生き物である限り、全てを守ることなど不可能だ。
万物を司る神ですらきっと不可能だろう。神獣だなんだと崇められようとも所詮は生き物に過ぎない己になどもっと不可能なことだ。なるだけ取りこぼさないようにと必死に開いてきた手のひらは傷だらけで、とても何かを愛せそうにはなかった。選んだ孤独の冷たい海で、ずっと何かを探している。
───ヒーロー本部報告書より、件の報道にて損壊、建物二〇件、生存者三二名、うち負傷者一〇名、OKOGAMA-Cによる精神的負傷者二名、死者───1名。
「クソッ」
バンッ、と壁を殴ると僅かに軋んで揺れた。拳がじんわり血を帯びていくのがわかって、生温い体温に嫌気がさした。壁にもたれて引きずられるようにしゃがみこむ。皮が剥けるほど洗ったはずの爪の隙間からはまだ、土と硝煙の匂いがするようだった。
「ロウ、報告書は俺の方で出しといたよ」
わずかに目を上げると、伊波がいた。居た堪れないような、なんとも言えない顔で眉を垂れて、そっと隣にもたれる。「……あいつらは」掠れな声で辛うじてそう問うと、伊波はちょっと迷ったようにして、それから薄く笑う。
「まだ揉まれてるよ、順番に事情聴取中」
「……そうか」
「二人とも先戻っててくれってさ。帰ってアジトの風呂でも沸かしといてやろ」
「……大丈夫か」
見上げると、伊波が少し首を傾げた。黙って視線を送る小柳に、ああ、と呟いてそれから薄く笑う。定まらない焦点が続けて口を開く。
「コザカシーの精神攻撃を食らった二人は無事に正気を取り戻したってさ。後遺症の確認があるから、無事かどうかはまだこれからだけど───」
「じゃなくて、お前が」
は、と開けた口をそのままに伊波が「あ、」と声を漏らす。「俺?俺か……」と繰り返して、丸い目が緩く下を這った。指先が微かに震えている。呼吸が浅い。伊波ライがどこまでも人間らしいのを、己はよく知っている。
「……星導は知らねぇが、あいつもそれなりに長く生きてやがるからな、その辺は自分でどうにかできる。カゲツも人だが隠密だ、それなりに折り合いの付け方も知ってんだろ。……お前は?」
じっと見つめると伊波がやわく息を吐いた。肺の上澄みで息をして、それから糸が切れたように顔を覆う。ずるりと丸い旋毛が小柳の隣にしゃがみ込む。吐き出しそうな程に狭まった喉で、伊波がぐしゃりと髪を握りつぶした。
「頼む、ロウ、見逃して」
「……おう」
「……俺だってヒーローなんだよ」
「わーってるよ」
ぐっと息を飲み込んで、黙って肩を貸してやる。救えないのは、何度繰り返しても慣れようにもなかった。取りこぼさないように必死にかき集めたはずの力は、それでも万物に届きそうにもない。果てしない空虚に向き合うような感覚に天を仰ぐ。なあ伊波、救えないってなんだろうな、人のお前はまだそうやって悔しがれるけれど、人ですらない俺はどうやって向き合えばいいんだろう。声を殺して静かに涙を流す男の背中を眺めながら、ぼんやりとそう思った。生きていれば守りきれないものもある。救えないものもある。生物である限り、万物には届かない。そんなことは己の方がわかっていた。
切り捨てる覚悟がなければ何も守れない。切り捨てられないことは甘さで、弱さで、戦場において一瞬の隙間だ。そんなことはわかっている。折り合いの付け方ももう十分、わかっている。
「……帰るか、風呂沸かすんだろ」
それでも、何も出てこなかった。何故なら己もまた本当のところはその甘さを憎むくせにずっと抱えて生きているからだ。奪うことに長けているくせに、守ることを望んでいる。とうの昔に噛み分けたはずの葛藤を、今更掘り返している。
*
「……ただいまー……」
しんと静まった部屋に、小さく声が転がった。部屋の電気は小さい豆電球が光っていて、なんとなく彼女の下手でまっすぐな優しさを感じて、眉を下げる。こういう瞬間の己に、ひどく嫌になる。誰かと生きることに慣れてんじゃねえよ、白狼が。そのくせ、悪い気はしなかった。
右肩上がりの文字で書かれた「ロウさんへ」というメモ書きをそっと取り上げる。ラップの敷かれた皿の上には、本当は花の形にでも切りたかったのだろうが、なんとも言えない下手くそな人参の添えられた煮物が置いてあった。『ロウさんへ、お疲れ様です。煮物あっため直してくださいね。ご飯と秋刀魚はレンジの中、お味噌汁はお鍋です。ニル』名前の最後に、控えめににっこりマークが書かれている。なんだこれ、と呟いて、少し笑った。気が抜けると、一気に全身が気だるくて、煩わしかった。
羽織を脱いで寝室に向かう。オトモがずるずると引きずってきてくれたTシャツに着替えて、軽く頭を撫でてやった。肩に乗せると、気遣うように頰を寄せる。それに少し指先でくすぐってやりながら、すっかり安心したように目を閉じている女の甘い匂いのする髪に軽く触れた。
「……なんの夢見てんの、お前」
する、と髪を耳にかけてやると、深く息を吐いた彼女がややばかり唸った。指の背で頬の輪郭をなぞる。当たり前みたいな顔をしていつのまにか隣にいたこの女を、どうにかして守ってやりたいと思っている。腕の一、二本ならくれてやってもいい。そういう損切りの仕方を好まないのは知っているけれど、そういう愛情の伝え方しか、己は知らなかった。
「守るって、難しいんだな」
伊波は上手く眠れているだろうか。星導は、カゲツは、無事に今頃噛み分けて、折り合いをつけていられているだろうか。ぬくい額に己の冷たい額を押し付けて、声を殺す。泣きはしない、もう慣れたことだ。守り切らないのも、何かを奪うことも。それでも柔らかい心と向き合っていたい。信じていたいと決めた人間のために、まだ強くなれる己でいたい。
「……ロウさん?」
「……寝てていいよ」
弱いところなんか、この女に見せてたまるものかと思った。黙って寝ぼけ眼のまま伸ばされる腕を受け入れて、目を閉じる。守れるものなら、目入れたものを守り続けていたい。覚えたての忘れていた感情と、今、こうして向き合っていたかった。