仲直りボイスのやつ


 乾いた音がして、ちらりと目線を横にやれば、帰宅したばかりの彼が手持ち無沙汰そうにアクセサリーを外しながら鏡を見ていた。

「おかえりなさい、」

 かけた声はひどく掠れていて、言わないほうがずっとましだった。す、と向けられた視線は何かを言いたげに揺れて、私を見ている。長く骨貼った指先が最後のピアスを外すのをぼんやりと見ていた。

「……先帰ってたなら声かけろよ」
「……ごめんなさい」

 そのまま顔を伏せて押し黙ると、短く彼がため息をついて、咳払いをする。ピン留めを外して前髪をぐしゃぐしゃと元に戻すと、浅い息を殺すようにして私の側にかがみ込んだ。

「嫌いになったわけじゃない」
「……わかってます」
「……怒って悪かった」

 する、と取られた指先がゆるく絡んで溶けていく。形をさぐるように触れた指の腹はざらついた剣だこで少し固くなっていて、たまらなくなって目を閉じると、額が重なった。鼻腔いっぱいにロウさんの匂いがして、湿った息が鼻先をくすぐる。

「嫌われたくない、お前に」
「そんなこと絶対にないです」
「あるかもしれねえだろ」
「ないです、絶対」

 そう言ってその瞳を仰ぎ見ると、ロウさんが少しびっくりしたように目を見開いた。それから柔く目を細めて、薄い唇の息が触れる。二度も、三度も重なって、絡んだ舌とぬるい息にいっそ泣きそうなほど苦しくなった。ざらついた犬歯が舌先をくすぐる。骨ばった手のひらが、さぐるように胸の輪郭をなぞる。

「怒ってたくせに」

 少しだけ悔しくなってこぼすと、ロウさんが薄く鼻先で笑って見せる。

「嫌だったら突き飛ばせよ」
「嫌だって言わないの、わかってて言ってるでしょ」
「んなことねえ、お前が嫌なことは、しないようにしてる」

 たまに間違えるけどな、と僅かに口の端をつりあげて、言いかけた私の唇は食いつくように塞がれた。服の隙間に滑り込んだ手のひらが、あまりに冷たくて身を捩る。人の体温よりもずっと低い温度が背中に回って、足の間に割り込まれた膝に堪らず目を閉じた。喧嘩してたくせに、あんなに怒ってたくせに。意地張ってお互い口なんか聞かなかったくせに。なきたいほどに優しい指先が足の付け根を辿るように滑る。思わずこぼれた息に、彼がほんのすこし痛ましそうにして眉根を寄せた。

「線引いて悪かった」
「……ロウさ、ん」
「人間だからとか、白狼だからとか、お前に言われたら嫌がるくせに同じこと言った」
「ロウさ……」
「意地張って口聞かなくてごめんな。――お前に嫌われるのが、怖い」

 すり、と寄せられた額が肩口に埋められて、思わず強く抱きしめた。ずっと頼り甲斐のある背中を手繰り寄せて目いっぱいに首を振る。私が堪らなくあなたが好きだという気持ちが、ほんの一部でも伝わればいいと思った。そうやって不器用にどうにかして私に向き合おうとしてくれることがどれほどくるしくてどれほど愛おしいか、あなたが少しでもわかってくれるのなら、どんなにかいいだろうと思った。

「……私も喧嘩してごめんなさい、意地張ってごめんなさい」
「いいよ、俺が言いすぎた」
「私、本当に大好きなんですよ、ロウさん」
「……そうかよ」
「だから、本当は喧嘩なんかしたくないです」

 ね、と呟いた私に、ロウさんが瞬きをして、笑って見せる。

「……無理だろうな、一緒にいる限り」
「なんでそんなこと言うんですかあ……」
「お前も俺も頑固だから。そんで俺が、お前のそういうところが好きだから」

 ニル、と呼んでロウさんが私の髪をかきあげる。額、こめかみ、首筋に順に辿って、鎖骨に薄く歯を立てられる。細い指が下着を引っ掛けるのをされるがままにして、息を吐いた。人間が人間を抱くみたいにそうして、声が絡まる。

「久しぶりに、好きって、いわれたかも……」

 耳朶を噛む彼の声が、軽く咳払いをこぼして、あ?と低く呟いた。

「いつも言ってんだろ、馬鹿」


「うっ、あ、やだやだやだロウさんっ」
「うっるせえ、声でけえよ」

 手のひら一つに収まる頭を押しつけて、頸に噛み付くと、ニルが呻いて細い指先が丸まった。
 縋るように伸びた指が、シーツを手繰り寄せて力強く握りしめている。ぐっと腰を押しつけて奥を擦ると泣きそうな声を上げながら背中が跳ねた。

「ロウさんっ、ロウさん……っ」
「っあ、聞こえてるって」
「やだっ、ニルって言ってくれないじゃないですか……あ」

 いやいやと首を横に振ってニルが僅かに顔を上げた。浮かんだ涙目があまりにも健気で思わず喉が鳴る。比較的優しく顔を寄せて、そっと口づけると安心したように目が下がった。わかりやすくて、馬鹿で、可愛くて、こんなにも人間らしい感情に振り回されている自分が嫌になった。低く掠れた声で「ニル」と呼ぶと甘く中が締まって息がこぼれる。すっかり噛み跡だらけの背中が力無く沈み込んだ。

「なーーーに終わった気になってんだよ、まだ終わってねえよ」
「うっ、あ、やっ、無理、無理無理無理、もうむり、ロウさあん……」

 涙声の彼女を無視して、引き寄せた腰を打ちつける。薄っぺらい腹がくるしそうに受け止めて、柔らかく揺れた髪の先を見つめていた。ニル、ニル、としつこいほどに名前を呼んで、赤くくすぶる耳朶に口を寄せる。可愛いとか、好きだとか、そんなことでも言ってやればいいものを、上手く言えなくてそのまま飲み込んだ。代わりのようにその騒がしくて甘ったるい声を、少しも忘れないように聞いていたかった。

「っふ、ロウさあ、ん」
「……う、……あー、やばいかも」
「すき、すきっ、だいすきです、ほんとにっ」
「だっから、知ってるって――」

 思いっきりその首筋に噛みついて、逃げられないように体を引き寄せた。高く喘いで力の入らない指先のまま縋るように彷徨う手のひらを絡めとる。頼りない身体の奥で吐き出して、崩れ落ちた。汗ばんだ肌が張り付いて心地よかった。

「…………ニル、」
「…………はあい」
「生きてっか」
「ぎりぎり……」

 重いです、と文句を言ってニルがのそりと下から這い出した。まんまるく背中を丸めてうう、とかやだあ、とか繰り返して静かになった。さっきまで散々な声で苦しんでいたせいで声がかさかさと掠れていて、そういう痛ましさと健気さが何より愛おしかった。

「……容赦なくてびっくりしました」
「うるせえ」
「でもだいすきです」
「あっそ」

 背を向けた身体に腕を回して、引き寄せる。大人しく収まった丸い旋毛が下を向いて、甘えるように擦り寄った。この細い肩を、甘ったるく伸びる声を、うるさいほどの笑い声を、憎たらしいほど愛していることなど、少しも知られたくなかった。

「ロウさん」
「……ん」
「大好きです」

 軽く髪をすいて顔を埋める。骨から一途にこの女を好いていた。きっと、彼女よりも、ずっと、深いところで。