17
それ以上仕事を続けられる気分でもなくて、パソコンを落とし会社をあとにする。
肩を落としながら、帰り道をとぼとぼと歩く。
空を見上げると、今日は頭上に満月が輝いていた。
「月が綺麗だなぁ…」
ゆらゆらと視界が揺れる。
つぅ、と頬を涙が滑り落ちていく。
『あんたみたいな人と関わるから、うまくいかないんだ。
あんたがすべて足引っ張ってるんだよ。あんたがいるから、いけないんだ』
蘇る酒井くんの声。
そのまま、どんどん言葉にのまれてしまいそうになって、僕は乱暴に目元を服の袖で拭った。
いらない。その言葉が、僕を臆病にした。
初恋の人に捨てられてから、僕は必要以上に恋した相手に依存し、顔色を伺ってきた。
いらない。其の一言を聞きたくなくて。
でも、重すぎる気持は結局相手の負担になって、最後はさよならと言われる。
どうして、こんなに空回りしてしまうんだろう。
恋も、人生も。
「宮沢さん…!お疲れ様です!今帰りですか?」
聞き慣れた声に、振り返ると息を切らした夏目くんがいた。
「夏目君…」
夏目くんは僕の顔を見るなり、大丈夫ですか?と険しい表情で、僕の肩をつかんだ。
目元を拭ったんだけど、潤んだ瞳で泣いているのがバレバレのようだ。
誰に泣かされたんですか?と詰問する夏目くんに、なんでもないから!っと必死に誤魔化した。
まさか、言えないだろう。
自分のダメさに泣いていたなんて。
「…よければ今日、これからお家にお邪魔しても大丈夫ですか?その…なにかあったなら、俺で良ければ聞きますし。
一人でいるよりも気が紛れるかもしれません」
「…今日ですか?」
「あ、やっぱり駄目でしたか…。最近宮沢さんに会えなかったので、久し振りに呑みたいなぁと思ったんですが…」
「い、いえ…!大丈夫です。
誰にも気にすることない一人暮らしですから」
「じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔しちゃいますね。
…あぁ、今夜も、月が綺麗ですね…」
夏目君は、月を見上げて目を細めた。
今日は見事な満月だ。
澄んだ空に、星々と月が輝いていた。
「そうですね…。僕も、同じようにさっき呟いていました。
月が綺麗だなぁ…って。
君と知り合ってから、夜空を見上げて綺麗だなと思うことが増えた気がします」
「俺と知り合ってから…ですか。光栄ですね」
夏目君は視線を合わせ、柔らかく微笑む。
優しく包み込むような笑顔に、鼓動が早くなる。
夏目君に会う前はどん底に落ち込んでいたのに、面と向かって話せるのが不思議だ。
椎名先生のことで気まずくて、顔も合わせられないと思っていたのに。
夏目くんにあってしまえば、彼の隣で、星空を眺めて綺麗だと思う余裕すらある。
「夏目君って不思議な人ですね…」
「不思議ですか?」
「はい。僕さっきまで、すっごく落ち込んでいたんです。色々なことが重なって。自分なんて全然駄目だダメだ…って。
だけど夏目君と喋っていたら少し気持ちが軽くなりました」
「そうですか…。それは良かったです。
落ち込んでいたことって相良先生のことで…ですか?」
「ええ、まぁ…それもあるんですが、もっと…色々なことで」
「色んなこと?」
「僕も君のように頼れる人間になりたい。
しっかりしたいって思っているんですけどね…。
現実はうまくいかないみたいです。空回りばかりで」
君みたいになりたいと思うのに、うまくいかない毎日ばかりで。
「……しっかりしなきゃ…って思うたびにしっかりできてない自分にがっかりしてしまって……。
全然理想の自分にはなれなくって…、そんな自分が惨めで情けなくて。先生に呆れて捨てられたってしょうがないなって…。
いっそのこと、会社辞めちゃおうか…なんて弱音ばかり出てきて…」
言っているうちに、また涙腺が緩んでくる。
情けない。
立ち止まってゴシゴシ目元をこすっていると、擦っていた腕を夏目君に取られた。
「…夏目君…?」
「宮沢さんには、宮沢さんの良さがわかる人がいますから。
そんなに必死に頑張って、傷ついて落ち込まないでください。
少なくとも俺は…あなたの味方です。俺は、貴方に会社をやめてほしくない。毎日貴方と顔を合わせていたいです」
「夏目くん…」
「宮沢さん、俺は…あなたが…」
ピルルルル。
夏目くんの会話を遮るうように、電子音が鳴った。
どうやら、音の出処は夏目くんらしい。
夏目くんは、ポッケからスマートフォンの取り出して、画面を見るなり苦々しく舌打ちし、スマートフォンをポッケにいれなおす
「あの、俺は」
ピルルル。
「だから…」
ピルルル。
「夏目くん…、あの、出てもいいよ」
一向に鳴り止まない電話音に対しそういえば、夏目くんはすみません、と謝り電話に出た。
「…なんですか、こんな時間に。
…え、また酔っているんですか?だからってなんで…。
いい加減にしてくださいよ…。
って、ちょっとまってください。
俺いいって言ったわけじゃ…おい、ちょっとま…。
切りやがった…」
苦々しくスマートフォンを見つめる夏目くん。
夏目くんはスマートフォンをポッケに入れ直すと、僕にすみません…と、詫びた。
「いえ…。夏目くんらしからぬ言い方で少しびっくりしちゃいました。お相手、苦手な方なんですか?」
「…例の従兄弟です。俺のトラウマの…」
従兄弟さん…。
それってこの間話していた?
あれ、でもその尊敬できる従兄弟はもういないって…。
「唐突に会いにこいって言われまして…。
断ったんですが、そしたら、俺のほうから会いに行ってやるって。止めたんですけど、多分ムリですね。あれは…」
「行動力のある従兄弟さんなんですね…」
「ええ。振り回されるこっちとしたら、たまったもんじゃありませんよ…」
「ははは…」
強引な従兄弟…か。
『もうその人はいませんから…。
俺が心の底からかなわないと思った従兄弟様は…』
あの時の夏目くんの言葉。
僕はてっきりその従兄弟さんがなくなったものだと思っていたけれど、違ったようだ。ちゃんと実在するらしい。
なら、夏目くんはなんでいなくなったなんて、僕に言ったんだろう。
「夏目くん、あの…」
「ってわけで、今日の飲み会はだめそうです。
すいません。
その代わりと言ってはなんですけど、2日後の日曜日、俺とデート、しませんか?」
「え…デート?」
夏目くんのセリフに、目を瞬かせる。
都合のいい幻聴かな…と思っていると、夏目くんは「デートです」と言葉を重ねた。
「宮沢さんも落ち込んでいるようですし、俺も俺で従兄弟の相手でこれから精神やられてしまうので。
落ち込んでいるもの同士で一緒に慰め合いましょう、ね?」
有無を言わせないような、笑顔で微笑みかける夏目くん。
そんな笑顔で言った言葉に断ることはできず…。
椎名先生との夏目くんの間柄も聞くこともないまま2日後、夏目くんとデートすることになった。