日が昇る前に利弥の家から出た菜月は、ボストンバック片手にバス停でバスを待っていた。
スマホで時刻を確認しつつ、ラインアプリを開き通知を確認する。
そろそろ利弥が起きだす時間なのだが、利弥からの通知はなかった。

菜月は小牧へ利弥の家から出たことと、もしかしたら今後世話になるかもしれないことを書いて、再びスマホをポッケにしまいこんだ。

「今日は旅になるかもなぁ…」

菜月はひとりごちて、悴む指先にはぁ…と息をふきかける。

2月は、もしかしたら一年のうちで一番寒いのではないだろうか。
節分を終え暦の上では春なのに、今日は一段と気温が冷え込んでいた。耳まで寒さで冷たく赤らんでいる。
天気予報だと50パーセントの確率で、これから霙か雪が降るらしい。
今日くらいは珍しく天気予報もあたるかもしれないな、と分厚い雲で覆われた空を見上げた。


 菜月が待っていたバスは、時刻ピッタリにバス停に到着した。
駅直通のバスは、菜月の他に数名の乗車客が乗っている。
菜月は1番後ろの窓際の席にいくと、持っていたボストンバックを荷物棚におき、窓枠に肘をつきながら移り変わる風景をぼんやりと眺めていた。

時間が経てば経つほどに、人通りは少なくなっていき、緑が多くなっていく。
慌ただしく会社に行く人間や学校へ行く子供達を見つめていると、まるで自分が現実から離れているような感覚に陥った。

テレビで慌ただしい日常風景を見ているような、自分とは一線をひいて別のところから見ているような、そんな感覚である。


利弥の家を出て、これからどうするのか…菜月には考えなければいけないことは沢山あったのだが、あえてそれらは脳の片隅に押しやって、今日くらいと考えを放棄した。


昼過ぎになると、バスは終点駅へ到着し、菜月もバスから降りた。
“目的地”までの道のりを検索するためスマホを取り出すと、小牧からのラインの返信がきており、「わかった」とだけ書かれていた。


駅の近くで花を買い、また別のバスに乗る。
関東でも田舎の駅から、バスに乗って1時間。
菜月が目的地についたのは、15時を過ぎた頃であった。

駅からだいぶ離れた、田舎の霊園。
菜月が赴いたのは、香月が眠っている墓であった。
近くにある、と小牧からの聞いていたのだが、交通の便が不便な場所で近くのわりには時間がかかってしまった。


「日下家…っとこれだね…」
何十と墓が立っている中から、日下家と書かれた墓を見つけ出した。
日下家とかかれた墓石には、香月の名前と享年も刻まれていた。
墓場は辺りの墓石に比べると、綺麗に掃除されている。
花瓶には、色とりどりの花が生けてあり、小脇には250ML日本酒も置いてあった。
最近、菜月以外にも、ここに赴いていたんだろう。
檀家さんが片付けていないのをみると、おそらく2月中にきたのだろうと推測できた。


「かっちゃん、数年ぶりだね。
来るのが遅くて、ごめんね」

菜月は、抱えていた花束を墓の前に置くと、そのままその場にしゃがみ込んだ。
ここに来るまでは香月に色々と報告したいことがあったのに、実際に香月が眠る墓にきたら、それらの言葉は全て消えてしまった。
墓を前にこみ上げるものが多すぎて、全てをすぐに頭で処理できない。
口を開いても言葉にならずに、またすぐに閉じて。

なにか喋ろうとまた開きかけるのだけれど、結局言葉にならなくて閉じることになって。
菜月は、なにをいうこともなく、ただじっとその場に何時間もしゃがみこんでいた。

そうこうしている間に、空からは雨が降り出してきた。
ポツポツ、と振っていた雨は、あっという間に滴は大粒になり、激しく地面を叩くほどの大雨になった。
冷たい雨は霙も混じっており、肌に落ちると刺すような冷たさがあった。
コートを羽織っていたものの、雨は服にしみ込んでいき、この寒さでみるみるうちに菜月の体温は奪われていく。
雨が降る予報は見ていたものの、もっと遅くに降るものだと思い込んでおり菜月は傘は用意していなかった。
長々と続いた雨はやがて、霙交じりの雪へと変わっていく。

パラパラと粉雪が、あとから後から舞い落ちて、菜月の身体に降り積もっていく。

「なんだか、こうやって雨に濡れるの懐かしいな…。誰もいない場所で、1人蹲ってるの…」

懐かしいと思うのは、香月が菜月を迎えに来た日である。
あの日も、こんな風に土砂降りだった。
周りはどんよりとした空気で覆われていて、誰も歩いている人もいなかった。
寒さで蹲っている菜月に、香月は息を切らして迎えにきてくれた。
あの日も春にしては肌寒い気温だったと記憶している。


