丸い頭を抱え込んで、思いっきりその細い首の根っこを手のひらで覆った。
指の隙間から細い髪がばらばらと落ちていく。少しかさついた唇がぬるい温度で小柳の息に応えた。薄く目を開けると瞼を固く閉じたニルの苦しそうな睫毛の先が見えた。強く頭を引き寄せて、親指の腹でニルの耳をなぞる――「ロウさんいたいっ」
「あ、わり」
ぱ、と手を離すとようやく解放されたニルが肩で息をして半分涙目のまま小柳を見上げた。薄い唇に血が滲んでいる。丸く玉になった真っ赤な血をみつめて、小柳は罰の悪そうな顔で、指先で拭ってやった。
「あー……切れたか。ごめん、気をつけるわ」
薄い皮が破けていかにも痛そうだ。人間の体はやわらかくて脆いので、こういうことはよくあった。小柳の犬歯は人よりも当たり前だがややばかり丈夫である。歯の先が触れれば、ニルのよわっちい唇の皮などすぐ破けた。呻きながら唇を舐めるニルの頬を撫でてやる。丸い頭は少し下がって、そのまま小柳の肩口に埋められた。
「死ぬかと思った」
「おー、そりゃあ大変だな、死なれたら困る」
「他人事だと思ってえ……」
人間は弱いんですよう、と言ってニルがぐりぐりと額を押し付けた。そんなことは言われなくともよくわかっている。というか、なんなら小柳の方がずっとずっとそれに向き合っているのだ。今更お前が知った口を聞くなとなんだか憎らしくなって耳朶を引っ張ってやった。きゃん、と鳴いてニルが悔しそうな声を上げる。馬鹿だと言われても別にいい、今更人なんかと番ってしまったので、本気でこの人間を大事にしようと思っている。
「痛いか?」
するすると絡まった髪をほどきながらそう聞くと、ニルは腕の中でゆるゆると首を振った。
「もう痛くないです」
「そっか、よかった。悪いな」
「大丈夫です、ロウさんなら別に、いいので」
潤んだ目がそっと見上げて、顔が近づいた。細い息が鼻の先にかかる。ぬれた唇を舌先で舐めて、再びその小さな頭を両の手のひらで抱え込む。どうか、この手のひらからこぼれ落ちないようにと願った。そして願わくは、100年でも200年でも、それこそ最後は尾が生えて、とうとう最後は尾も8つに裂けたらいい。そうしてやはりお前は猫又かと言いたくなるほど長生きをしてくれればいいと思う。そんなことはつゆほども知らない瞳がそっと開いて、小柳を見ていた。
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ニルは、どこまでいっても人間の女だった。
転んだら簡単に怪我をするし、治りも遅い。もちろん人間の速度からしたらごく一般的で普通の話だが、小柳に比べれば随分と時間を有した。そそっかしいので生傷も絶えない。出会った頃についた刀疵は今では流石にすっかり傷口こそ塞がっていたが、それでも煤けた跡が残っていた。
「ロウさあん」
甘ったるい声を出して、いかにも眠たそうに目を垂れたままニルが肩にもたれた。コントローラーを触る手を止めずにそれを受け止めて、どうした、と声をかけると深い欠伸が首筋をくすぐった。試合は上場、あっさりと勝った勝利画面によっしゃ、と呟いて、今にも寝息をたてそうな彼女に視線を落とす。彼女の手の中のゲーム機をちらと見れば、クエスト選択画面で止まっていた。細かい字を見ていたら眠くなったのだろう、ガキか、と呟いてゲーム機を取り上げてやる。よくぞこれで薬師が務まるものだと思うが、これで案外腕は良い。
「寝る?」
「……寝ます」
それだけ言って、ニルは今度こそ本当に顔を下に向けて小柳の肩口に沈み込んだ。おい、ここで寝るな、馬鹿。遠慮なくばしばしと背中を叩くと「ひどい……」と呻いてニルが起き上がる。頼りなさそうに眉を下げてベッドに向かう後ろ姿に、思わず手を伸ばした。バランスの崩れた身体がぴくりと跳ねて受け止めた手のひらだけが、眠たそうなままで、生暖かく微睡んでいる。
「今のでめちゃくちゃ目が覚めました」
「よかったな」
情けない顔の彼女に、はっ、と喉で笑って小柳はその首根っこを手のひらで覆った。いつかの唇の傷は、茶色い瘡蓋を被っている。慎重に、傷を避けた。大事にしてやりたいが、大事にするやり方をなにせあまり知らないので、これで良いのかはわからない。けれども大事にした。小柳なりに、だいぶと丁重に扱った。
ニルが小さく名前を呼んで、細っこい指先で小柳の服の端をつかむ。こういう時、人間ならなんて言ってやるのだろう。好きだとか愛してるとか、そういう言葉をかけてやるのかもしれないし、或いは無言でこたえてやればいいのかもしれない。できる限りはこたえてやりたかったが、わからなかった。わからなかったので、そっとその手をほどいて、指を絡めた。己の冷たい手のひらが彼女の体温でぬるまっていくのを感じながら、同じ数だけある指の本数をずっと数えていた。