けると、小銃を持つ尾形と目が合った。当たり前だがここは風呂、当たり前だが尾形は何も身にまとっていない。不幸中の幸い、湯煙で視界が悪い。おっかなびっくり視線が下にいってしまう前に、名前は慌てて顔ごと視線を逸らした。
「…………」
「……………………」
しばし、間。な、何か言ってくれ。いや、何か言ったら皆にバレてしまう。何も言ってくれるな……! 動揺と緊張、そして恥ずかしさで心臓がバクバクと跳ねる。
「ちょっと尾形ちゃん! そっち女湯っ!!」
「……チッ、怪しいヤツがいねえか確認してんだよ」
「なぁ〜んだ。てっきり女湯を覗き見してるのかと思っちまったぜ」
「誰がそんなことするか。テメェと一緒にすんな」
白石に茶化されるように言われ、尾形は苦言を吐いた。ザバザバと水音が鳴り、どんどん音が遠のいていく。
なぜ尾形が、と名前は思ったが、どうやら尾形は用心深く岩風呂に不審な人物がいないかを確認していたようだ。しばらくして視線を横に向けてみるともう尾形の姿はなく、尾形が誰にも言わずに去ってくれたことに名前は心底ほっとした。
しかしすぐさま背後からザバッと湯に浸かる音が聞こえ、名前の肩が跳ねた。すぐ近くから、尾形が息をつく声が聞こえる。簡易的な衝立で隔てたすぐ後ろに、尾形がいる。名前が動揺して衝立がカタリと揺らしてしまうと、フッと笑い声が聞こえてきた気がした。また変に緊張してしまい、名前はどうにも落ち着くことのない胸をおさえて深々と湯に浸かった。
しばらくして、男性陣は情報の共有を始めた。どうやら杉元はあんまさんから周辺の温泉宿が鉱夫のたまり場になっていたこと、廃屋になった旅館が森に点在していることを聞いたようだ。新月まであと二日、明日からは盗賊の隠れ家探して忙しくなりそうだ。
すると突然、周辺からかすかにカンカンと下駄を鳴らすような音が聞こえてきた。カンカンカン、と音は鳴り止むことなく続く。ザバリッと大きな水音が鳴ると同時に、谷垣と杉元が声を上げた。
「何だお前ら!」
「その恐ろしい形の棒をどう使う気だ!?」
衝立の反対側が騒々しくなり、不穏な言葉が聞こえてきた。何が起きたか瞬時に把握できずおろおろと辺りを見回していると、衝立の陰から棒状の武器を持った男たちが現れた。名前は目を見開き、咄嗟に口を押さえて悲鳴を押し殺す。目を隠している……もしかして彼らは盲目の盗賊なのでは!?
「こいつが都丹庵士だッ!!」
白石が叫んだ瞬間ガラスが割れるような音が響き、岩風呂を照らす灯りが全て破壊されたようだ。一瞬で辺りは真っ暗になり、何も見えない。見えないことは相手も一緒なのに「こっちからは丸見えだぜ」という言葉が聞こえ、名前は恐怖で震え上がった。名前の存在が盲目の盗賊たちにバレているかはわからない。まだ見つかっていない可能性にかけて、名前は声も音も出さぬよう小さく縮こまっていた。
都丹は声の主が白石だと気づいたようだ。どうやら都丹は白石たちが鉱山会社と取引して盲目の盗賊を探していると思っているらしい。白石が無関係だと事実を伝えて取引を持ちかけたが、都丹にその気はないようで「イチかバチかで撃ちまくってもいいぜ」というおっかない言葉が聞こえてきた。
次の瞬間、犬の威嚇する鳴き声が耳に飛び込み、チカパシが「リュウの声だッ!」と叫んだ。同時にザバッ! ザバザバッ!! と立ち上がる音が鳴り響く。
「ひとまず森へ逃げろッ!!」
白石の叫び声に名前はハッとした。逃げるなら、今しかない。でも、逃げるって、どこへ。勢いよく立ち上がったものの、足がぴくりとも動かない。一寸先も見えない暗闇の中、名前は何もかもが恐ろしくて動けずにいた。
「こんな傷じゃ俺は殺せねえぞぉ!!」
「ヒッ……!」
強烈な打撲音とともに杉元の叫び声が聞こえ、名前はひきつるような声を出した。次の瞬間、誰かに身体を触れられて頭の中が真っ白になってしまった。
「俺だ」
「……っ! 尾形さん……っ?」
この声は間違いなく尾形だ。声が聞こえたほうに手を伸ばす。何かに……おそらく尾形の体に手がかすめた瞬間、すぐさまその手を掴まれ強く引かれた。
「ついてこい」
「は、はい……!」
怒声、銃声、騒がしく水音が鳴り響く中、名前は尾形に手を引かれるがまま森へと駆け込んだ。