「あの日みたいに、きてはくれないのに…。
探しにきてくれたら…」

いや…、と菜月は首を左右に振る。
もうかの人はいないのだ。
どれだけここで、待っていても、現れることはない。
頼っても、もう言葉をくれることも温もりでつつんでくれることもないのだ。
菜月は悴む手を擦り合わせながら、何度も息を吹きかけた。


「かっちゃん、しばらくここにいていい?大丈夫。
ちゃんと帰るから。頭が真っ白になったら、またちゃんと戻るから。
だから…さ」

うつむいていた顔をあげて微笑もうとしたところで、菜月の表情は固まった。
目の前から やってくる黒いトレンチコートに、黒い傘を差した見知った影に、菜月は何度も瞬きを繰り返した。


「としや…さん…」
カタカタと震える唇で、言葉を紡げば、その人はしゃがみこんでいる菜月にゆっくりと近づいてくる。
菜月は、逃げることも近づくこともせず、黙って見上げていた。


「バカじゃないのか?こんな…ずぶ濡れになって…」
「……」
「馬鹿だ、君は…」

静かにそういうと利弥はしゃがみこんで、ずぶ濡れの菜月に傘を差し出した。
何故、どうして?利弥が、ここに?
そんな疑問よりも。

「うん…バカだと思う」
菜月は、利弥の問いかけにそう答えていた。


「どうして…きたの?」
「お前が逃げたと思ったから…」
「俺が逃げたと思ったから、かっちゃんに報告にきたの?」

菜月の言葉に、利弥はしばらくの間、沈黙を続けた。
そして、しばらくして「すまない…」と小さな声で謝罪した。

「どうして、謝るの?」
「君を、追い詰めてしまったから…」
「俺を?」
「俺のように、香月に会いにきたんだろう。ずっと、今まで俺に逃げないと言っていたのに…。
俺はいつも、俺だけのことしか考えていなかった。ずっと…。菜月、君もずっとギリギリだっただろうに…」

濡れそぼる菜月の前髪をそっとひと撫ですると、利弥は菜月の片頬に手を添える。
ヒラヒラと舞い落ちる雪が、まるで桜が舞い落ちるように見え、利弥と香月の姿が被った。

「……俺は…ずっと逃げてばかりだから。菜月の言う通り。
ずっと…今も。だから…」
「いいよ」

菜月は、添えられた手に己の手を重ね、瞳を閉じる。
いつも冷たい利弥のては、今日はなんだかとても温かく感じた。

「もう、いいよ…。なんだか、ここにきたら心が軽くなったから。かっちゃんのおかげかな。
だから、もう…、全部いいよ。もう、いいんだ…」

菜月は控えに笑うと、添えられた手に頬を寄せ、気持ちよさそうに菜月は瞳を閉じる。

「利弥さん、手、あったかいね」
「手…」
「ねぇ、利弥さん。利弥さんがくるまえまでは寒くて仕方なかったのに、いまはすっごくあったかいんだ。
不思議だよね。
外はこんなに、寒いのに。今はすごくあったかいんだよ」

へラリと菜月らしい笑みで笑い、菜月は利弥のシャツを引き寄せ、彼の唇を塞いだ。
利弥も黙ってその口付けに答え、やんわりと菜月を抱きしめる。
しばらくの間、雨に濡れながら二人は抱き合っていた。
 


長い間、傘もささずにいた菜月は熱が出てしまったようで、帰りは利弥におぶってもらうことになった。
といっても、この雨だからと近くのホテルに予約してくれた。利弥は車できたようで、ホテル近くの駐車場に車を止めているらしい。

おぶされた菜月の身体には、利弥のコートをかけられていた。

「菜月…、君は、馬鹿だ」

先程からずっと、利弥は小言を繰り返している。
菜月は熱に浮かされながらも、利弥の言葉が嬉しくて、うん…と相槌を打った。

「俺は何度もいったはずだ。俺は人間失格なんだ、と…俺は…」
「知ってますよ」
「知っているなら」
「知ってるし、貴方が俺を恨まないといきていけないっていうのもわかります」
「……」
「全部知っていて言っているんです。あなたが好きだって」
「馬鹿か」
「そうですね、きっと、そうなんだと思います」

出ていってやる…!と朝は決めていたのに、謝罪されてもう今までのことを許す気になっている。
きっと、自分はとんでもなく甘いしこれからもこんな風に彼を許し続けるんだろうな、と思う。

「だけど、俺こんな自分は嫌いじゃないです。今の自分は、凄く好きです」
「そうか…」
「はい」

とても、好きなんです。
そう告げて、菜月は利弥の広い背中にそっと身を預けた。



  
百万回の愛してるを君に