濡れた髪を乱雑に拭きながら通知を開くと、「今帰りました」の簡素なメッセージだけが浮かんでいた。残り少ないペットボトルを飲み干して、片手で指を滑らせる。「今」「暇?」空になったボトルを握りつぶしてゴミ箱に放り投げると、乾いた音がした。
『暇ですよ!』
ぽこ、と情けない音がしてそれだけ返ってきた文字に、かけるわ、とだけ送って通話ボタンを開いた。一瞬躊躇って、固い唾を飲み込む。放り投げたままのいつ脱いだかわからないTシャツを被って、ボタンを押した。
「こんばんはっ」
呼び出し音が鳴ったか鳴らないかも怪しい速度で、携帯の向こうから彼女の声が響いた。およそ一日活動していた人間に出せる声ではない、相変わらず語尾の跳ねた甘い調子で、顔を見なくてもどうせ情けなく眉を垂れて笑っている。
「こんばんは。はえーよ、ニルさん」
思わず笑った己に、ニルが「だってえ」と抜けた声を出した。お前やっぱり、俺のこと好きすぎるだろ、とまで思ったが、言うのはやめた。喉につっかえたまま飲み込んで、椅子に腰を下ろす。濡れた髪の先から、冷えた水滴が頬を伝って消えた。
「今何してんの」
「今?今はね、必死に今日の負債を追い出してますよ」
「何それ?」
「つまりむくみ取りです」
「はは、なんだそれ」
電話越しに聞く彼女の声はいつもよりほんの少し低くて、ほんの少しだけ掠れていた。つられて向こう側で笑う彼女の低い咳払いが聞こえる。声と、布の擦れる音と、息の音が、向こう側の彼女をかたどるのが憎らしくて悔しくて、なんとなしにこそばゆかった。
「でも急に電話かけるなんて、どうしたんですか」
相変わらず自分のことになるといっそ清々しいほどあっけらかんとしている調子でニルがそう言った。そりゃあ、電話の一つでもかければ嬉しそうにするかもしれないだとか、お前が今何をしているのかが少し気になっただとか、声が聞きたかっただとかいくらだって理由はつけられたが、生憎まだ理由をつけるには関係が不十分だった。理由なく電話もできなければ、理由をつけて電話もできないのだから人間なんか不便な生き物だと思う。結局、「別に深い意味ねえよ、何してんのかなと思って」とだけ言って口を噤む。長生きなんかするものではない、本当は、声が聞きたかっただけだと言ってやったってよかった。
「ふふ、嬉しいですよう、声聞きたかったので」
己の葛藤などどこ吹く風、あっさりそう言って、ニルがくすくすと機械越しに笑う。馬鹿みたいに素直で、いっそくるしいほど真っ直ぐだった。取りこぼしてほんの少しの諦観を言い訳に見ないふりをしてきたものを、剥き出しの人間らしさのままに難なく無償の愛を己に向けてくる。そのくせこちらが愛情を向けてやろうとすれば、あっさりとすり抜けていく。――お前、俺が少しはお前の声を聞きたかったのかもしれないとか、考えねえの。考えないんだろうな、きっと、勘定に入っていない。
「ていうかあれですね」
「何、どうした?」
「いや、ロウさんって電話越しだともっと声低いんですね」
「……ニルさんもね」
そうかなあと呟いて彼女が笑った。やっぱりどうしたって掠れて低く笑うその声が、真夏も裸足で逃げ出しそうなくらいに、涼しくて、くるしい。