08

 病室に入る前に、周りを見渡し他に人がいないことを確認し、外套を脱いで手に持った。服を隠す必要がないのならば、上着を着たまま入室するのはマナー違反だと思ったからだ。本来ならば病院に入る前に脱ぐべきなのだが……事情があるので廊下でこそこそ脱ぐことを許して欲しい。
 ハア、とため息を吐く。……気まずい。

「失礼します」

 小声で断りを入れそろりと中に入る。病室は静かだった。もしかしたらまだ眠り続けているのかもしれない。
 この時代に鎮痛剤として使われているモルヒネの副作用のひとつに眠気がある。骨折した顎の激痛を抑えるため用量が多く眠気が強いのか、尾形の意識がなかなか戻らず話を聞くことができないと少し前に鶴見が嘆いていた。
 副作用とはいえ寝ているところを起こすのは忍びないと思い、できるだけ静かにベッドに近付く。そっと様子を伺うと、スースーと寝ているようだった。できるだけ音を立てぬよう、外套を椅子の背もたれにかけ荷物を足元に置き、お見舞い品の生菓子をテーブルに置く。名前がフゥと一息ついて尾形のほうを見ると、真っ黒な瞳と目が合った。

「えっ!」

 起きてる! 意識がある!! と名前が驚いていると、尾形は左手の人差し指を口元に近付け、しーっとジェスチャーをした。そんなに大きな声を出しただろうか?

「……内緒?」

 少し考えてから、真似して人差し指を立てて口に当てて小声で言ってみた。尾形は左手を器用に使いゆっくり起き上がると、こくりと頷いた。
 名前は目をぱちくりさせて尾形を見つめた。モルヒネのせいか寝起きだからか、少しぼんやりしているように見える。頭にぐるぐると巻かれた包帯はそのままだが顔の腫れはだいぶ引いたようだ。思いの外端正な顔立ちをしていてドキリとした。名前は面食いではない、決っして。見慣れぬ整った顔が近くにあったら誰しも緊張するはずだ。

「……あっ! そういえば名乗っていませんでしたね。名字名前と申します。よければ名前と呼んでいただけると有難い、です。……たいした理由はないんですけど、はは。あ、今は喋らなくても大丈夫ですからね? 顎が痛むでしょう?」

 緊張した気持ちを誤魔化すように、慌てて自己紹介をした。少し早口だったかもしれない。
 尾形はゆっくりと左手人差し指を名前に差し出した。指文字かと思い手のひらを差し出すと、カタカナで名前と書かれた。名前を書かれた手のひらと心がじんわりむずがゆい。

「ふふ、そうです。……ありがとうございます」

 律儀に名前で呼んでくれたことが嬉しくて、顔を綻ばせてお礼を言った。名前が文字を書かれた手のひらを見つめていると、尾形はその手首を掴みグッと引き寄せさらさらと指文字を書き始めた。おとなしい人だと思っていたが、案外強引な人なのかもしれない。そう思いながら書かれる文字をしっかり読み取るために自身の手のひらと尾形の指先に意識を向けた。

「オ、ガ、タ、ヒ、ヤ、ク、ノ、ス、ケ……」

 おがたひゃくのすけ。尾形百之助。どうやら名乗ってくれたらしい。名字は知っていたので、すぐに彼の名前だとわかった。
 尾形さん? 百之助さん? どう呼ぼうか少しばかり悩んだが、まだ名前で呼び合う仲でもないだろう。

「尾形百之助さん、ですね。教えてくれてありがとうございます、尾形さん」

 再びお礼を述べて名字で彼の名を呼ぶと、尾形はゆっくりと瞬きをした。



 ――ナゼココニ。

 指文字で尾形に問われ、名前は苦笑いで首を傾げた。うーん、どこから話すべきか、何から話すべきか。

「鶴見さんと月島さんに頼まれてお見舞いに。私、第七師団に保護されて、兵舎でお世話になっているんです。なぜか約百年先の未来から来てしまったので、帰るところがなくて。それで、対価として釣り合うかは分からないんですけど、鶴見さんがお暇な時に茶話会をして未来のことをお話ししたりしています。あ、いきなり未来から来たなんていっても信用できませんよね……」

 尾形はじっと見つめてくる。ですよね〜、信じられませんよね〜。リュックのポケットから財布を取り出し、中から五百円硬貨をつまみ取り尾形の手のひらに乗せた。二代目五百円硬貨の見る角度によって文字が見え隠れする仕組みは世界初の偽造対策だ。この時代にはない加工技術だろう。どこで誰が見ているかわからない兵舎外であれこれ文明の利器を出すのは抵抗がある。ひとまずこれで納得してほしい。

「他にも色々お見せしたんですけど、鶴見さんは信じてくださりました」

 あなたの上官が信じたのだから信じてください、という気持ちを込めて言った。尾形はしばらく硬貨を眺めていたいたが、不安げに見つめる名前と視線を合わせると五百円硬貨を握り込みこくこくと頷いた。気のせいでなければ、少し口角が上がっていて笑っていたように見えた。

「あっそれで、なんでここにいるか……でしたよね? 今日は人が来てて……なんでしたっけ、ふじみの……す、す……」

 尾形がピクリと反応した。名前の手首を掴み引き寄せる。またか。名前が手を広げると、手のひらに『スギモト』と書かれた。

「そう! スギモト! 不死身の杉元! 正確には不死身の杉元と思われる人……? 顔にカタカナの『サ』みたいな大きな傷跡がある男です。その男が鶴見さんに尋問されてたみたいなんです。それで、執務室に茶菓子を届けたあとにお見舞いに行ってこい、と言われまして」

 尾形は黙って話を聞いていた。口が開けないのだから、相槌や返事ができないのは当たり前なのだが。

 尾形さんを襲ったのは不死身の杉元なんですか?

 ……なんて聞きそうになったが、私が確認すべきことではないだろうと名前は思い、聞くのをやめた。ただ、手のひらに書かれた『スギモト』という名が聞きたかったことの答えなのかもしれない。

「扉の前までは月島さんが一緒にいたんですけど、これからやることがあるからとひとり置いてかれてしまいました。あはは……女がいては邪魔だからと兵舎から追い出されたのかもしれません。それで、誰か迎えがくるまでここにいないといけないんです。私のことはいないものだと思って寝ていらしても構いません……。申し訳ないんですけど、ここにはいさせてください……。」

 名前が困り顔でお願いすると、尾形はゆっくり頷き左手を上げ――それに気付いた名前はまた手を掴まれ引っ張られる前にスッと手のひらを差し出した。しかしなかなか文字が書かれない。あれ、違ったかな……と思い尾形のほうを見ると、視線がかち合った。

「指文字かと思って手を出したんですけど、違いましたか?」

 そう問うと尾形はゆるゆると首を横に振った。尾形が手のひらに視線を向けたので、名前も手のひらに意識を向ける。ミ、ラ、イ、ノ、ハ、ナ、シ、ヲ。そう手に書かれた。

「未来の話、ですか」

 尾形は頷く。興味本位か、鶴見の腹心らしく情報を聞き出したいのか。尾形があいかわらず無表情過ぎて、名前には本意が全く読み取ることができなかった。まあ、鶴見と話している時に隣の部屋に誰かがいることも多いし、少しくらい話しても問題ないだろう。

「では、見舞い品の上生菓子でも食べながらお話ししましょうか」

 月島に持たされた小包を手に、名前は微笑んだ。
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