結婚とかしないの、と言われてああそうかそんなものもあったなと思った。
小柳ロウは人間ではない、歴とした白狼である。人と変わらぬ見た目をして、人と同じ36.5度の体温を彷徨っているが、その皮膚の下は少しも人ではない。実際齢で言えば百を優に越える。逆に言えば、百を超えてからは面倒になって数えていない。そしてまだ、この3倍以上の年月は生き続ける。
なので、人間社会の規律規範などまるで疎かった。100余りも生きていればなんとなく習性や慣習は理解に苦しくなかったが、染み付いてはいない。まして結婚などという人間の定めた形式などまるで頭にもなかった。何故ならニルはとうに己の番であり、番である以上は狼はこれときめた一対で添い遂げる。なにをいまさらというのが正直なところだったが、なるほど確かに少しは小柳を考えさせた。――何故なら、春笠ニルが、己よりもずっと脆い人間だからである。
「ニル、ちょっとこっち」
「?はあい」
ぱっと顔を上げたニルが不思議そうに小柳の方を仰ぎ見た。小柳はそれに黙って応えず、とんとんと己の隣のソファを叩く。
「どうしたんですか、改まって」
ニルは少し茶化すように笑って、腰を下ろした。
「別に。今忙しい?」
「全然。ただいい天気なので外に出ようか迷ってますね」
「出んの」
そう聞いた小柳に、ニルはちょっと眉を下げる。
「インドアには厳しいですね」
「同感やね」
どうみたってアウトドアとしか思えないような性格のくせに、意外にも彼女は家の中が好きだ。日差しのある日はこうして大体リビングで編み物をしたりゲームをしているか、気がついたらひっくり返ってそのままソファで寝ている。口をほんの少しぽかんと開けて寝る癖があるので、リビングに来たついでに口を閉じてやるのが小柳の役目だった――なお、ニル本人は否定しているが、実際小柳は何度もその仕事を請け負っているので、逃れようのない事実である。
膝を抱えてテレビのチャンネルを回そうとするニルの手をそっと止めた。そのままするすると指先を引きずって引き寄せると、幾分不思議そうな顔をしてニルが「え、何、どうしましたか」と声をあげる。割れて二枚爪になった薬指の先が愛おしかった。
「お前が、人間だから」
比較的丁寧に、慎重に、その指に指輪を嵌める。
「こういうのがないとお前が嫌がると思ったから」
もはやどこへ向けた言い訳なのかは小柳にもわからない。兎に角そういって、小柳は薬指にはまった銀色の指輪の縁を撫でた。お前が欲しがると思ったから。別に俺が欲しかったとか、考えたとか、そういうのじゃあ、ないけど。多分、そんなことを続けていた。
じっと指輪を見つめていたニルの瞳がゆるりと揺らぐ。
それに何か答えようとして口を開いた時、言葉にする前より先にニルの細い腕がにゅっと伸びて、絡みつく。
「〜〜っ、何それかっこいい、ロウさん好き……」
「うわ、びっくりした、急に飛びつくなって」
「私、本当にロウさん好き、好きです」
ほとんど涙声だ。よく泣く女だな、と思った。本当によく泣いて、よく笑って、よく騒ぐ、素直な女だった。喜怒哀楽がはっきりとしているのでわかりやすい。きっと今、彼女は最大限に喜んでいる。それがわかるので、何かのしがいも仕様もあった。
「だってお前、ずっと一緒にいてくれんでしょ」
そういった小柳に、ニルが少し顔を離して、二、三度目を瞬かせた。
「そりゃあ、どんな手を使ってでも」
そう言った彼女がどうにも逞しく頼りがいのあるように見えて、そういうことなら死んだってその薬指だけは外すなよと、そういってやりたくなって、やめた。