(俺は、利弥さんのなにを知っている?
確かに、あの人の言うとおりしらない。
家族構成も、どんな風に過ごしてきたのかも。
小牧さんと、どういう関係なのかも。
なにもしらない…。知らないで、一緒にいる…)

 出会ってまだ数ヶ月。
一緒に暮らしているといっても、すれ違いが多くて、顔を会わせることも少ない。
 一緒にいられる時間というのも、そんなに長いものではない。
だから、知らないと言われれば、それまでで。
彼のことをほとんど知らないのに、優しくされただけで好きだなんて確かに小牧のいう通り馬鹿な子供なのかもしれない。

(そんなので好きっていえる?
なにも知らないのに? まだ知り合って1年もたってないのに?
男同志なのに?
ほんとうは凄く悪い人かもしれないのに?
なのに好きだなんて、本当にいえる?
俺が知らない利弥さんの姿だってあるかもしれないのに…。本当は凄く嫌な人かもしれないのに)

 知らない。
 なにも、知らない。
 彼の為に、役に立ちたい。
 彼と一緒にいたいと思っていたのに、実際は彼の抱えているものも、ほとんど知らない。
悲しそうな、寂しそうな顔をさせたくないと思っているのに、どうして悲しそうな顔をする理由も知らずにいる。

(あんな綺麗な小牧さんがいるのに…。
俺なんかが好きでいても…)

 どっぷりと落ちていく思考。
 自分自身をばっさりと否定されてしまったように、芽生え始めたばかりの恋心に猜疑心《さいぎしん》を抱き始める。
 小牧の言葉に反論できるほど、利弥との仲は深まってはいなかった。
 考えれば考えるほど、自分が利弥を思っていることなど烏滸《おこ》がましく思えて、自覚した恋心すら、疑いに染まる。



「どうぞ…」
 暗い気持ちを切り替えるようなタイミングで、マスターは、菜月の目の前にあったコーヒカップを下げて新しいものをおいた。
 湯気がたった、出来立てのコーヒーである。
 しかし、まだ飲みかけの冷めた珈琲が残っていたはず。
菜月がきょとりとした顔で、マスターを見返すと、マスターはにっこりと微笑みかけた。


「あ、あの…」
「これ、私からのおごりです。
中川さん、すっごく暗い表情していましたから…」
「暗い顔…ですか…」
「ええ、コーヒーのように真っ暗でした。
どうしたんです?
小牧さんに虐められましたか?」

 あの人、あんななりで言葉は乱暴なんですが、本当は優しい方なんですよ、ただちょっと不器用で…と、マスターは苦笑しながら、小牧へフォローをいれた。
笑顔を絶やさない穏和なマスターを見ていると、本当にあの小牧という人物と知り合いなのだろうか?と首を傾げてしまう。


「虐め…というか…。
もっともなことを言われて、ちょっとわからなくなってしまって…」
「わからない?」
「はい。
俺、どうしてあの人のこと好きなんだろうって。
あの人はどうして俺なんかに優しくしてくれるんだろう…って…。
小牧さんに、なにもしらないって言われて、反論できなかった自分が凄く悔しくて、同時にそうだな…って思って。
俺は、あの人のこと、なにもしらない。
あの人の傍にいたい。あの人が悲しそうな顔してほしくない。
あの人のこと、好きだって、思ったのに。
なにも知らなくって…、この気持ちがわからなくなって…」


自分は、彼のことをなにも知らない。
過去も、小牧との関係も、昔愛した人のことも。
なにも知らないのだ。

話はしているものの、他愛ないペットに話すようなことばかりで、深いところは話してくれない。

どうして、欠陥人間だと初めてあったときにいったのかも、大切な人のことも、花のことも。

(俺は、犬…だから…。だから…)


「俺、あの人のこと、好きだって思ったのに、ぜんぜん知らなかったんです。
あの小牧さんに比べたら、きっと100分の一も知らないと思います。
なにも、どんな過去があったのかも。
どうして、あんなに寂しそうな顔をしているのかも。
どうして俺なんか側においてくれるのか、寂しいなら別の人でも良かったんじゃないかって。
そんな理由すら、知らない。

なにも知らないんです。あの人のこと。
だから、俺が見ているのは、あの人の本当の姿じゃないかもしれない。
そんな俺に好きでいる資格なんてあるのかな?
彼のこと知らないのに、好きっていえるのかな?
あんな綺麗な人が側にいるのに、こんな…好きになったって…」
「無駄、ですか?」

