付き合う前


 案外通る声をしている。「ロウさーん!」と呼ぶ声は、狼の己でなくてもどこにいても聞こえそうだった。ここ最近ですっかり聞き慣れてしまったきゃらきゃらとした声にまたか、と思いながら、それほど気は悪くない。そうでなければ、わざわざこちらも姿を見かけて見えるように近寄ったりはしない。

「ロウさんっ、偶然ですね!今日もかっこよくて大好きです!好きです!」
「おー、ニルさん、そっちは今日も元気やね」

 特に褒めたつもりはないが、にへ、と崩れるように笑ってニルが照れ臭そうに目を逸らした。なんだその顔。軽く鼻で笑いながら、隣に並んでやる。ほんの少しだけ薬のつんとした匂いと、彼女の薄く甘い匂いがした。

「会えると思ってなかったので嬉しいです、街まで出てきてよかったあ」
「そりゃどーも。買い出し?」
「はい、ちょっともろもろ足りなかったので……」

 そういう彼女の手は大量の紙袋を提げている。薬草から小瓶から何から、薬の匂いの正体はこれだろう。「貸せよ、持ってやる」と手を伸ばすと、ニルが丸い目をきゅっと狭めて、小柳を仰ぎ見た。

「好きになっちゃうのでだめです…………」
「もう散々言ってきてるだろお前」
「そ、それとこれとは違くてえ〜……」

 目を逸らしたニルがうう、と情けなく呻きながら顔を伏せた。耳まで赤くして、いや、あの、その、と短く繰り返す。開口一番人の顔を見るなり大好きだのなんだのと騒いできたくせに相変わらず奇妙な女だった。するりとその手から袋を奪い取ると、思いの外見た目よりも重たい。こんなもん持ってよく走れたな、と思いながら、両手の袋を取り上げる。

「ついでだから送ってってやるよ」
「えっ」
「……なに」

 ゆる、と揺らいだニルの瞳が困ったように彷徨う。

「あ、の、私、一応ロウさんのこと好きなんですけど、大丈夫ですか……」

 そういうと、小さく呻いて顔を覆う。思わず目を見開いた小柳に、気まずそうな彼女の横顔が髪で隠れる。好きだなんだと軽く口にするので、そういうものだと思っていた。悪い気こそしていなかったが、殆ど彼女にとって重たい意味を持たないと思っていた。は、と口を開いた小柳にニルが「忘れてください……」と呟いて先を歩く。その背中が思っていたよりもずっと頼りなくて、それがどうにも妙な気分だった。


「ロウさん!」

 店に入ると想像よりも騒がしい声でそう言って、ぱっ、と顔を挙げる。多分そうだろうなと思っていた2倍の勢いでそうするので、それに変なやつ、と苦笑しながら軽く手を振ると、まとめていた髪を解いて、ニルが近寄る。

「何かありましたか」
「別に、近くまで来たから死にかけてねえか見に来てやった」
「もう!そんな簡単に死にませんよう、でも会えて嬉しいです」

 そう言って、崩れるように笑って、ニルが忙しなく背を向ける。「お茶かコーヒーありますよう」と言って戸棚に手を伸ばす指先を見つめながら、すっかり小柳ばかりが座るようになった店の端っこのソファに腰を下ろして、浅く息を吐いた。

「物落とすなよ」
「ロウさん私のことなんだと思ってます?」

 ちゃんと出来ますよ、と膨れっ面でコーヒーの粉を見せびらかしてくる様に少しだけ笑いながら、頬杖をつく。土足で踏み入ってくる喧しさのくせに、それほど居心地が悪くもなければ、悪い気もしない。つい立ち寄って顔を見てやってもいいかと思うくらいには、妙に放って置けない。変な女だ、人間のくせに、誰よりも人間らしいくせに、あっさりと人の境界を飛び越える。

 どうぞ、と置かれたまだ熱いコーヒーを冷ましながら、ほんの少し唇をつけて下げると、ニルがうっすら細かく笑い声をあげた。

「ロウさん猫舌ですか」
「……おい、なんだよその顔」
「ううん、狼なのになあと思っただけです」
「うるせー………」

 眉を寄せるとごめんなさあい、と間延びしてそう言ってニルがくすくすと笑う。何がそんなに楽しいのかは知らないが、そうしているのを見るのも、嫌いではない。じ、と見つめるニルの視線がやんわりと小柳の目を仰ぐ。なに、と視線を合わせると、ニルが照れ臭そうに、嬉しそうに、顔をゆるませて微笑んだ。

「でも私そういうロウさんも大好きです」
「……お前それ本気?」

 片眉をきゅっとあげた小柳に、彼女が困ったようにして眉を垂れる。

「本気です、すっごく大好きです」

 真っ直ぐに人の目を見る女だ。丸い目で、何にも疑いもしないような瞳孔でそう言ってニルがほんの少し目の端を赤らませて肩をすくめる。ぬるくなったカップの端に口をつけて、そっとその瞳から目を逸らした。

「…………ま、考えといてやるよ」
「えーっ、なんですかそれかっこいい!」
「お前やっぱそればっかじゃねえか」