いまさら覚えたかった


 骨の軋む音がした。

 強く打ちつけた拳の隙間からぬるい血が垂れる。焼け付くようにひりひりと抉れた指の関節に構わず、何度も何度も拳を振るう。無機質な壁はびくとも動かず、黙って己のやりきれない怒りを受け止めている。込み上げる吐き気にえずいて、無心で殴り続けた。痛みなんか、もう感じなくなっていた。

「小柳くん」

 す、と伸びた指先が己の視界を緩く遮る。薄ぼんやりとした視界で顔をもたげると、眉根を寄せた星導がいた。顔の傷にぺたりと貼られた絆創膏が情けなく曲がっていて、カゲツあたりが貼ったのだろう、気の抜けるような絵が描かれている。「小柳くん、もう、やめてください」冷たい指が、己の拳をやわく包んだ。

「守れなかったのは君だけのせいじゃない、俺のせいでもある」
「……だとしても、あの時判断を見誤ったのは俺だ」
「あの場には俺と君しかいなかったんだから、判断は俺と君、二人のものです」
「だとしても!俺が見誤った!」

 がん、ともう一度ぶつけた拳がぎしぎしと悲鳴を上げる。生ぬるい血がぽたりと音を立てて床に落ちる。人間よりも少しぬるい血液が、鈍くのたうちまわるようにすっかり更けた夜の中で断続的に垂れ続けていた。

「……小柳くん」
「……」
「一度帰宅したほうがいい、……頭を冷やして、よく」

 星導はそう言って、包帯を取り出した。くるくると器用に小柳の拳に巻きつけて、きゅっと手の甲の上で蝶に結ぶ。「帰ったらちゃんと消毒してくださいね」そう言って、食えない瞳がゆるく曲がった。



 目を閉じると、広がる血の海が、まざまざと思い浮かぶ。
 見慣れた桃色の髪が散らばって、真っ赤な水溜りの真ん中で、息を無くしている。

「――っは、」

 詰まりそうな息を吐いて飛び起きる。荒い呼吸のまま何度もそうして肩を上下させて、込み上げた吐き気を飲み込んだ。焦るように枕元の水を流し込んで、呼吸を整える。青白んだ夜明け前の空が、憎たらしかった。

「なぁん」
「……ああ、お前か」

 するりと身を寄せたオトモが心配そうに己の指に絡みつく。ごめんな、と声をかけて軽く耳裏を撫でてやると、慰めるようにささくれた指の先を舐めた。なぁん、とこたえるように再び鳴いて、膝の上に丸くなる。そっと指を伸ばすと、幾らか落ち着いた。

「……そういや、あいつは?」

 顎の下を撫でながらそう聞くと、オトモがくるりと顔を上げる。

「ああ、……そうか、今日はニルのやつ、きてねえのか」

 よかった、と思って胸を撫で下ろす。こんなところを見られては堪らない。己をかっこいいと、ヒーローだと言って疑わないあの女にこんな情けない様を見られるのだけは御免だ。壁にもたれて、低い天井を仰いだ。今更になって傷だらけの拳がじくじくと痛んだ。

「…………何がヒーローだよ」

 前髪を掴んで、唇を噛むと血の味がした。幸いにも駆けつけた伊波とカゲツによって被害者は軽症で済んだが、あの二人がいなければよくて大怪我だっただろう。何を切り捨てるべきか、何を選ぶべきかを完全に見誤った。後ろにいる星導に早めに頼れば良かった、そもそも伊波たちが合流するのを待つべきだった、あの時、あの瞬間、もっと早く判断ができていれば、そうしたら、こうはならなかった。言い訳もできないほど、見誤っていた。己はまだ、守りながら戦わねばならないことの難しさを知らなかった。

 深く息を吐いて、不愉快に滲んだ額の汗を拭う。嫌な夢だ、あろうことか夢の中とはいえ彼女の死体を見る羽目になるとは思わなかった。あのへらへらと、何も知らないような顔をして隣で笑う女の、寿命以外で死ぬところなど天地がひっくり返ったとて考えたくもない話だ。間違いなく己よりも脆くて弱いくせに、時々強いような内側を見せるので、その均衡に甘えてしまいそうになる。

 何一つ、正しくできない。己の傷の多い手のひらは、守ることを覚えてまだ浅い。
 守りたかった。この手のひらで、こぼさぬように、何もかもを欲張ってでも守りたい。奪うことじゃなく、壊すことじゃなく、守るってことを、今さら覚えたかった。

「まじで、最悪だわ」

 吐き捨ててばたん、と布団に倒れ込む。洗い立ての匂いがした。もう何もこぼさないほど、覚えてしまった失う寂しさをも乗り越えられるほどに、己は強く、なりたかった。