菜月が言おうとしていた言葉を、マスターが口にした。

「…本当に無駄、なのです?
誰かが否定したから、知らないからって、無駄って思ってしまうのですか?」
「だって……」
「綺麗な人がいるからってなんですか。
貴方だって私から見たら、とても素敵ですよ。
繊細で、自分の欠点を欠点を認め、他人を尊重する。
とても素敵なところを持っているじゃないですか。自分には見えなくっても、貴方にはあなたのいいところがちゃんとあります」

 マスターはそう言ってくれるが、劣等感の固まりの菜月からしてみれば、そうは思えなくて。
言葉を貰ったところで、自信なんて、湧くことはない。
こんな自分駄目だと思っているけれど、自分に自信を持てずにいる。

「マスターは優しいから。
俺みたいな人間にも、そういえるんですよ。
俺はね、昔からだめだめな人間なんです。
なにやってもうまくいかない…へまばかりする…。

ついでに、人も不幸にしちゃう厄病神なの。
俺の母親ね、俺が生まれてすぐ、別の男の人と駆け落ちしちゃったんです。父親には、母親に似ているからって疎まれてたんだ。それに、俺が大好きな人は俺のせいで死んじゃったんだ…。俺の、せいで…。俺さえ…、いなければ…」

何年たっても消えない、後悔。
消せない記憶。
けして消えそうにない劣等感。

「優柔不断で、諦めてばっかで…。

利弥さんにあう前は、全部投げやりで、夢なんかなくって、ほんとなにをやってもうまくやれない、だめだめなダメ人間なんです。
なんにもできない…、すぐ諦めてしまう。
なんの価値もない、なにをやってもだめなダメダメなダメ人間。
そんな俺でも、素敵っていえます?」

「はい。ダメ人間な貴方でも、です。」

 迷いのないゆるぎない口調で、マスターは微笑みかえす。
その優しい微笑みに、卑屈全快の菜月の言葉もつい、止まってしまう。
マスターの人柄故だろうか?
その笑顔の前では、どれだけ言葉を重ねても、すべて言いくるめてしまいそうな優しさがある。
協会にいる牧師のように、どれだけ嘆きを連ねても、救いの手を差し伸べてくれるような。

「それに、知らないのなら、これから知っていけばいいじゃないですか。
知らないことが、恥ずべきことではないと私は思いますけど…」
「知っていけば?」
「そうです。
知らないのなら知ればいい。知らないからって、自分の感情を否定せず。
話し合って話し合って、相手のことをもっと知っていくんです。

そうしたら、自ずと真実が、見えてくる。
その人がどういう人か、おのずとわかってくるはずです。
そのうえで、その人を嫌いになるかもしれない。
逆にもっともっと、好きになるかもしれない。
知らないからって、今好きでいるのを止めることはないと思いますよ、私はね」

マスターは、そういって、片目を瞑って見せる。

「知っていけば…。
でも…ペット同然の俺に、知る権利あると思います?」

「さぁ?行動するのは自分自身です。
人はアドバイスは与えられても、どうするかまでは決めることはできません。
最後に決めるのは、貴方ですよ。
踏み込むかも、おそれるのかも。

所詮、どう自分が転ぼうが、責任をとるのは自分次第なのです。なら、たまには冒険してもいいのはないでしょうか?
貴方だって悩んでいるのでしょう?どうにかしたいと思っている。恋に破れたわけでもない。なら、少しは冒険してみるのも、手ですよ。臆病者の自分を変えるための…ね?」

 マスターはそういうと、カウンターの奥へ消えていった。
菜月はマスターがいれてくれた珈琲に口をつける。

「…知っていけばいい…か…」

 いつぞや、利弥に言ったせりふがある。

『だから、もっと利弥さんのこと、知りたい。
利弥さんが寂しいときは一緒にいたい、って思うんだ…。
一人にしたくないって思う。
傍にいさせてほしいって…思うんだ』

犬でもいいから、彼の傍にいたいと思い言った台詞。
あの時から、ずっと知りたかった。彼のことを。
今後もずっと一緒にいさせてほしいと思うくらい、彼のことを理解したかった。

「俺、あのときから、知りたかったんだ…。俺、ずっと…。犬として…ううん。今は人として、利弥さんのことが知りたいんだ…」

 呟いた菜月の顔は、踏ん切りがついたように晴れやかで。
口をつけた珈琲は、先ほどは苦みしか感じなかったのだが、今は苦み以外の味も感じることができた。
 

「俺、ずっとあのときから知りたかったんだ。
利弥さんのこと。
知って、もっと理解したいって思っていたんだ
知りたいのなら、知ればいいんだ。これから…」


知らないから…そう暗くなっていた気持ちが浮上する。
心の中にあった霧のようなモヤモヤがマスターの言葉で少し、薄くなった気がした。



  
百万回の愛してるを君に