「夜ご飯って、何か一品あるだけで嬉しかったりしますよねえ」
妙に間延びした声でそう言って、ニルが浅い息を吐いた。
夏が暮れると時期に秋になる。夏と冬の曖昧な境目は少しばかりの蒸し暑さを残して日が暮れるのばかりが随分と早くなった。遠く赤らんだ空には日差しの残り香だけを残して平べったい鰯雲が横たわっていた。
湿気で張り付いた前髪をかき分けて、今晩の夕飯に頭が一杯になっているであろう女の横顔を窺い見た。焼き魚かなあ、と斑模様の雲を仰いでニルがぼんやりと呟いた。
「安直すぎんだろ」
「だってなんか食べたくなるじゃないですか、鰯雲とか見ちゃうと」
ね、と眉を垂れてニルが肩をすくめた。食べたくなるかは知らないが彼女のそういういっそ清々しいほどの単純さは嫌いではない。なんの心化粧も憂いもない顔をして屈託なく笑ったり泣いたりを繰り返すので、時々こちらが戸惑うほど底抜けに素直な女だった。
「お前、秋口に虫が鳴き始めて喜ぶタイプだよな」
不意にそう口にした小柳に、ニルがしぱしぱと睫毛を瞬かせる。
「え、なんですか急に」
「いや、さっき鳴いてたよ。お前に言おうと思ってた」
「えっ!気づかなかった!嘘、どこ!?」
ニルがばっ、と後ろを振り返って悔しそうな声を上げる。何と無しにそれを見ているのが堪らなく面映くなって目を背けた。慌てて耳を澄ませている様は、静寂に飲み込まれていく夕暮れの中で彼女だけが妙に賑やかだった。
「俺、お前が番がいい」
自分でも、想像していた何倍もするりと出たので驚いた。この焦燥も、苦しくて堪らなくなるような煩わしさも、迫り上がるような不愉快な愛おしさも、好きだと認めてしまったのでとうに引っ込みがつかなくなっていた。どうせ己よりもずっと先に死にゆくくせに、今が楽しくて仕方がないと思ってしまった。刹那的で、腕力的な楽しさのせいで、あるかもわからない永遠なんかよりも一瞬を選びたくなってしまった。軽々しく境界を超えてしまう人間らしい傲慢さで、剥き出しの人間らしさで、己を好きだという女の一瞬の方が、欲しくなってしまった。
「……私、ロウさんの何者かになれますか?」
仰ぎ見た瞳の、ゆらゆらと揺れる様なんかを見ていたら、もうなんだってどうでも良くなってしまう。頷くと、ニルが泣いたような笑ったような顔で薄く息を吐いた。「情けねえ顔すんな」といえばからからと笑う。目の前で笑う女を見ていたら、人間だとか、そんなことがどうでも良くなるくらい、全部崩れてしまうくらいに好きになってしまった、ような、そういう感覚でずっと、彼女を見ていた。