なにもいわないでね


 珍しく、丸まった背中が頼りなくて、声をかけるか一瞬躊躇った。
 毛布にくるまりながら、ソファにもたれる彼女の薄い頰が、夜更けの月明かりに照らされて、白んでいる。閉じた瞼の隙間が薄く濡れていた。泣いたのか、と思って、息を噛む。泣く時は大声で泣くのが常のくせに、時折こうしてしおらしく涙を流す様が、ひどくもどかしくて苦手だった。

「そんなとこで寝たら風邪ひくぞ、お前」

 思っていたよりも掠れた声だった。壁にもたれて、しばらくその丸い背を見守ると、もぞ、と身動いで顔をもたげる。やわい目線が、小柳を捉えた。

「ああ、ごめんなさい、起こしちゃいました?」
「別に。起きたらお前がいなかったから、何してんのかなと思ってきただけ」

 ふふ、と笑ってニルが、小柳が置きっぱなしにしたままの毛布の前を手繰り寄せた。「あったかいですねえ」といって顔を埋める。いやに頼りなくて、崩れそうな輪郭に、目を伏せる。

「それ、俺のな」

 ニルがうすく微笑んだ。

「知ってますよう、ロウさんの匂いしますもん」

 それだけ言ってニルがまた、背を丸める。近づいて、毛羽だった毛布の頭を引き寄せた。ぐしゃぐしゃの寝癖のついた髪を触って、頭ごと抱え込む。泣きそうに息を吸って、ニルが少しだけ、体重をよこした。

「なに考えてた?」

 ニルがゆるく、腕の中で首を横に振る。

「言わねえと甘やかすぞ」
「……なんですかあ、それ」
「お前が嫌って言っても、甘やかすけどいいんだな」
「やだ、やだ、ロウさんにそんなことされたら、びっくりしちゃうから」

 間延びした声でそう言って、ニルが腕の隙間を縫うようにして顔を上げる。にへら、と崩れるように笑った濡れた目尻を拭って頬に触れる。暫くそうしてされるがままにして、ゆったりと薄い唇が開いた。

「明日、誕生日なの」
「……知ってるけど」

 幾つになるのかなんかは生憎知りもしなければ、知りたくもなかったが、明日が彼女の誕生日であることくらいは知っていた。盛大に祝うほどの器量はないが、それなりに祝ってやろうとも思っていた。己の誕生日なんかは百を超えてから数えるのも、覚えていることすら忘れていたが、人間がそう言ったものにやたらとこだわることくらいは知っていたので、お前が喜ぶなら、祝うとかそういうことだって、柄にもないがしてやっていいと───そう、思っている。

「……年取るの、怖くなっちゃった」

 ぽつり、とそう言って、ニルが顔を伏せる。
 たよりない丸い旋毛が垂れて、出会った頃より少し伸びた髪の先が小柳の肩口をくすぐった。赤く色づいた指先が所在なさげに毛布を握りしめている。そっとその手に触れると、恐々と指先が絡まる。

「私ねえ、どう頑張ってもロウさんより先に死ぬんですよ」
「そりゃあそうやね」
「私の一生と、ロウさんの一生は天秤に乗らないから」

 ニルの指先が、おもむろに小柳の方へ伸びる。不安気に冷めた指の腹で、耳たぶを引っ張って眉を垂れた。「ロウさん、耳たぶ薄」と言って細い指が輪郭を欲するように動く。厚みのない骨ばった背中に腕を回すと、ニルが泣きそうな息を吐いた。

「別に年取ってもお前は可愛いよ」

 ニルがひぇ、と踏まれた犬のような声を出した。

「そういう話じゃないんですって!」
「知ってる。それで嫌ならお前が死んだ後、何かにつけて毎日記念日祝ってやってもいいよ」

 どうせめぐる日付も季節も数えたことも覚えたこともなかったが、今ここで彼女がそうしてほしいというのなら、そうしてやったっていいと、本気で思っていた。馬鹿ではないが素直なので、目に見えるものを欲しがった。一から十まで言わなきゃわからないくせに、間を察するのが絶望的に上手いので、余計なことを考える。「しょうがねえやつ」とゆるく丸い後頭部をなでてやると、ようやく縋るように両腕が絡みついた。

「毎日記念日は、ちょっとやりすぎかも」

 揶揄うように笑ったニルの二の腕をつねって、憎いほど愛おしくなって肩口に顔を埋めた。何百年先だろうと、こんなに手がかかってこんなに馬鹿でこんなに可愛い女、忘れようもなければ、───忘れさせる気もないのはお前だろと思って、何も、言わなかった。