猫と爪


「ロウさーん、爪切ってくださーい」

 やけに間延びした声がそう言って、ふと目を上げると、丸い瞳がこちらを見下ろしていた。
 寝転がった小柳の腹の上に遠慮なく身体を乗せて、うふふと楽しそうに口元に弧を描いている。片手には猫の爪切り、もう片手にはオトモを抱えて、何がそんなに楽しいのか、情けなく眉を垂れる彼女の額を軽く小突いた。

「……自分の爪くらい自分で切れ」
「私じゃないです、オトモです」
「……俺にやらすな」
「だってロウさんが一番上手じゃないですかあ」
「知らんがな……」

 お前も言われた通りにするな、とオトモの方を見れば案外満更でもなさそうにニルの腕に抱かれて二匹揃ってまんまるな瞳で小柳を見ていた。なんだ、それ、と思って、「降りろ」と声をかけてニルを退かすと「!?重くないです!」とニルが尾を踏まれた犬のような声を出した。言ってねえだろ、そんなこと。

「……じっとしてろよ」
「……にゃー」
「お前が返事すんな」

 へへ、と嬉しそうにしているニルに浅くため息をつきながら、オトモを抱えて肉球を柔く押す。ぱち、ぱちと爪の先を切りながら、使い魔のくせに一端の猫みたいな顔をして甘えているオトモの耳の裏を軽く掻いた。

「ロウさん、上手いですよねえ」
「手先は器用な方だからな」
「私が切るよーって声かけてもオトモ逃げちゃうのに」

 ひどいんですよう、と言って眉を下げながら床にへたり込んだニルがこちらを見上げた。小柳の膝の間にすっかり始まったオトモが、ふん、と顔を逸らす。仲がいいのか悪いのかさっぱりわからない二匹だ。どっちが利口なのかは殆ど五十歩百歩だったが、どうやら上下関係はニルが下らしい。ぺし、とニルの丸い旋毛に爪の切り揃えられた片手を乗せたオトモに、ふ、と口の端を歪める。

「そりゃあ、お前、こいつに下に見られてるぞ」
「えっ!?」
「子分かなんかだと思ってんだろ。でけえ犬だし」
「……まとめてご飯抜き!」
「あ、おいニル、ばか」

 流石に飯抜きは効いたのか、オトモがジタバタと手の中で暴れ出す。知らぬ間に胃袋握られやがって、と溜息を吐きながら、ついでに飯抜きを食らう己の方がよっぽど理不尽だ。落ち着け、と声をかけて最後の爪を切ってやる。飛び出したオトモが謝るようにニルの指先を舐めていた。

「……お前も爪切るか?」
「……!?やっ、いやです!!」

 指に絡みつくオトモにすっかり気を良くしたニルが、途端にきゃんと肩を跳ねさせて仰け反った。するりと手をとって、四角く整えられた爪の先をなぞる。あまり職業柄色は塗らないらしいが、ほんの少し長く揃った指先はところどころにささくれながらも綺麗だった。つるりと表面をこするとニルが恐る恐るこちらを見上げる。よわくて、もろくて、情けなくてどうしようもなく可愛い生き物だった。

「全部切る。短くして、噛み癖つかないように」
「子供扱いしないでください!」
「俺からしたら全然ガキ」
「白狼と比べないでくださいよう!」

 あんまりです!と言ってニルがひぃん、と涙声を上げた。数百年以上生きた己からすれば、彼女のたかだか二十数年など赤子にも等しい。たったそれだけの年月で一端の大人のような顔をして小柳を好きだなんだというのだから、こと人間は、ましてこの女の恐ろしさたるやだった。うっかり惚れてしまった彼女の、そっぽをむいた首筋に、鼻先で触れる。

「ニル」
「!?なんですか!?」
「はは、なんでもね、」

 思い切りその薄っぺらい身体を抱き上げて、膝の間にすっかり閉じ込めた。何事かと目を白黒させる女の髪をかき分けて、顔を寄せる。はく、と開いた口に噛み付いた。温かくて、弱くて、脆い人の身体で、己を好きだと笑うこの女が、それこそ小難しい大概のことがどうでも良くなるほどに、愛おしかった。