底の高い靴を買ってやった。
「ヒールって、あまり履かないんですよ」と言って、一本だけ持っているという質素な黒い靴を履いたニルに「まあお前転びそうだもんな」と声をかけたのが半年前だ。それからニルが、底の高い靴を履いているところを見たことがない。本人曰くに、実用性がないからだ。日がなばたばたと駆け回っているニルの足にヒールは似合わない。ぺたんこの靴を引っ掛けて忙しなく動き回っているのがよく似合う。
己の誕生日に「また歳をとったな」という感情以外を滅多に抱かないせいで、ニルが今年何歳になったのか、そしてあと彼女がどのくらい生きていけるのかを、小柳は知らない。何せ100を超えてから小柳は歳など数えていないので、己と彼女の間の差を知る方がよっぽど嫌だった。残りの時間を指折り数えるよりも、少しでも長く彼女が、白狼の寿命のほんの一部でもともに生きていられるように、見ないふりをし続ける方がよっぽど良かった。
誕生日に何をやればいいのかを考えて、最初に目についたのが、底の高い靴だった。それもつんととんがった、ピンヒールだ。足のサイズなんてわからなかったので、勝手に靴の裏を見た。店員に「贈り物ですか」と聞かれた時はよっぽどその場で帰ろうかと思ったが、どうにかして手に入れた靴は、青くつやつやと輝いている。足首のストラップに、リボンがついているのが好きだった。何となく、そういうのがニルには一番、似合うと思った。
「やる」
ぶっきらぼうにそう言って渡した小柳に、ニルがしぱしぱと睫毛を上下に瞬かせる。
「え、ロウさんどうしたんですか」
「誕生日だろ」
ニルは少し考えて、「ああ」と声を出す。小柳ほど自分のことに無頓着な方ではないので、忘れていたわけではないだろうが、小柳から何かもらうなど思ってもいなかったのだろう。少し気に食わなかった。ありがとうございますと、にこにこと笑って手を伸ばした彼女の、やわい指先を取る。
「そこ座って」
「え、なになに、何ですか」
「いいから座れって、そんな顔しなくても何もしねえよ」
明らかに不審な目を向けるニルにちょっと笑って、小柳は目を伏せた。大人しく渋々椅子に腰を下ろしたニルの、足先にしゃがみ込む。すっ、とその甲の高い、指先の揃った爪先に触れると、ニルが少し体を捩るのがわかった。ひやりとした爪先が震える。小柳が箱を開けるのと、ニルがぐっ、と喉を飲むのが殆ど同時だった。
「ロウさん、」
言いかけたニルに、しー、と小柳は人差し指を唇に当てる。黙ってろ、の合図だった。これをされるとニルは何の疑いもなく静かに押し黙るのを知っていたので、まんまときゅっと唇を結んだ彼女をちらりと見遣って、小柳は靴の先に足を通す。
ゆっくり、爪先をしまって、踵をさしこむ。細く骨っぽい足首の上でストラップをとじると、ぱちんと短く音が鳴った。両脚をそうして、ゆっくりとニルを見上げる。恐る恐るこちらを見下ろすニルが、顔を覆った指の隙間から瞳孔を揺らがせて、目に涙を溜めていた。
「……え、お前泣いてんの?」
思わずぎょっとした小柳に、ニルが情けない声をあげる。
「や、なんか、ほんとびっくりしちゃってえ……」
「泣くほどじゃねえだろ、びっくりさせんな」
「だって、いや、なんか、ほんと、ロウさんかっこよくて」
ニルはそういうといよいよ顔を覆って頭を縮こませた。耳がすっかり垂れた犬のようにしおらしい態度で、あー、とかうー、とか唸る彼女に、小柳は思わず喉の奥で笑った。喜ぶだろうとは思っていたが、泣くとは思っていなかった。そっとその顔を覆う手を取り上げて、目の縁を赤くした彼女の顔を覗き込む。
「立てるか」
「う、はい」
「あんま泣くなよ。その可愛い顔が大変なことになっても知らねえぞ」
ぐい、と上に引っ張り上げると、ニルが少しバランスを崩しながら立ち上がった。ゆらりと揺れて、ヒールが床と擦れてカツ、と音を立てる。ニルの体が少し傾いて、引き寄せた小柳の腕の中におさまった。
「どうしよう、ロウさん、私今、本当は一人で立てるのに、一人じゃ立てないって言いたい」
戸惑う目でこちらを見上げたニルに、小柳は浅く口元を緩めて、その細い身体を強く抱きしめた。
「馬鹿、一人で立とうとすんなよ」