浅い息を繰り返すと肺がひゅうと痛んだ。灼けるように熱い傷口を抑えて、壁にもたれる。倒れ込みかけた小柳の腕を、星導がぐいと引き上げた。「大丈夫、小柳くん」そう言って、何が大丈夫なんだと言いたくなるような確かな目で小柳を見て、星導は小柳の腕を肩に担いだ。じわり、じわりと血が滲む。血の色はすっかり人間と同じであるのに、少しずつ傷の塞がっていくのを感じながら、小柳はゆったりと目を閉じた。
「……さん、ロウさんっ」
「───ニル?」
ぱ、と目を開ければ視界いっぱいにまんまるな瞳が飛び込んできた。
今にも溢れそうに瞳孔を開いて、小柳を見下ろしている。情けなく眉を垂らして、心配そうにこちらをみていた。
「良かった、起きた」
見れば見慣れた自宅の天井だ。一人で住むには広く、二人で住むには手狭な部屋の隅で、小柳は仰向けに転がされていた。ほしるべは、と譫言のように聞くと、ニルの細い指が小柳の手を握った。
「星導さんはご無事でしたよ、ロウさんを運んできてくれました」
「そうか」
「ロウさん、傷は、」
見下ろせば、脇腹に随分と血溜まりができていた。ねっとりと張り付いた鉄の匂いが不快だ。包帯やら何やらをたくさん持って泣きそうな顔でこちらを見つめるニルに、小柳は少し笑ってその乱れた髪の隙間を直してやる。
「いーよ、手当とかなくてすぐ治る」
「でもっ」
ニルが小柳の上着を脱がせようと腕を伸ばす。
甲斐甲斐しい様がなんだか不釣り合いで、「脱がすなよ」と茶化せばきゅっと唇を引き結んで黙殺された。――悪かったよ。
するりと上着が肩から落ちて、汗ばんだ肌を通り過ぎていった。ニルが慎重に傷口を見ようとかがみ込む。つ、と白い指が辿って、ふと、止まった。
「あ、」
ひゅっと音を立てて乾いた息をニルが飲み込むのがわかった。あれほど深そうに思えた傷は、もうすっかり閉じている。大袈裟に流れた血の跡が腹をのたくっているが、それだけだ。かすり傷はとっくに消え、傷口だった箇所がかろうじてそこに深い傷があったのだろうなと想像ができる程度に残っていた。
――小柳ロウは、人間ではない。
白狼の生きる時間の長さと人間のそれとでは実に雲泥の差、天と地、月と鼈だ。たかだか80年やそこらで死ぬような生き物とはまるで違う。白狼として生を受けたからにはこの先数100年は生き続ける。実際100を超えてからというもの、すっかり歳など数えることもやめてしまった小柳でさえも、白狼の中ではまだまだ若輩者だった。
指先を止めたまま動かないニルに、小柳は少しだけ眉根を下げた。傷の治り一つとっても、この女と己には大きな差がある。実際ニルの指先は先週の頭に包丁で切った切り傷が、まだ痛々しそうに指を割っていた。
小柳はそっとその指をとって、手持ち無沙汰そうにして指を絡める。
「な、ほら、俺人間じゃねえだろ」
その声は己で思っていたよりもずっと乾いた音で聞こえて、酷く悲しくなった。
ニルが繋いだ指先をぱっ、と離す。伸ばされた腕が、一度だけ強く小柳を抱きしめた。いつの間にか同じ匂いのする髪の匂いが、小柳の鼻先をくすぐった。
「……ニル?」
恐る恐るその背中に手を伸ばそうとすると、――ばっ、と勢いよくニルの身体が離れる。
そのまま何かが己の腹に張り付いた。よく絞られた晒だ。ひんやりとしていて気持ちがよかった。思わず目を細めた小柳を無視して、ニルが比較的雑な手つきで血を拭った。
「こういう時って、どんな言葉をかけるのが正解ですか」
淡々とした口調でニルが言う。
「人間ですよ、もちがうし、そうですねも違う。私は人間だし、ロウさんは人間じゃないのは変わらないし」
「おま、あんまはっきり言うなよ……」
「だって、そうでしょ」
すっと目を上げてニルが真っ直ぐに小柳を見た。その目のなんと逞しいことか。この女はどうしてなかなかこういう場面で肝が据わっているので、厄介だった。そしてそういうところを持って、番として引き留めておきたいと、そう思ってしまった。
小柳は少しだけ深く息を吸って、その肩口に顔を埋めた。この女の側からは、色濃く人間の匂いがした。そうしていると幾分か悲しさも寂しさも紛れる気がする。「ゆっくり狼になろうな」と声をかけると、ニルは「そうですね」と言った。そんな無茶なと一蹴するかと踏んでいたので、驚いたが、見上げたニルの瞳が思いの外に切なそうに見下ろしていたので、小柳はきゅう、とその身体に擦り寄るだけに留めておいた。人間の、やわくもろい、音がした。